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ロザレインが眠れない夜を過ごしていたころ、ミカルはとある酒場でベルナとローディルと酒を酌み交わしていた。酌み交わすと言ってもそれは和気あいあいとしたものではなく、赤ら顔で騒ぐベルナを挟んだミカルとローディルがちびちび酒を飲みながら睨み合うといったものだが。
「まったく、何故この僕がこんな場所に……僕の家のほうがもっといい酒が……」
「ベルナの誘いに応じたのはお前だろう、ウェンザード。嫌なら帰れ」
「そ、そんなことは言っていない! 安酒で悪酔いした貴様らの醜態が見たいからこそ来たんだ、貴様がつぶれるまで何軒でも見張っていてやる!」
「私はそこまで付き合う気はないぞ……?」
すっかり出来上がったベルナに連れ回される可能性は否めないが、ミカル自身はそこまで酒に強いわけではない。ほどほどのところで切り上げたいところだ。
「ごちゃごちゃうるせぇ! ほらほらお前ら、もっと飲め!」
「何をするんだ、やめろガウスド!」
「何してんだ、さっさと一気に飲まねぇか! まさか俺の酒が飲めねぇわけがねぇよなぁ!? ウェンザードの坊ちゃんは、甘いミルクしか飲めねぇって!?」
「ば、馬鹿にするな! この程度、どうということもない!」
「てめぇは何すました顔してやがんだ! おいミカル、お前も飲むに決まってんだろ! ンな辛気くせぇツラでいられたら酒がまずくなんだ、嫌なことでもあんなら飲んで忘れちまえ!」
ベルナの手によってビールがジョッキからこぼれるほど注がれる。恐らくローディルも酒には弱いのだろう、焚きつけられて飲むものの一気に顔が赤くなった。
「……ロザレイン嬢の結婚式だというのにやけに浮かない顔をしているな、セレンデン。嬉しくないのか。僕は、妹が結婚したら嬉しいぞ」
空になったジョッキを片手に、据わった目をしたローディルが低い声で問いかけた。
今日の飲み会があったことは、ミカルも覚えている。だが、ローディルにそんなことを言われたかは定かではない。酔っていたし、酒の場の席での話ということで会話の内容自体までは覚えていないのだ。ミカルは一瞬答えに詰まったものの、酔いに引きずられるように答えを吐き出した。
「それは幸せになれる結婚だからだろう。妹が不幸になるとわかっている結婚を喜ぶ兄はいない」
「相手は殿下だぞ? 不幸になるわけないじゃないか」
「……そうだといいんだがな」
もう一口ビールを飲む。いくら煽られたと言っても、一気飲みだなんて無謀な真似はしない。自分の限界は自分が一番よく知っていた。
「なあ、セレンデン。貴様にとってロザレイン嬢は本当に妹なのか? 貴様、本当は……」
「……」
ミカルはロザレインを妹として見ていた。幼いころからその成長を見守ってきた少女に対し、やましい気持ちなど一切抱いていなかったと断言できる。
だが、どうしてだろう。ロザレインを殺して自殺しようと決めたとき、間違いなく自分の心にはある感情があった。それは愛であることに変わりはなく、しかし恋と呼ぶにはぼんやりとしていて、異性に対する劣情を含んだものなのか曖昧なものだ。
行き過ぎた忠誠の証なのか、憐憫が見せたまやかしなのか、欲を切り離して昇華した精神としてのみの愛なのか、それとも失ってから初めてロザレインへの恋心を自覚してしまったのか。それすら自分でもよくわからない。
小さな子供だと思っていた少女は、いつの間にか立派な淑女に育っていた。そんな彼女が、最初に憧れを抱いた男。ミカルにとってはそれだけで十分な名誉で、それより先のことなど考えたこともなかった。少し前まではそうだった。そのはずだった。
それなのに、彼女が恋に破れた姿を見て確信してしまった――――私なら彼女を悲しませることなどしない、彼女に心の底から笑ってもらえる、と。
(彼女は私のミンネだ。触れることすら許されない気高い花。だが、あの美しい花をみすみす枯れさせるぐらいなら……)
それは己の領分を越えた意識だった。ミカルとロザレインでは身分が違うし、ミカルはロザレインより倍も年上だし、ロザレインはいずれミカルも主君と仰ぐことになる青年の妻なのだから。
いつでも彼女の傍にいて彼女を守る、年の離れた兄のような存在。それがミカルの収まるべき立ち位置だ。それ以上は求めてはいけない。そのはずなのに、それを越えてしまいたい。ロザレインを手折ってしまいたい。その衝動を抑えきれない。それどころか、迷わずその衝動に身を任せるべきだとすら思う。ロザレインを救うための行動としては何も間違っていないのだと、ミカルはもう知っているのだから。
「平民の貴様には実感がわかないかもしれないが……貴族社会ではな、年の離れた夫婦なんてそう珍しくもないんだぞ。だが、ロザレイン嬢はだめだ。相手はもう既婚で、しかも皇太子の妃だぞ?」
「やめてくれ。おこがましいにもほどがある」
この罪を悟られてはいけない。ミカルはジョッキをテーブルに叩きつけるように置いた。その静かな気迫に何かを感じたのか、ローディルははっとして口をつぐむ。何とも言えない気まずさの中、ベルナだけが能天気につまみを食べていた。
(もしも私が、もっと早くこの想いに気づいていたら……子供の戯れと思わずに真剣に受け止めていたら……お嬢様と殿下の婚約話などなかったのだろうか……?)
ミカルとロザレインの見合い話なんて、ヴァルムートだって冗談のつもりで言ったのだろう。そんな場が設けられるはずがない。それでも、後悔せずにはいられなかった。
想うことすら赦されないとわかっている。だが、一人の少女が不幸になることを防ぐための行いについては、誰にも咎められるいわれはないはずだ。
*
すっかり酔ったベルナの先導で、ミカル達は二軒目へと向かう。断りきれずにずるずる夜の街を歩いていると、不意に横から声をかけられた。
「もし、そこを行くお若い御仁。……ええ、そうです。眼鏡の貴方ですよ」
思わず声のするほうを見る。浮浪者だろうか。道の端に、ぼろをまとった老人が座っている。彼はミカルを見てにやりと笑った。黄ばんだ乱杭歯が垣間見える。
「貴方、中々面白い呪いにかかっていますねぇ。……そうですか、貴方が。なるほどなるほど」
「……何?」
「おっ、なんだ爺さん、占い師か? そうなんだよ、こいつぁ呪われてるみてぇに女運がなくってなぁ」
こんな老爺に声をかけられたことはあっただろうか。……駄目だ、思い出せない。
「死は必ず訪れるもの。死こそ神が定めし終焉です。いかなる形の最期であれ、神がそう在れとしたから訪れる。人災も天災も、神のおぼしめしであることに変わりはありません。だのに、貴方はそれを書き換えた」
呼吸が止まった――――この老爺は、ミカルが時間をさかのぼっていることを知っている?
「気まぐれな悪魔の呪いを、人は時に奇跡と呼んでもてはやします。しかしそれは、人の身には過ぎたもの。それでも神の紡ぐ運命に抗うには、その力を借りるほかありません。だからこそ貴方は、つかの間の猶予を得たのでしょう?」
「ちょうどいいじゃねぇか。ミカル、占ってもらったらどうだ?」
「これは泡沫の夢ではなく、大仰な舞台でもない。つまらぬ悩みはお捨てなさい。欲深く罪深いことの何が悪いのです。それが人ではないですか。何かを演じるのは結構、しかし自分を見失いなさるな」
おぼつかない手つきでベルナが老爺の前に銅貨を数枚置く。小難しいことを言う老爺の話など、ベルナはよくわかっていないのだろう。その場の雰囲気で適当にはやし立てているだけだ。同様にローディルも怪訝そうな顔をしている。ただ一人、一気に酔いの醒めたミカルだけが彼の言葉を真剣に聞いていた。
「いかなる願いであれ、それを悪と断じられる者がおりましょうか。正しいのは常に勝者。ご自身の望みを叶えるため、他者の望みを踏み躙りなさい。その覚悟があってこそ、奇跡は初めて意味をなす」
老爺は銅貨に目もくれない。白く濁った瞳がじっとミカルを見上げていた。
「救う者を違えることなきよう。決してその手を離してはなりません。貴方達の心が揺らぐとき、過ぎた力はたやすく貴方達に牙をむくでしょう」
「……お前は何者だ?」
「世界のすべてが己の意のままになると思っているものを、嘲笑うものですよ」
静かに尋ねると、老爺は含みのある笑みを見せた。瞬きの間に彼の姿が消える。残されたのは薄汚れたござの上に散らばる数枚の銅貨と、路地裏に向かって駆け出す一匹の黒猫だけだった。
「おー? なんだ、もう店じまいかぁー?」
「もういいだろう。早く行くぞっ」
ベルナはきょとんとしてきょろきょろ周囲を見渡し、ローディルはどうでもよさげにさっさと歩き出す。二人のその様子が酔いのせいなのか、それとも人智を越えた何かに対する無意識の自己防衛のせいなのか、ミカルにはわからなかった。
*
二軒目の酒場は、一軒目と比べると静かなところだった。
ここはミカルの記憶にない、まったく知らない酒場だ。本来行くはずだった酒場は満席だった。謎の占い師の前で足を止めていたせいだろう。客層は顔見知りの常連がばかりらしく、ふらりと入ってきたミカル達には驚きと値踏みを兼ねたような視線が向けられる。ざらりとした居心地の悪さに眉根を寄せるが、すっかり出来上がっている二人は気にも留めていないようだった。
「姉ちゃん、ビールくれー!」
「……白ワインを一つ」
「ひよったなセレンデン! おい、一番上等なワインはなんだ!? それを僕とこのいけすかない男にくれ、飲み比べをするからな!」
ベルナのしゃがれ声に、一人の給仕が反応した。振り向いて駆け寄ってきた彼女に、ミカルとローディルも口々に注文を重ねる。ローディルの問いに、戸惑った様子の給仕はつっかえつっかえに答えた。
何気なくミカルは顔を上げた。焦げ茶の髪にくりくりしたトパーズの瞳。年は十六か十七ぐらいだろうか。懸命にメモを取る少女の姿が、ミカルの記憶を刺激した。
「君は……!?」
「はい?」
給仕はきょとんと首を傾げる。その雰囲気やたたずまいは、とある少女――――いずれ皇太子の寵姫と称される、ルーナ・ミフェスとよく似ていた。けれど違う。髪や瞳の色こそ同じだが、あの少女ではない。
ロザレインとサージウスの婚約が発表されてからサージウスが皇宮に招くまで、帝都ではついぞ姿を見かけることのなかった少女。彼女が、この小さな酒場で給仕として働いているわけもない。皇子の恋人だった少女の素性を知りたいと、ミカルも調べたことがあった。しかし焦げ茶の髪などそう珍しくもない。手掛かりになるものといえばあの宝石のような黄色い瞳ぐらいだったが、それだけで広い帝都の中から彼女を見つけ出すのは困難だった。黄色の瞳は珍しくはあるが、まったくいないわけではない。現に今、ルーナとはまったく無関係の給仕も輝く黄色い瞳をしている。
ルーナの存在が公に認知されるようになったのは、ロザレインの結婚から半月ほど経ってからのことだ。結婚早々皇子夫妻の不仲が囁かれ、白い結婚だと知れ渡り。ではその理由は何かと突き詰めれば、皇子の秘密の恋人のためだということになっていた。サージウスがルーナを皇宮に招いたからだ。
「軍部はさらなる権力を握るために、大将軍の孫娘を無理やり皇家に嫁がせた」、「皇子妃は年上の恋人に夢中で、しかし強欲にも皇子を手放す気は見せない」、「可愛い恋人を憐れんだ皇子は彼女を寵姫として宮殿に上げたものの、皇子妃は彼女をいじめて日陰に追いやっている」……そんな無数の根も葉もない噂の出所を掴むことはできなかった。そのうえ、ほどなくして“皇子妃の年上の恋人”だったミカルは僻地に左遷されたのだ。それ以降の帝都の様子も、伝聞程度にしかわからなかった。
「……いや、なんでもない。人違いだったようだ。引き留めてすまなかった」
給仕は不思議そうな顔をしながらも厨房の奥に消えた。彼女をルーナだと錯覚した瞬間に渦巻いたいくつもの感情は、しかし彼女にはもちろんルーナにもぶつけるべきものではない。サージウスはルーナを愛し、ルーナもサージウスを愛していた。それだけなのだから。
それがどこまでロザレインを追い詰め、彼女を壊してしまったとしても、今のルーナに言っても意味のないことだ。ルーナはまだ寵姫ではない。それに、皇子からの直々の命ともなれば平民の娘に過ぎないルーナに断ることなどできないだろう。責めるべきはルーナではなくサージウスだ。そう自分に言い聞かせ、ミカルはこぶしを強く握りしめた。




