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ドレスの裾を軽くつまみ、朝露に濡れる芝生の上を歩く。しんとした夜明けの冬の空には鳥の鳴き声だけが響き渡っていた。
ロザレインの後に続くのは、昔からディエル家の本邸に勤めている一人の老いた侍女だ。まだ空が明るくなりきらない早朝から庭園を散策することにしたのは、偶然の早起きがもたらしたただの気まぐれだった。てきぱき動き回っているのは使用人だけで、ヒルデリザもさすがにまだ寝ている。時間を持て余していたところ、侍女に提案されたのだ。少しお外を歩かれてはいかがですか、寒くはありますが気分がすっきりしますよ、と。
「綺麗……」
ロザレインが足を止めたのは、庭園に広がる湖の岸辺だった。澄んだ湖は朝焼けの色に染まっている。たまにはこちらの屋敷を訪れるとはいえ、ロザレインが生まれ育ったのは帝都だ。十四歳の時にサージウスとの婚約が内定してから長らく帝都を離れたことがなかったこともあり、ディエル領の屋敷はとても懐かしいものになっていた。かろうじて覚えている景色も、改めてこの目で見るととても新鮮に映る。
「ねえ、この寒さで湖は凍ってしまうかしら?」
岸辺に建てられた小屋にロザレインの視線が向かう。確かあそこには湖で遊ぶ道具があったはずだ。夏に訪れたときに、ミカルやヴァルムートにボートを漕いでもらったことがあった。
湖上で揺られるのはきっと楽しいだろう。今は寒すぎてできないだろうが、次の夏にはボート遊びをしようか。あるいは春の風を感じながら乗るのもいいかもしれない。
「そうですねぇ……。この辺りは雪も積もりませんし、あまり冷え込みませんから、大丈夫ではないでしょうか。もし凍ってしまうとしても、表面だけの薄いものになるかと。朝方には凍っても、昼頃には溶けていますよ」
「そう、ならいいわ。春までにボートを使えるようにしておいてちょうだい。ミカルが来たら漕いでもらうから」
「かしこまりました。……お嬢様、はしゃぎすぎて身を乗り出し過ぎませんよう」
「平気よ。そこまで子供じゃないわ」
少しむくれるが、侍女はくすくすと笑っている。だってお嬢様は一度湖に落ちてらっしゃいますから、なんて言われれば目を丸くするしかなかった。
「そうなの?」
「お嬢様がまだ四歳ぐらいの時の春先でしたかしら。みなさんが目を離した隙に、お嬢様ったらお一人でこの湖に遊びに来てしまったんですよ。すぐにわたくし達も気づいて追いかけましたけどねぇ。足を滑らせたお嬢様を、飛び込んだミカル様が引き上げて。そのあと、お二人で仲良くお風邪を召してらっしゃいましたっけ」
「全然覚えていないわ……」
「大丈夫ですよぅ。もしまた落ちてしまっても、ミカル様とご一緒でしたら助けていただけますから」
「とっ、当然でしょう!」
恥ずかしい思い出から目をそらすように足早に屋敷へと戻る。ヒルデリザはもう起きていた。
「おや。早いですね、ロザレイン。どこかに行っていたのですか」
「おはようございます、お祖母様。少し庭園を散策していましたの」
「そうですか。外の風に触れるのはよいことです。ここは都と違って余計な喧騒がありませんし、動けばその分食も進みます。これからも続けるとよいでしょう」
孫を出迎えたヒルデリザはそれだけ言って食堂に向かう。ロザレインもそれに続いた。朝食のパンは昨日と同じもののはずなのに、何故だか昨日よりおいしく感じられた。
* * *
「今日は面白いものが見れそうだ」
窓から夜明けの空を見上げて青年は嗤った。そんな彼の背中を、ソファに座った少女が無機質な瞳で見ている。感情をどこかに落としてきてしまったようなその少女に一瞥をくれることなく、青年は背を向けたまま口を開いた。
「首尾はどうです?」
「……あんまり。少なくとも、準備ができたとは言えない。隙を見て何度も嗅がせたから操れるには操れるけど、使えた時間が短すぎるの。多分、贈らせた煙草も吸ってないよ。だから長くはもたないと思う」
「では、一筆書かせたり二言三言喋らせたりすることは?」
「それぐらいなら……。でも、すぐに正気を取り戻すけど?」
「それだけできれば十分です。後は隠居すると称して、どこかに幽閉しておけばいいのですから」
青年は嗤う。少女は平坦な声で肯定の返事を返した。
「それにしても、ロザレインのこらえ性のなさには驚きました。妃の立場に固執すると踏んでいたのですがね。ですが、計画に支障はありません。風は私達のほうに吹いています。ディエル大将が釣れたのですからね。さあ、偉大なる老いぼれ軍人を足掛かりにして、軍部の掌握を進めましょう」
「軍人……」
青年の言葉を反芻するように、少女はその音を舌先に転がす。造り物めいた瞳に一瞬だけ光が灯った。彼女の内に眠る暗い激情を感じ取り、青年は愉悦に顔を歪めてちらりと少女を見た。
「この国は、己の罪で身を滅ぼすのです。貴方のすべてを奪ったものが、貴方の手のひらの上で踊り狂って自滅する。ふさわしい末路だとは思いませんか?」
「……それは、本当にわたしの手?」
「当然でしょう。この物語の主役は貴方ですよ、お姫様」
青年はゆっくりと少女のほうに歩み寄った。ソファに片方の膝を乗せ、少女にぐいと接近する。彼が自分の手に口づけをしても、少女は顔色一つ変えなかった。
* * *
「少佐。こちらで最後になります」
「ああ。……今までよくやってくれた、レフ中尉。小官が大隊長の務めを果たせたのは、貴官らのような部下がいたおかげだ」
シュリスから渡された書類を受け取る。ミカル・セレンデンの軍人としての最後の仕事。それは、第二竜騎兵大隊の指揮権を放棄する書類に、セレンデン大隊に所属する中隊長や小隊長達が見守る中で署名することだった。
「そんな……! 自分こそ、少佐のような上官のもとで働けて幸せでありました! セレンデン大隊の者にとって、セレンデン少佐の指揮するこの大隊に所属できたことはかけがえのない名誉であります!」
微笑むと、シュリスはばっと敬礼した。通常の敬礼よりやや視線が上向きで顎が前に出ている。しゃんとしろ、とすかさず注意をするとシュリスは体勢を直したが、どうやら泣きそうになっていたらしい。
シュリスだけではない。集った他の隊長達も敬礼していたが、上を向いていたり下を向いていたりとばらばらだ。強く唇を噛んで涙をこらえている者もいる。
「じっ、自分がここまでこれたのはっ、少佐の厳しくも温かいご指導の、おっ……おかげで……!」
「悲しむ必要などないだろう。小官は私情で職を辞すだけだ。これが最後の別れになるわけではない」
これまでの思い出が頭をよぎる。部下や同期、そして上官。彼らと過ごした日々のことを。軍人としての職務や訓練は楽なものではなかったが、決して悪いものではなかった。
「胸を張れ。小官のような未熟者が、貴官らのような部下を持てたことを心から誇りに思う。……もし貴官らが腑抜けて無様を晒すなら、小官のマスケットの銃口は貴官らに向かうがな」
「「はっ!」」
しかめ面になってみせて低い声でおどせば、部下達は一瞬で姿勢を整えた。それでいいと鷹揚に頷いて相好を崩す。
軍の司令本部から告知された退職日まであと二日だが、それより早くすべての仕事が終わってしまった。もうこの城に来る必要はないが、あと二日はただの軍人としていなければいけない。何の権限もない、半分民間人のようなあやふやな所属だが、仕方ないだろう。
「あの、少佐、本日終業時間後に何かご予定は……?」
「いや、特に何もないが?」
時刻はすでに夕方だ。日勤の者にとっての通常終業時間はあと一時間に迫っている。ミカル自身の仕事はもう何もないので、今日はこのまままっすぐ帰るつもりだった。
「で、では! 日勤の者と非番の者のみで恐縮ですが、僭越ながら送別会などを開かせていただきたいと愚考する次第でありますっ! なにとぞお越しいただけないでしょうか!」
ぐしぐしと目元をぬぐったシュリスが、鼻声をごまかすように大声で叫ぶ。完全な私情で軍服を脱ぐ決意をしたのだからそこまでされるわけにもいかないが、部下達の心遣いは嬉しかった。肯定の返事をしようと――――
「セレンデン少佐というのは誰だ?」
開け放たれた扉の先にいたのは憲兵達だ。軍内の治安を守る、軍人による軍人のための軍人を取り締まる警察。憲兵隊はたちまち執務室を制圧するように壁際に整列する。その中で一人、隊長格らしき男がこつこつと革靴を鳴らしながら部屋の中央にやってきた。
「小官だ。憲兵が何の用だ?」
「そうか、貴官か。……ではミカル・セレンデン、貴官を誘拐の容疑で逮捕する」
「なっ……!?」
ざわめきが執務室を満たす。憲兵隊が一斉に構えた銃口がそれを止めたが、闖入者に対する部下達の敵意と不信感はまだそこにあった。
「銃を下ろせ。いかに憲兵とはいえ横暴な振る舞いは許さん」
「何もしませんとも。無実の者をおどしで傷つけるほど腐っちゃいない。ただまあ、忠義に篤い少佐の部下が何をするかわかりませんのでね?」
「……貴官ら、何もするな。どうやら何か勘違いがあるらしい」
立ち上がったミカルが部下達に一言告げると、部下達は何か言いたそうな顔をしながらも渋々おとなしくなった。懐のリボルバーに手を伸ばしていた者も、むすっとしたように両手を上げる。
憲兵隊の隊長はいやらしく笑った。彼はそのままミカルの腕を乱暴に掴んで後手に回して手錠をかける。ひねられた痛みに思わず顔が歪んだ。
「本当に勘違いかどうか、ご自分で確かめてみるといい。……危なかったぜ。憲兵から逃げられると思うなよ」
隊長の視線は机にあった最後の書類に向いていた。ミカルがもういつでも帝都から離れられると、この男も気づいたのだろう。ミカルが軍人ではなく民間人になれば、憲兵の出る幕はない。
「そう言われても、小官に心当たりはないのでな。誘拐だと? 小官が誰を誘拐したのか教えてほしいものだ」
「決まってるだろうが。行方不明のロザレイン妃殿下だよ」
――――足元から何かが崩れて世界がぐらりと傾く、そんな気がした。




