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午前の訓練を終え、ミカルはまっすぐに食堂に向かった。午後からは書類の整理をするつもりだ。早めに食べて作業に取り掛かろうと一人黙々とフォークを口に運んでいたミカルだが、そんな彼を周囲の軍人達はみな遠巻きに見ていた。
「セレンデン!」
「……ウェンザード少佐か。何故ここにいる。何か問題でもあったのか?」
そんな中、つかつかとミカルに歩み寄ってくる青年がいた。このファタリア城にいるはずのない、ミカル以外の竜騎兵大隊隊長。凛々しい顔を怒りに歪め、ローディルはばんとテーブルに強く手のひらを叩きつけた。
「話は聞いたぞ……! 貴様、辞表を出したそうだな!? 何故だ!? 何故そんなことをした!?」
「貴官には関係のないことだろう?」
「関係ないわけがあるか! 貴様と並び立つのに、僕がどれだけ……!」
ローディルはミカルの胸ぐらを掴んだ。どよめきが食堂を満たす。ローディルの手を振り払い、ミカルは襟もとを正した。
「貴官には才能がある。貴官と競り合った時間は、小官にとっても意味のあるものではあったが……小官がいなくとも、貴官は今の地位を築いていただろう。無論、さらなる躍進を遂げることもな。貴官は残り、小官は去る。帝国の名のもとに貴官が歩む栄光に、去りゆく者の影は不要だ」
「……ッ、当たり前だ! だが、貴様が急に軍を辞そうと思ったわけぐらいは吐いてもらうぞ! しょうもない理由で僕の視界から消えるのなら許さないからな!」
睨みつけるように見上げる。ローディルはひるんだように目をそらしたが、すぐにキッとミカルを見据えた。
「まさかロザレイン妃のためか? ロザレイン妃が領地に帰ってもう一月だ、貴様が辞表を出したのも……」
「小官の銃には迷いがあった。このようにふがいないありさまでは、帝国に身を捧げることはできないと気づいただけだ」
ミカルの辞職届が受理されるまであと五日と言ったところだろう。それまでにあらゆる業務の引き継ぎを終える目途は立っている。
セレンデン大隊からはミカルを引き留める声や辞職に続こうとする声も上がったが、それらすべてをミカルは一人で説き伏せた。彼らは軍に必要な人材で、しかし自分は必要ないからだ。守るべき民を、仕えるべき国を、仰ぐべき皇を見失ったミカルがいては、部下達の目さえも曇ってしまう。
だからミカルは一人で職を辞すことにした。退職したら、ロザレインの待つディエル領に行くつもりだ。ミカルの決定についてヴァルムートは異を唱えず、それどころかロザレインの護衛として雇ってやろうと言ってくれた。きっと、彼も軍服を脱ぐつもりなのだろう。
「ウェンザード少佐。貴官は素晴らしい軍人だ。もしも貴官が小官のことを少しでも気にしてくれるというのなら、小官の部下達のことを頼む。貴官であれば、小官も憂いなく後を託せる」
「……後悔するぞ、セレンデン! もう貴様の場所はないからな! これから貴様がどうなるのか知らないが、僕と貴様の部下達の武勇はきっと貴様のもとまで轟くだろう! 喝采を浴びる誉れ高き帝国軍人達を遠巻きに眺め、自ら背を向けた栄光の姿に悔し涙を流すがいい!」
そんな捨て台詞を吐いてローディルは大股で去っていった。その背中を見送り、ミカルは心の中で呟いた。
(なんだ。やっぱりあいつは、いい奴だったんじゃないか)
何かと突っかかってくる面倒な同期。実力は確かだからこそ無下にあしらうこともできなかったが……それとは別に、ローディルと競うのは楽しくもあった。自分達は決して友人ではなかったが、友情にも似た何かの縁はとうに育まれていたのかもしれない。
職を辞したところで今生の別れになるわけではない。ミカルは軍人としての自分に疑問を抱いてしまっただけで、同胞達にまで失望したわけではないのだ。あの時の軍部はヴァルムートの色が強かったせいか、ロザレインを貶めてルーナを持ち上げるという者はあまりいなかった。ローディルもそうだ。
それに今、寵姫ルーナの存在はかつてほど受け入れられていなかった。結婚式からわずか数日で皇宮を去った皇太子妃と、彼女を連れ戻しもしない皇太子。その皇太子が招いた寵姫を、人々は得体の知れない何かのように見ているのだ。
以前のように美しい恋物語が巷に流布され始めてはいた。だが、早々に身を引いた皇太子妃を物語の悪役のように図太く傲慢な令嬢だとみなすのに読者はためらいを覚えているのかもしれない。「むしろ彼女も政略結婚の犠牲者で、自分が皇子に望まれていないとわかっているからこそ自ら身を引いたのでは?」なんて、ロザレインを憐れむ声もちらほら聞こえるぐらいだ。
無関係な者達が好き勝手に囁く憶測に、いちいち耳を傾けている暇はない。見当違いの憐憫、侮蔑、憎悪、嘲笑。そのどれもがロザレインの名を傷つけ、けれど同時に彼女を守る。
一度芽生えてしまった不信感をぬぐい去ることは容易ではなかった。だからこのような状況であれ、ミカルは退職届を取り下げない。ロザレインはもう“皇太子妃”ではないし、いつ人々が手のひらを返してロザレインを貶めようとするかわからないのだから。
* * *
「まったく。殿下も中々無茶なことをやりなさる。愛しい方と睦み合うのは結構ですが、多少はわきまえていただきたいものですね」
「だが、この機を逃せばもうルーナを妃に据えられないだろう? ロザレインと離縁したところで、他の女が余にあてがわれるだけだ。ならばまだロザレインが余の妃であるうちに、他の女が横槍を入れられない状況を作らねば」
ため息をついたコーリスに、サージウスは苦笑を返した。親友は軽く肩をすくめるものの、それ以上の否定はしない。当然だ、彼だってこうなることをわかっていてサージウスの背中を押したのだから。
サージウスの妃になったその翌日にロザレインは出奔し、今はディエル領にいるという。矜持ばかり高く積み上げた令嬢は、自分が軽んじられたのがよほど気に食わなかったのだろう。
サージウスにしてみれば無理やり取り付けられた縁談だ。破談になったところでまったく困らないし、早く離縁したいとさえ思う――――だが、何事にも順序というものがある。
そもそもサージウスには心から愛している少女がいた。ルーナ以外の女はすべて無価値だ。誰を見ても彼女に劣る。この世のどんな女も、ルーナの足元にも及ばない。
女という生き物は、貧弱でつまらなくて、無知で醜悪な存在だ。口を開けば中身のない空っぽのことしか言わないし、造られた美しさを愚かさと怠惰さの言い訳にする。みな、金と権力と外見に惑わされて、どんな相手にも媚びを売る恥知らずのけだものだ。
けれどただ一人、ルーナだけは違っていた。彼女は他の女のような卑小なものではない。もっと尊くて、純粋で、清らかな女だった。
サージウスは賢く、人を見る目に優れていた。少なくともサージウス自身はそう思っているし、彼の周囲の者達もそう彼を讃えている。事実サージウスは頭がよかった。尊大な自尊心を持つ彼は、見目よく生まれた自分の外見と、人を従える力と、才能と、皇家の威光を理解している。彼にとっては、自分に群がる者などみんな皇子の自分以下の矮小なモノにすぎなかった。
このコーリスでさえそうだ。コーリスは他の有象無象よりも賢く、サージウスに逆らわず、そしてサージウスについてくることができる。狩りも勉強も、サージウスに次いで秀でているのはコーリスだった。時にはその差が限りなく近い時もある。当然自分には劣るものの、ほぼ対等に競える彼の優秀さが気に入った。だからサージウスはコーリスに、自身の親友になる栄誉を与えたのだ。
サージウスは普段から完璧な貴公子を演じていた。サージウスは天才だ。下々の者の卑しさを見抜きながらも、彼らが望む理想の人物になりきることは造作もない。むしろそうやって夢を見せてやるのも為政者のつとめだろう。
どこに行っても馬鹿な少女達に取り囲まれるのは苦痛の一言に尽きたが、それでもサージウスは笑みを絶やさなかった。心の中でどれだけ彼女達を見下す言葉を吐いても、彼女達には聞こえない。
ルーナと会ったのは偶然だった。コーリスとともに忍んで出かけた街で彼女とすれ違ったとき、運命を感じた。熟した果実のような香りに惹かれて振り返ったとき、少女もまたサージウスを見ていた。
トパーズのような瞳に魅入られたとき、この美しい宝石を手に入れたいと思った。玲瓏とした声を聴き、世界のすべてが鮮やかに色づいた気がした。彼女のことをもっと知りたい。それは、生まれて初めて胸に芽生えた感情だ。
ルーナはサージウスのことを、どこかの金持ちの息子だと思ったようだった。サージウスもそれを否定しなかった。身分の差がどれほど大きな障害になるか、彼は知っていたからだ。
ルーナは最初、サージウスを拒んだ。「あたしは普通の家で生まれ育った田舎者だし、あなたみたいな素敵な人と一緒にいたら身の程知らずだって笑われちゃう」と。その控えめさが新鮮で、こそばゆく、けれどとても心地よかった。
そんなことは気にしなくていいと、サージウスはルーナのもとに通いつめ、様々なものを贈った。サージウスの真剣さに胸を打たれたのか、ルーナはついに折れてくれた。誰の目にもはばかることなく恋人のように寄り添って歩いた。花や食べ物と言ったいずれはなくなる物以外を彼女が受け取ってくれることはなかったが、それでもサージウスはルーナにドレスや装飾品を贈り続けた。いつかルーナがそれを身につけてくれる日を待ち望んでいたからだ。
「嬉しいけれど受け取れない」「こういう物は残ってしまう。もしあたしとあなたの関係が知られたら、きっとあなたが困ることになる」……その言葉と共にルーナはサージウスからの贈り物を突き返したが、その目にはいつも涙がにじんでいた。サージウスが皇子であることを、ルーナはすでに知っていた。身を引こうとする彼女を、サージウスは無理やり引き留めていたのだ。
本当の身分を明かしながらもそれに目をくらませることなく、むしろサージウスを慮れるその優しさと慎ましやかな振る舞いは、他の女達にはないものだ。これがルーナ以外の女であれば、サージウスの金を欲して娼婦のように媚び、サージウスが皇子と知った時点で目の色を変えて付きまとってきただろう。
ルーナは見栄と矜持で自身を飾らない。ルーナの美貌は内面から滲み出る美しさだ。金と欲で造られた美などという下賎なものを鼻にかけている令嬢達は、ルーナの隣に立てばたちまち己の醜さを痛感させられることだろう。真実の愛を育めるのは彼女しかいなかった。彼女以上に皇太子妃にふわしい女は、世界のどこを探したって見つからない。
サージウスの手元に戻った女物の品々は、他人に見られると面倒なことになるというコーリスの助言のもとでロザレインに贈られていた。そのころにはもう、ディエル公爵家の令嬢であるロザレインとの婚約が内定していたからだ。
ルーナのために選んだプレゼントを、どうでもいい女が身につけることには不快感を覚える。だが、いずれルーナが妻になる日の予行練習だと思えば、いつもより自然に微笑むことができた。そうだ、何を厭う必要があるだろう。多くの仕立て屋や宝石店では、商品を身につけた人形が飾られている。この女もそれと同じじゃないか、と。
もともと人形のような女だ。美しく装い、家のために操られる、滑稽な花嫁人形。しかしそれゆえ邪魔でもある。婚約が破談になるような醜聞がロザレインにあるわけでもなく、サージウスが力づくで婚約を破棄することも難しかったからだ。
だからサージウスは、比較的早い段階からルーナを寵姫に据えようと画策していた――――そして、正式にルーナを皇太子妃にする目ができた。
「明日もディエル大将は陛下に直談判をしにいらっしゃいます。陛下はその場に、私の父をはじめとした有力貴族を何人か招かれました。もちろん父の補佐として、私も同席させていただきます。皇太子夫妻の離婚問題は、貴族院も重く見ていますからね。……殿下は、ルーナ様のお傍で彼女をお守りくださいませ」
「ああ、もちろんだ。コーリス、父上達のことをよろしく頼むぞ」
「筋書きに狂いはありません。手筈はすでに整っています。このコーリスにすべてお任せくださいませ」
コーリスは恭しく一礼して立ち去った。あと少しだ。あと少しで、ルーナを万人に認められる妃にできる。そのためにはまず、邪魔な妃に退場を願わなければ。
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