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もしもやり直せるのなら  作者: ほねのあるくらげ
それでも

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11/35

 女中に起こされ、二日酔いにうめくミカルは這い出るようにベッドから抜け出す。陽はとっくに高く昇っていた。彼の意識をはっきりさせたのは、彼女が持ってきた一杯の水ととある便りだった――――ロザレインが呼んでいるので、すぐに来るように。

 指定されたのは何故か皇宮ではなくディエル邸で、それがすべてを物語っている。心を落ち着かせて支度にとりかかり、ディエル邸へと馬を走らせた。

 屋敷の様子はいつもとなんら変わらない。変わりがなさすぎる。若き女主人が昨日結婚したというのに屋敷は平静そのもので、まるで昨日のことなどなかったかのようだ。事実、そうなのだろう。屋敷の住人達は、昨日という日をなかったことにしたいのだ。


「お呼びでしょうか、お嬢様」


 通された応接間には、不機嫌そうな顔でソファに深く沈むロザレインがいた。ロザレインはミカルの顔を一瞥することなく口を開く。


「あの男は、わたくしにはふさわしくなかったわ」


 思ったよりもかなり早かった。わずか一日でその結論に至るほどの何かがあったのだろう。

 しかし、かつてはこんな急な呼び出しなどなかった。ということは、ミカルの忠告が何か彼女に心境の変化をもたらしたのかもしれない。

 それならやはり、あのとき口をつぐんだのは大きな過ちだったのだ。あれが最初の分岐だった。だが、今度は決して同じ間違いを繰り返さない。


「恋というのはもっと甘くて柔らかくて、泥臭くも綺麗なものであるはずなのに。あんな男に恋していただなんて、わたくしは恋に対してひどい冒涜をしてしまったんじゃないかしら」

「心中お察しします。……では、どうなさるおつもりで? まさか、ひとまず冷静になるために屋敷に戻ってきたわけではありませんよね?」


 離縁は決して不可能なことではない。とはいえ、皇太子とたった一日で別れた元皇太子妃ともなれば、いかにロザレインの身分と美貌をもってしても再婚は望めないだろう。だが、むしろロザレインのその後を思えば、多少の不名誉をこうむっても皇子や帝都から離れるべきだ。特にディエル領であれば、静かに穏やかに暮らせるだろう。

 ヴァルムートの功績やディエル家の位を考えれば、いくら皇家とはいえそうたやすく取り潰しにはできない。ロザレインがないがしろにされ、壊れるまで追い詰められたのは、国全体を包む熱気とサージウス個人の性質のせいだ。少なくとも離縁後のロザレインが自領でひっそりと暮らしている限り、帝都にはびこっていた悪気のない悪意は彼女には向かない。今はまだルーナの存在が知れ渡っていないのだからなおさらだ。これから先の人生を歩むロザレインをおびやかすものは何もない。


「当たり前でしょう。戻ってきたのは離縁のためよ。あんな屈辱を受けて、皇宮にとどまる義理はないもの。侍女達や女官長に(こと)づけてから出ていったけれど、もしそれがあの男の耳に入らなくても知ったことではないわ」


 ロザレインは皮肉げに笑う。紫の瞳は静かな怒りを湛えていた。


「帝都には口さがない方が多いでしょうから、ディエル領に行こうと思うの。お祖父(じい)様とお祖母(ばあ)様にはもう手紙を送ったわ。あちらでずっと暮らすことも、お祖母様なら許してくださるはずよ」


 ヴァルムートが不在のディエル領を一人で預かる、ディエル公爵夫人ヒルデリザ。彼女は人嫌いの偏屈家で、夫の異動に合わせて各領地を点々とするより故郷のディエル領にとどまることを選んでいる。ヴァルムートとの仲は決して悪くはないようだったが、豪放磊落な夫は別に自分がいなくてもやっていけるだろうとでも思っているのか放任なところがあった。

 それは息子夫婦が存命だったころやたまに遊びに来る孫娘に対しても同様だ。帰って来るなら歓迎はするが、遠くに暮らしているうちは特に気にも留めない。どうせ元気だろうし、いちいち遠方から口を出しては煙たがれるから、と。

 血縁が相手でも一定の距離感を保つヒルデリザだが、なら完全に他人のミカルに対してはもっと当たりが強いのかと思えばそうでもない。彼女にとっては家族ですら他人だからなのか、それともヴァルムートに引き取られたミカルのことも一応家族として見てくれているからなのかはわからないが。


「お祖母様のお返事が来るまで、わたくしはここで暮らします。もう皇宮には行かないわ。お祖母様の許可が出たなら、すぐにでもディエル領に行くつもりよ」


 妻とはいえ、離縁の手続きをロザレインが自分でする必要はない。ヴァルムートがディエル家の名にかけて腕利きの弁護士を見つけてくるだろうし、そもそもたった一晩で心変わりするだけの何かがあったのだ。婚姻期間が一日では白い結婚も離婚理由の主張としては弱いだろうが、それを抜きにしても離縁が成立する目はある。

 ロザレインがいなければ、これ幸いとサージウスはルーナを招き入れるだろう。皇室の反応はともかく、サージウス自身が離縁を拒む理由はない。外聞はかなり悪いだろうが、離縁の日もすぐに訪れるだろう。


「よい判断でございます。私を呼んだということは、私も同行させていただけるということでしょうか?」

「……ミカルが来たいなら、いつでも来ればいいじゃない。でもまずはとりあえず、ディエル領まで送ってちょうだい。道中の護衛をお願いしたいの。こけにされたと思ったあの男が逆上するかもしれないし」


 ロザレインはうつむきがちになり、持っていた扇で顔を覆った。あらわになっている肩はわずかに震えている。


「……好きだったのよ、本当に。でも、わたくしは何も見えていなかっただけだった。自分の愚かさにつくづく嫌気がさしたわ。あんな最低の、人を人とも思わないような屑を相手に舞い上がっていたなんて」


 もう二度と、あんな男のために泣いてやるもんですか。弱々しい声で紡がれる空虚な誓いに胸が締めつけられる。だが、隣に移動してその泣き顔を見てしまうことをきっと彼女は望まない。ロザレインの嗚咽が収まるのを、ミカルはいつまでも待っていた。


「貴方は、わたくしを助けてくれるのよね?」

「ええ、もちろん。私のすべてはお嬢様のためにあります。お嬢様が望むのならば、私はなんでもいたしましょう。多少お時間はいただきますが、ディエル領にも必ず参ります」


 どれだけ時間が経っただろう。ロザレインは扇子で顔を隠したまま涙をぬぐっている。ミカルはよどみなく答えた。


「じゃあ……じゃあ、これからもわたくしを守ってくれる? もうどこにも嫁げない、出戻りのわたくしを……」

「もとより一生をかけてお仕えするつもりでしたが? 何があってもお嬢様はお嬢様です。くだらない男のために無駄にした時間があったとしても、それでお嬢様に傷がついたことにはなりません」

「……ええ、そうね。その通りだわ。ありがとう、ミカル。貴方はやっぱり、わたくしの……」


 ようやくロザレインは扇子を下ろす。紫の瞳はまだ潤んでいたが、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。

 そして三日後、鬼の形相のヴァルムートが単身帝都に帰ってきた。その翌日には早馬でヒルデリザから歓迎の返事が届いたため、ミカルと数人の侍女を連れたロザレインは一度も皇宮を振り返らずにディエル領へと旅立った。


*


 帝都とディエル公爵領の行き来のためにミカルが取った休暇は二週間だ。幸い旅程に大きな乱れはなく、ロザレインが警戒したような皇子の刺客もなかったため、何事もなく帝都に戻ってくることができた。その足で提出したミカルの辞表届は、まだ受理されることなくとどまっている。

 ヴァルムートはまだ帝都にいた。なんと、皇帝に直訴までしたらしい。軍部の実権を握る老公爵だからこそできた業だ。不思議なのは皇帝がいやに低姿勢で、かつてサージウスの横暴とルーナへの寵愛を黙認したとは思えないありさまだったことだろうか。

 非公式ではあるが皇帝直々の謝罪と帰還を求める書状がロザレインのもとに送られたと言うが、ヒルデリザがそれを一蹴したらしい。ヴァルムート自身、謝罪こそ受け入れるが求めているのは孫娘との離縁だとの一点張りだ。他ならないロザレインもそれを望んでいる。とうのサージウスがロザレインについては沈黙を貫いていることもあり、ヴァルムートの、そしてミカルの怒りは頂点に達していた。


「ええい、あの小僧めが! つくづくディエルの名を馬鹿にしておる!」

「閣下、落ち着いてください。確かにこれはもはや宣戦布告、全面戦争もやむなしといったところですが……これは、明らかに向こうの落ち度です。離縁状は受理されたも同然かと」


 特に今日のヴァルムートは、また血管が切れて倒れてしまうのではないかというほどに機嫌が悪い。皇子が皇宮から消えたままの妃を放置し、市井から寵姫を迎え入れたからだ。寵姫の名は今さら挙げるまでもない。

 ヴァルムートが握りつぶしているのは、つい最近皇子から下賜されたという巻き煙草の箱だ。詫びの品のつもりなのだろう。見慣れない銘柄なのはミカルに喫煙の習慣がないからか、あるいはその辺りで目にできるようなものではないからか。火をつけられたのは封を切られることもなかったその煙草ではなく、ヴァルムートの怒りだけだったが。


「それはそうだが、ロザリィが出ていってからまだ一月も経っていないんだぞ! 皇帝陛下も皇妃殿下も、一体何をしておられるのか……! いかに皇太子殿下といえ、あまりにも分別がなさすぎる!」


 おそらく、皇帝ユストゥスと皇子サージウスの主張は割れているのだろう。皇帝は公爵令嬢のロザレインに戻ってきてほしいが、皇子はこのままルーナを妃にしたい。だからまだサージウスとロザレインの離縁は成立しないのだ。


(考えれば考えるほどわからないな。どうして今回に限って陛下はここまで食い下がる? あのときは、我関せずだったのに) 


 それともミカルが知らなかっただけで、皇宮内では意見が二分していたのだろうか。だが、皇帝夫妻がルーナの存在に否定的だったのならあそこまでルーナを歓迎する空気が生まれるわけがない。皇帝がルーナの存在を容認し、ロザレインを日陰に追いやることに目をつぶったことには変わりはなかった。

 

「ロザリィと殿下の婚約を承諾したのが間違いだった! 皇子ともあろう立場の男ならばあの子を正しく愛して守ってくれると思ったからこそ受けたのに、その結果がこのざまとはな! このままでは……!」


 しでかしたことの重大さを、その身をもってわからせてやろうか。こぶしを強く机に叩きつけ、ヴァルムートは憎しみに満ちた目を窓の外に向ける。皇宮がある方角だ。

 周囲の苦悩も考えずに睦み合う若い恋人達のことを想像すると、自分が自分でなくなるような暗い激情に飲み込まれそうだった。ミカルは慌てて窓から目をそらす。


「どうかお気を確かに。ここで軍部を動かすようなことがあれば、それを逆手に取られます。貴方がひと声かければ、多くの軍人が立ち上がるでしょうが……血と鉄による報復を、お嬢様は決して望んではおられません」

「……わかっているとも」


 ヴァルムートは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。しかし瞳に宿った闘志の炎は消えていない。そこにいるのは救国の老雄ではなく、孫娘を傷つけられたことに怒りを燃やす一人の老人だった。

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