3話 余命
それからの一か月、優子は優也と通学を共にした。その間、互いの情報を交換していたのだ。
優子はトマトが好きで納豆が嫌いなB型、優也は納豆が好きでトマトが嫌いなO型と、真逆である。病院へは月に一度の簡単な診察があり、いつもは優也が一人で行っていたのだが、その日は優子が送り迎えをしていた。半年に一度は、詳しい検査を受けているという。
学校では付き合っているのかと噂が広がっており、優子は気にしていないが優也は気にしている。ある日、優子はその噂をしている女子にこう言い放ったのだ。
「くっだらねぇ話してんじゃねえよ」
優子にとって、男女の付き合いはどうでもいいのである。彼女自身、恋愛にはその辺に落ちている埃ほどの興味もない。付き合う付き合わない、別れたヨリを戻したなどという周囲の会話は他所でやってくれと思うほどなのだ。
一方、優也はクラスの男子に優子との関係をからかわれていた。
「おーい、虹ヶ丘。お前今日も雨内と一緒に来てたな」
「女にお迎えされるとか、恥ずかしくねーの?」
「止めなよ、男子ぃー。優也くんだって雨内優子に付きまとわれて困ってるんだからさぁー」
毎日のように笑われながらそう言われ、気の弱い優也だったがこの時は少しむっとした。周りは優子と優也を馬鹿にしても、優也にとっては助かったことがある。一週間前の帰宅中に胸が苦しくなり、持っていた薬と水を鞄からすぐに出して貰った。すぐに飲んで少し休んでから自宅に帰ることが出来たので、彼女に感謝している。その後、優也は病院へ行き、検査を受けた。結果が出るのは本日だが、それまで体調はあまり優れない。
「困ってなんかないし、恥ずかしくないよ。それに雨内さんが興味あるのは俺の絵だけだから」
落書き用のノートを取り出すと、鞄を机の横のフックに引っ掛ける。授業中も絵を描くのだが、スケッチブックだと教師に没収されてしまうため、線のない無地ノートを常に出しているのだ。何てことのない消しゴムやシャープペンシル、授業中の教室の様子等を描いているが、時々優子の姿を思い出しては描いている。しかし、何度描いても影が消えず、やはり人間を描くのは苦手なのだ。
「優也はほんっと絵が好きだもんなー」
「美術部も去年で廃部になっちまったし、来月の文化祭どうすんだよ。お前の絵、楽しみにしてたんだけど」
絵の事を出すとあっさり話題が変わる。丁度九月末なので、皆が楽しみにしている文化祭が十月末に控えているのだ。昨年まで部として存在していた美術部は、一つ上の先輩四人が卒業してから優也一人となるため、部として廃部となってしまった。優也が三年生になり、誰か美術に興味がある新入生がいないかと美術室で待っていたが、誰も来る事はなかったという。それでも美術の教師は絵が好きな優也の為に、放課後は美術室を解放している。
「書道部の片隅で展示してくれるって。二、三枚描きたいって思ってるけど、満足出来る絵が出来なかったら一枚にするかも」
「それなら残り二枚、そのノートとスケッチブックに描いた絵を拡大コピーしてさ、それ展示すりゃいいじゃん」
「そんな事するぐらいなら、破って展示したほうがマシだよ。ていうか、ちゃんとキャンパスに描いた絵じゃないと気が済まないんだ」
とはいえ、何を描こうか悩む。頭にこれだと浮かぶものがあれば、一心不乱になって描くことが出来る。だが今は目の前に広がる風景を描いてはそれをいじり、たまに公園や動物園に行ったりして絵の練習をしているぐらいなのだ。――描きたいものは何だろう。
***
「そんなの、描きたいものを描けばいいじゃん」
昼休み、美術室で悩んでいたので優子に相談してみたのだが、あっさりそう言われた。なぜ彼女が美術室にいるかというと、優也に触発されて絵を描き始めたからだ。百円ショップにでも売っていそうなリンゴの置物を見ながら、無地のノートに。
「それが分かれば苦労しないよ。最後の文化祭だし、一番いい絵を展示したいんだ」
「それなら、スケッチブックに描いたの夕日の絵がいいんじゃない? 教室から差した夕日のやつ。アタシあれ好きだよ。同じの描けば?」
「あのね、雨内さん。同じ絵は二度描けないんだよ。その時その時の想いとか、光の差し方とか、いろいろ違うんだ。難しいんだよ」
だから、全く同じ絵は描けないのだとピシッと言う。気まずそうな顔をした優子は、何も言わずにリンゴの絵を四苦八苦しながら描き始めた。描きたいものが見つからない優也は、いつも通り目の前の光景を、優子が悩んで描いている姿をスケッチブックに写していく。
映しながら思う。優子は夕日の絵が好きだと言っていた。おそらく初めて会った日に見た絵の事だろう。風景画は好きだし、体調の良い休日は近くの公園に足を運んでいる。本当はもう少し遠出したいのだが、出先で何かあってはいけないと、家族に固く止められているのだ。だが今は、信用できる人が近くにいる。
「ねえ、雨内さん。お願いがあるんだけど……」
「んー?」
「次の――」
優也が言いかけた時だった。
「雨内ー。お前反省文はどうした」
「やばっ! 見つかった!」
髪を黒くせずピアスを付けたままの優子の担任が、たまたま見つけた彼女に声をかけたのだ。焦る優子は急いで片付けて美術室から逃げていった。担任は彼女を追いかけ、美術室には優也一人だけになってしまった。
「……リンゴ忘れてってるし」
どうせ翌日も彼女は来るだろう。優也はリンゴの置物をそのままにして、先ほどの優子を思い浮かべながら、続きを描き始めた。彼女へのお願いは、明日言えばいい。
***
放課後優也は、検査結果を聞くために母親と共に病院へ向かった。親が車で迎えに来る、と優子に言ったら「わかった」とあっさりとした返答が来たのだ。優也はそれだけかと思ったが、優子は優也より絵の方に興味があるため、当然といえば当然の反応である。病院へ向かっている間、母親は優子の事をこう言っていた。
「あんたの事を心配してくれてるみたいだから、会って一言お礼を言いたかったわ」
優子に会ったら返って心配だろう。アッシュグレーの髪にピアスを付けているのだから。こんな子と付き合うなと言われるに違いない。そもそも両親には女とは伝えていない。
「どんな男の子なの?」
「……優しい子だよ」
中学の頃に付き合っていた子と家の前で会っていたとき、母親が彼女を責めたのだ。息を吐けば白くなる、寒い冬の日。寒い中で外で長い時間会って、優也に何かあったら責任取れるのかと。もしもの事があったらお前を恨んでやる、と――。優子と母親が会ったら、言い争いになってもおかしくない。だから母親には言いたくないのだ。
病院に着き、待合室で待つこと四十分後。ようやく優也が呼ばれた。中の待合室で十分ぐらい待つと診察室に呼ばれたので、検査結果を聞ける。
「四ヵ月前に検査した時より、相当悪化しています。以前、最悪の場合をお伝えしたことがありますが、そちらも視野に入れていただいた方がいいでしょう」
「心臓移植、ですか」
「はい。これだけ弱っていますから……」
どうして急にここまで悪化してしまったのだろう。体育も休んでいる。ストレスも溜めないように好きなことをしていた。優也の耳に医者の説明が入ってこないが、ドナーが見つかるか、見つからなければ、という話をしている。自身の体調の事を考え、優也は医者にある事を聞いた。
「あの、俺……、あとどれぐらい生きられるんでしょうか」
急に不安になったのだ。もしドナーが見つからなかったら――
「このままですと三ヵ月、今すぐ入院して投薬治療をすればもう少しは……。その間にドナーが見つかるといいのですが」
優也の頭に、ふと優子の姿が浮かんだ。
「ドナーさえ見つかれば、優くんは長生き出来るんですよね。でしたら、今すぐ入院させてください」
「待ってよ、母さん! 俺はやりたい事が――」
「命とやりたい事、どっちが大事なの! 母さんはね、あんたに普通に生きて、普通に人生過ごしてほしいの。だから母さんの言う事聞きなさい!」
母親に言いたいことはあるが、自分の体の事を思ってのことだと考えると、優也は何も言えない。ただ、彼の頭に浮かんでいるのは、自分の絵を楽しみにしてくれているクラスメイトと、優子の事だけだった。