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ある嵐の夜のことだ。夜も更けたころ、公爵家の門扉を叩く女がいた。
薄汚れた外套はところどころすりきれ、伸びた手足はまるで棒のように弱々しい。フードを目深にかぶっているため鼻から下ぐらいしか見えないが、しわだらけの老婆のようだ。何も知らずに来客を出迎えた侍女は、闇の中に佇むすえた臭いの老婆を前にしてしばし動きを止めてしまった。
「一晩だけでよいのです。どうか泊めてはくれませぬか。食事など贅沢は申しませぬ。ただ、この雨さえしのげる屋根さえ貸していただければ……」
「まあ、まあ。すっかり濡れてしまっているではありませんか。さあ、どうぞこちらへ」
老婆は旅人だと名乗った。そのか細い声から、化け物の類ではないと気づくが早いか哀れみが込み上げる。侍女は眉根を寄せ、差していた傘を彼女のほうへと傾ける。とはいえ侍女はあくまでも使用人だ。玄関先で老いた旅人を待たせ、屋敷のあるじの意向を尋ねにいった。もし拒まれたら、ひっそり地下の使用人室に通そう、と軽く考えて。
あるじの答えは明快だった――――困っているのなら、助けない理由がない。かくして得体の知れない旅人は、公爵家の中に通された。
「ひどい雨で大変だっただろう。さあ、これで身体を拭くのだ。今食事を用意させるから、それまでここに座って待っているといい」
初老の公爵は咳込みつつ、自ら老婆を出迎えた。応接間に通された老婆は深く感謝の意を示し、彼の言葉に従って柔らかいタオルで濡れた身体を拭きつつ暖炉の前に腰掛ける。彼女がかぐわしい匂いに包まれた食堂に招かれるまでそう時間はかからなかった。
食事を終え、老婆は公爵のもとにやってきた。応接間で新聞を読んでいた公爵は立ち上がって老婆に着席をうながし、彼女にワインを勧める。老婆は拒みもせずにソファに腰掛け、公爵をじっと見つめた。
「ありがとうございます、旦那様。あなたは……いいえ、このお屋敷の方々はみな、とても心の優しい方でいらっしゃる。わたくしのようなものを家に招き、あまつさえこのように歓迎してくださるなど」
「私達は民の血税によって生かされているがゆえに、私達は民を守るのだ。その義務をまっとうするのは当たり前だろう。……弱き者を救わず、迷う者を見捨てては、私が私である意味がない」
公爵はきっぱり言い切った。その答えに、老婆は満足げに微笑む。
「ときに、旦那様。このお屋敷には、小さなお子様がいらっしゃるご様子ですね」
「ん? ああ、私の孫娘がいる。夜泣きの声が聞こえたか? もしうるさいと思うことがあっても、どうか容赦してほしい。子供は泣くのが仕事だ、それは天の主であっても止められないからな」
「いいえ、いいえ。うるさいなど、めっそうもございません。元気があってよろしいことでございます」
公爵は少し眉根を寄せた――――少し前に様子を見に行った時には孫娘はすやすやと眠っていたし、老婆が来てから夜泣きの声なんて聞こえなかったからだ。
何故この老婆は、孫娘のことを知っていたのだろう。その内心の動揺を悟られまいと公爵が何気なく返すと、老婆の笑みが深まる。
「しかし、花の命は短いものです。たとえ今は美しく咲いていても、散るときはあっけなく訪れる。……それが周囲を枯れさせる毒花であれば、その最期こそ望まれるのかもしれませぬが」
「……なに?」
「旦那様には親切にしていただきました。この恩には報いねばなりませぬ。ですからわたくしから一つ、予言をさしあげましょう。ご令孫におかれましては、神に強く愛されておりまする。すぐにでも楽園へ招こうとして……それを阻む者すべてを殺してしまいかねないほどに」
老婆はグラスに注がれたワインを一息に呷った。フードの下の昏い双眸が扉に向けられる。老婆のぶしつけな言葉に、公爵はよく日に焼けた顔を不快そうに歪ませた。
「酔っておられるのか? 冗談だとしても、あまり気分のいいものではないのだが」
「この婆の言葉を信じるかどうかは、旦那様のお心にお任せいたします。……ですが、思い当たることがおありなのでは? 旦那様のご子息夫妻は、ご令孫を守って命を落とされたのでしょう?」
「ッ!」
呼吸が止まる。息子夫婦は幼い娘を遺して死んでしまった。半年前にある教会で起きた、大規模な崩落事故のせいだ。息子と義娘はお互いと娘を庇うように覆いかぶさり、がれきの直撃を受けて絶命したという。生き残ったのはほんの数人で、息子夫婦のちょうど間にいた孫娘もその中の一人だった。
「このままでは、旦那様……そしてこの屋敷の者の身も危ういでしょう。お優しい皆様は、必ずやご令孫をお守りするでしょうから。ご令孫が生まれてから、急に体調不良を訴えた者はおりませぬか? 原因不明の事故に遭った者は? 突然職を辞し、故郷に帰った者はどうでしょう?」
「それは……」
答えようとした傍からげほげほと咳き込む。公爵は目を見開いて老婆を見た。確かに使用人達の中には予期せぬ不幸のせいで暇を求めた者や、仕事に支障が出た者がいた。それに、ほかならぬ公爵自身が、陸軍少将という地位についていながら体調の悪化を理由に一線を退いていたからだ。
「誰が悪いというわけではありません。しかし神に愛されるということは、只人にとっては災いなのです。……ですからわたくしめは、屋根をお貸しいただいた恩に報いて、ご令孫の周囲の方々に対する影響を緩和いたしましょう。それは、神の嫉妬心とはやる心がもたらすものにすぎませぬから。それをやわらげ、多少神の目をそらすことは可能です。しかし、ご令孫への執着までは断ち切れませぬ。神の目からご令孫を隠しきれるのは、齢十六か十七を越える辺りまで。齢十八の朝を迎える前に、ご令孫の命は花と散ることになるでしょう」
「馬鹿な……! それがあの子の寿命だと!? たった十八年しか生きられない!? ふざけるな、そんなことがあっていいわけがないだろう!」
公爵は激昂して思わず立ち上がった。老いの兆しが見えるとはいえ、筋骨隆々のたくましい大男だ。その大きな声と突然の動きにひるまない者はいない。しかし老婆は微動だにしなかった。
「しかしそれでは、あまりにも哀れというもの。盛りを迎えてすぐに枯れ朽ちるなど、残酷にもほどがありましょう。ですからあの温かく美味な食事の恩に報いるために、ご令孫に呪いをさしあげます。ご令孫を心から愛し、ご令孫に心から愛され、互いのために命をなげうてる者。そのような男性が現れれば、ご令孫の死の運命には多少のほころびが生まれましょう。ご令孫が齢十八の朝を迎えることができたなら、晴れてご令孫は神の執着から解き放たれる。……足掻くか、はたまた諦めるか。共に生きるか、共に死ぬか、あるいはその死を乗り越えて一人生きるか。すべてはご令孫と、その者の心のゆくままに」
ことり、ワイングラスを置いて老婆はフードを取った。直後、雷鳴がとどろく。カーテン越しでも部屋を照らした雷光に、公爵の目がくらんだ。
「しかし忘れてはなりませぬ。これは神すら恐れぬ悪魔の呪い。愛は時に、神をもしのぐ奇跡となりましょうが……奇跡は時に、人にとっての救いではなくなりまする」
「待っ――――!」
その言葉だけを残し、老婆は霧のように消えてしまった。
そこに老婆がいたことを証明する空のワイングラスを前に、残された公爵は一つ大きな息を吐く。長らく前線で戦った歴戦の軍人も、人智を越えた存在との邂逅になすすべなどなかった。
「そうだ、ロザリィ……!」
長くはなかった放心状態から解放され、公爵はばたばたとあわただしく孫娘の部屋へと向かう。乳母の傍で孫娘はすやすやと眠っていた。
――――これが、公爵令嬢ロザレイン・アドラ・フォン・ディエルの一歳の誕生日の前日に起きた出来事だ。
この日を境にして公爵の体調は快方に向かい、暇を出した使用人達も徐々に戻ってきた。
公爵は老婆のことも含めてこの夜のことを誰にも口にせず、使用人達にもきつく緘口令を敷いた。それから公爵はまるで不吉な予言のことなど忘れようとするかのように今まで以上に職務に没頭し、同時にロザレインを溺愛した。可愛い可愛い孫娘ロザリィ、彼女の幸福だけを願って。
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