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* * *
「ミカルっ! おいっ、まだ生きてっか!?」
「……ベル……ナ……?」
ベルナは牢の前に駆け寄って叫んだ。思わず握りしめた鉄格子は硬く冷たく、とてもこじ開けられそうにない。
ベルナの声に反応し、ミカルは弱々しく顔を上げる。牢獄の中の後輩はひどいありさまだった。きっと憲兵達に手ひどくやられたのだろう。平民が貴族を害すのは大罪なのだから。
便宜上といえど階級以外での差がないとされる軍部の中で、貴族軍人を相手にやりあったわけではない。弱き者を守るため、悪の貴族と対立したわけでもない。この青年は、ベルナが好んでつるんでいた悪友は、民間人の貴族令嬢を言葉巧みにたぶらかしてかどわかしたのだ。
それは高潔さを重んじる軍人にあるまじき卑劣な行いで、けれど誇り高い軍人にそんな濡れ衣を着せたもっと卑劣な者がいる。ベルナはそう信じていた。たとえそれが、今となっては根拠のない願望だとしても。
「あれから、何日経った……?」
「……一週間だ。お前の辞表届はいったん取り下げられた。処遇が決まるまで、退職はお預けだとさ。どっちみち憲兵達はお前の身柄を返そうとしねぇだろうがな」
「そうか……」
うつろな群青色の瞳がベルナを映した。陽の光の差さない地下牢で、過酷な尋問ばかり受けていれば時間の感覚も狂うだろう。鼻薬を嗅がせた看守から聞き出した、憲兵達がミカルに対して行っている拷問まがいの違法な取り調べの話を思い出し、ベルナは奥歯を噛みしめた。
「……はは。まさか、こんなことになるとは、な……。恨みを買った者が、多すぎて……誰に、陥れられたのかも……わからない……」
切れた唇から自嘲めいた言葉が紡がれる。腫れた顔で無理に笑おうとしても痛ましいだけだ。ところどころが裂けて血のにじむシャツから垣間見える無数の傷跡から目をそらすようにベルナは俯いた。
「大将閣下が、私を告発した、と……憲兵達は、わけのわからないことを……言っていたが……。閣下の名を騙る、不届き者が誰なのか……お前なら、わかるんじゃないか……? お前は、こういうことにも、詳しいだろう……?」
「……お前を陥れたのは、ディエル大将閣下ご本人だ」
「ぁ……?」
吐息めいた声がこぼれた。か細く震えるその音はいっそ間抜けに響く。ミカルの顔を直視できないまま、ベルナは認めたくない現実を突きつけた。
「孫娘は不埒な将校と駆け落ちしたんだ。きっとそいつに穢されただろうから、離縁させて修道院に入れたいんだと。……閣下は、陛下にそう上奏したそうだ。お前が捕まった日の昼のことだよ。これを聞いた時は俺も耳を疑ったさ。まさかディエル大将が、お前を切り捨てるなんてな!」
「そんな……嘘だ……嘘に決まっている……! そんなわけが、」
「嘘だって思うだろ!? でもな、これが現実なんだよ! 現実になっちまったんだ! 何人ものお偉方が聞いたんだ! わかるかミカル、お前はいいように利用されたんだよ! 閣下はどうしてもロザレイン様と殿下を離縁させたかったから、お前をダシに使ったんだ!」
もうミカルには、彼を守ってくれるものなんてなかった。ミカルの最大の後ろ盾だったヴァルムートが、保身のためにミカルを売ったのだから。
これが貴族のやり方だ。割を食うのはいつも平民。信じて懐けば必ず損をする。どれだけ可愛がってもらっても、どれだけ尽くしていても、その時が来ればあっさり手のひらを返されてしまう。だからベルナは貴族が嫌いだ。元から好きでもなかったが、この件でよりいっそう貴族階級への憎しみが募った。
「公爵位の大将と、平民将校。人がどっちの言葉を信じるかなんてわかりきってるだろ。たとえ真実がどうであれ、大将閣下が黒だって言えば白いものも黒くなるんだ。……おおかた、陛下と何か密約でも交わしたんだろ。ロザレイン様側に非があったことにして、でっちあげた間男にも責任を背負わせれば、これ以上のごたごたもなくすっぱり別れるとかなんとかな」
今ではミカルとロザレインは皇太子妃に横恋慕した身の程知らずな平民と、悪い男に引っかかった世間知らずな令嬢だ。婚約者に裏切られて傷心の皇子様は心の清らかな街娘に慰められて、彼女のほうを新しい妃にしたがっている。おいたが過ぎた馬鹿な令嬢は修道院に送られて終わりだ。
一週間にも満たない夫婦生活の落としどころとしては最適だろう――――では、高貴な少女を傷物にした間男は一体どうなる?
「……安心しろ。脱獄の準備は進んでる。仲間思いの同期と先輩と、上官思いの部下がいてよかったな」
ミカルは冤罪だと、彼の元部下達を筆頭にして声が上がっている。大隊長であるベルナとローディルが同様の訴えをしているせいか、ガウスド大隊やウェンザード大隊内でも追従の動きはあった。だが、覆せない。被害者の祖父が、偉大なる将軍が告発者で、この国の有力者達が証人なのだから。
皇太子夫妻の離縁問題について皇帝ユストゥスと大将ヴァルムートが話し合う場に、多くの有力者が招かれていた。ヴァルムートの告発はその場で行われたのだ。ユストゥスもその告発を真とした。皇太子夫妻の離縁はすぐに成立するのだろう。見せしめにされる、一人の将校と引き換えに。
けれどそれは、あってはならないことだ。だからベルナ達は立ち上がった。ベルナの顔の広さとローディルが振るえるウェンザード家の権力、そして元セレンデン大隊の軍人達の統率力さえあればミカル一人ぐらい助け出すことはできる。手段さえ選ばなければ、だが。
「……その必要はない。何も、お前達が……罪を犯す、ことはない……だろう……? ……これは、仕方のないことだ……」
「仕方がないってお前……!」
しかしそれを、他ならないミカルが否定する。ミカルは弱々しく笑った――――私は罪人だからだ、と。
「何言ってんだ? おい、どういうことなんだよミカル!」
「……ロザリィのことを、頼んだぞ。どうか、悪いようには、させないでくれ……」
ミカルは答えなかった。代わりに吐き出されたのは切実な願いだ。しかしその頼みに、ベルナもまた何も返すことができなかった。
* * *
「私は、私欲のためにロザレイン嬢をかどわかした。お慕いしていた方が、他の男の妻になるのが耐え切れなかったからだ」
憲兵達が望む言葉を紡いだのは、拷問に屈したからではない。
「辞職を決意したのは、永遠に彼女の傍にいたかったからだ。彼女のことは、ディエル領で囲うつもりだった。もし目を離せば、彼女はきっと逃げてしまうと思ったからな」
穴だらけの証言でも問題はなかった。ヴァルムートの告発と、ユストゥスの容認があるのだから、罪人の自供が多少あいまいでも問題なく受理されるはずだ。
案の定、ミカルの自白はヴァルムートの言と若干食い違っているにもかかわらず、訂正の声は上がらなかった。ミカルが認める罪の形がどんなものであれ、ロザレインの修道院送りは変わらないからだろう。これでサージウスは後顧の憂いなくルーナを妃に据えることができる。
「幼いころから彼女のことを見ていた。彼女を一番愛していたのは私だ。それなのに彼女は私を拒み、私の手の届かないところに行ってしまった。これは私に対する裏切り以外のなにものでもない。それがどうしても許せなかった」
醜くおぞましい嘘は案外すらすらと出た。これが自分の本性なのだと、こんな妄想を心の奥底で思い描いていたのだと、自分でも信じてしまいそうになるぐらいにあっさりと。
「彼女が泣き叫ぶさまは何より美しい。無垢な彼女を私の色で染めるのはこのうえない悦びだ。皇子に穢される前に助け出すことができてよかった。涙に濡れながら甘く啼く声も、色づき白濁に染まったなめらかな肌も、闇の中で淫らに浮かぶ肢体の味も、知る者は私しかいないのだから」
あるいは嘘でもなんでもなく、これこそが自分の内に眠る獣性だったのだろうか。理性の鎖で律していなければ抑えきれないけだものの欲望。どんな気取った言葉で飾っても、それを剥げばたちまち卑しく浅ましいものが溢れ出る。これはきっと、その証明だ。
「無理やり彼女のすべてを奪い、どれだけ嫌がっても彼女に私の証を刻みつけたんだ。これでもう、彼女は私以外の誰のものにもなれないだろう?」
下卑た告解は、聴衆が耐え切れなくなって無理やり終わらせようとしても続けた。蔑む眼差しも、振りかざされた正義の暴力も、虚構の爛れた夜を語るミカルを止めるには至らなかった――――そうだ、もっと私を見ればいい。哀れな少女を力づくで凌辱した卑劣な犯罪者として刻みつけろ。ロザレインは何も悪くない。すべては私が勝手にやったことなのだから。
何度同じ自白を繰り返しただろうか。そのおかげか早急に開かれた軍法会議では滞ることなく判決が下され、処刑の日もすぐに来た。
暁の闇の中、後ろ手に縛られて跪くミカルには七つの銃口が向けられている。銃殺刑は軍人に下される最も重い刑罰だ。己への裁きをその目に焼きつけ心からの懺悔をしろということなのか、目隠しはされなかった。だが、何度も死線をくぐり抜けて来たからか、あるいは一度死んだ身であるせいか、恐怖などは感じない。
ミカルの信頼はすでに地に落ちていた。自分達の上官がこんな最低な男だと知って、部下達もきっと目を覚ましただろう。ベルナとローディルもそうに違いない。ミカルを軽蔑し、ミカル・セレンデンという男にかかわってしまった自分を恥じてくれればいい。そうすれば、ミカルを助け出そうなんて馬鹿なことは二度と考えないはずだ。
ロザレインにとっても非常に不名誉な作り話だ。きっとこれから、彼女は憐憫と好奇の目に晒されるだろう。だが、それは一時的なものだ。俗世から隔離された静かな修道院にいれば、噂も下世話な視線も遮ることができる。これでロザレインは悪者にされなくて済むだろう。悪いのは、彼女を手籠めにした将校ただ一人だ。
ロザレインの純潔はミカルに奪われた。穢された皇太子妃は、悪魔のごとき平民の子を宿しているかもしれない。もちろんそんなことはないが、それを嘘だと人々は断じることができないはずだ。彼らはヴァルムートを、ひいてはミカルを信じるしかないだろう。これで万が一にもロザレインとサージウスが復縁することはなくなった。サージウスとルーナの仲を遮る皇太子妃などどこにもいない。
サージウスはルーナを妃とし、表舞台に上がれなくなったロザレインは閉じられた修道院で一生を終える。もうロザレインが悪意に晒されることはない。皇子サージウスと街娘ルーナの美しい恋物語に、悪役令嬢ロザレインは登場しなくていいのだ。
悪役に仕立て上げられるのは気分のいいものではない。だが、彼女を貶めるためのものでないのなら甘んじて受け入れよう。たとえ泥を被るとしても、それでロザレインを守れるのなら本望だ。
ヴァルムートに裏切られたなどとは信じたくなかった。しかし現実は変えられない。ベルナの言った通り、ユストゥスとヴァルムートの間で何かがあったのだろう。両家が負う傷を最小のものに抑え、皇太子夫妻を円満に離縁させ、ルーナの正当性を人々に認めさせるにはどうしたらいいか。それを話し合った結果がこれに違いない。
だからミカルは、ヴァルムートを恨まなかった。もともと日の当たらないところで目だけ爛々と輝かせながらうずくまっていた惨めな命だ。学や金はもちろん、帰るところはおろか頼れる者もいない孤児。それが幼いミカルだった。
あの時ヴァルムートに見出だしてもらえなければ、きっと本当に裏社会の住人になっていただろう。光の中で暮らし、まっとうな人生を歩ませてもらった礼としてはちょうどいい。
この身と引き換えにロザレインの安寧が保証されるなら、喜んで捧げよう。守りたいものなどロザレイン以外にはない。ミカルが死んでも、きっと遺された者達が彼女を守ってくれる。
刑吏が号令を下した。それが、ミカルが最期に認識できた音だった。
銃殺隊の銃がいっせいに火を噴いた。正面から何発もの弾丸に貫かれ、ミカルはそのまま倒れ伏す。明けの空を裂くように迸った鮮血が、大地を赤く染めた。




