1話 出会い
当時、雨内優子は高校三年生。夏休みが明けた頃。
その頃の彼女は中学から長めの反抗期が続いており、家でも学校でも反発していた。家では何を言われても鬱陶しい。学校では授業中に寝たり携帯電話をいじったりしいた。胸元まである長い髪はアッシュグレーに染め、耳にはピアスの穴をあけている。教師が頭を悩ませて注視するタイプなのだ。そのうえ教室内でも浮いていて、友達という友達はいない。
この日も優子は職員室に呼ばれて説教をされていた。
「夏休みの間に今度はそんな色に染めて……。明日までに黒くしてこい! しなかったら反省文を書いてもらうぞ!」
など、ピアスも外すように言われたが、優子の耳は笊のように右から左へ流れている。
(早く終われよ、うっざ)
面倒くさい、早く帰りたいのに。そう思いながら一時間が経過し、ようやく解放された。
いつもいつもよくあんなに言う事があるものだ。同じ事を言っている気がする。さっき何を言っていたっけ。そんな事を思ってはいいるが、考えるのも馬鹿らしいとため息をつく。
帰ろう、と廊下を歩いていると、美術室に明かりがついているではないか。珍しい――。誰かいるのだろうか。チラリと横目で見てから帰ろうと思った時、美術室の入り口で描いている男の絵が一瞬目に入っただけで、心を奪われた。なんて事のない教室から見える夕焼けの絵だが、オレンジというより赤に近い太陽が沈んでいき、教室の中に明かりが一筋だけ入っているようだ。スケッチブックであり男の体が邪魔で全体が見えないが、鉛筆だけで繊細な絵が描けているように見えた。
「綺麗な絵……」
思わず口にしてしまった優子に驚き、男は勢いよく振り返った。目を見開いて、優子と目が合う。ハッとした男は、スケッチブックを後ろに隠した。
「あ、あの――」
気まずそうに男が声にした瞬間、思わず優子は逃げてしまった。その場に取り残された男は隠したスケッチブックを見ると、優子が去っていった方向に視線を向けた後、再びスケッチブックに鉛筆を這わせた。
***
戸建ての家に帰るなり優子は二階の部屋に閉じこもり、なぜ自分は逃げてしまったのかと自問自答するが、答えは出てこない。出てこないが、見てはいけないものを見てしまった気分だったのだ。顔色が悪くて線が細いような印象が強い。顔はあまりよく思い出せず、ぼんやりとしている。
「あんな奴いたっけ」
自分のクラスは全員覚えているが、他のクラスは覚えていない。覚えていなくても顔ぐらいは見たことがあるはずだがそれさえもない。
「そういや病弱な奴がいるって話、女子の誰かがしてたような……」
入院がどうのという話をしていた気がする。それ以上は興味がなかったので耳をシャットダウンしていたのだ。顔色が悪い事を考えると、絵を描いていた彼かもしれないが、単に影の薄い男なのかもしれない。――これ以上考えても無駄だ。優子は面倒な宿題を済ませる事にした。例え生活態度が悪くても、提出物だけはきっちり出すのだ。
「優子ー! ごはんー!」
「うるさいなぁ」
やっと宿題をやる気になれて机に座ったというのに、どうしてこう邪魔が入るのかと思う優子。数学だけでも済ませてから一階にあるリビングに行こうと思ったのだが、母の声がまた聞こえる。
「優子! ごはんだってば!」
「分ってるって! 後で行く!」
「冷めるでしょー! 早く来なさーい!」
「何なんだよ、うっさいなぁ、もう!!」
机の上に数学のノートを叩きつけた優子は、イライラしながらリビングへ向かった。
***
一方、スケッチブックを持っていた男は、家で優子を描いていたのだが、顔が思い出せないので、仕方なく走り去っていった後ろ姿を描いた。だが、満足に描けない。
「なんか、影のある人だったな」
その影が絵に出てしまている。正しくもあるのだが、彼にとっては描きたいように描けない不満があった。
「確か、雨内さん……だっけ。隣のクラスの」
長期休みの度に髪の色を変えている優子は有名だったので、顔と名前は知っていたのだ。クラスも出身の中学も違うので、全く話したことはない。
もう一度会えば明るく描けるだろうか。彼はそんな事を考えていた。
***
翌日、翌々日は互いに教室にいると確認していたが、放課後はすれ違っていた。というのも、優子は美術室へ行くのが面倒くさくなって帰宅していた為である。気が向いた三日後の放課後、優子は少し美術室を覗いたのだが、そこに男の姿はない。空の美術室だった。帰ろうと生徒玄関で靴を履き替えたとき、遠くにスケッチブックが見えた。――彼だ。どこへ行くのだろう。優子は興味本位でこっそり後を付けていくことにした。
十分ぐらい歩いた先の建物の手前にあるベンチに男は座って、鉛筆を取り出した。今日はここで何かを描くのだろうか。話したこともないのに、何を描くか聞くのはおかしい。だが、なぜか彼の描く絵が気になる優子は話しかけようかどうか悩んでいた。どうしよう、としゃがんで頭を悩ませていると――
「二組の雨内さん、だよね? どうしたの? 具合悪いの?」
男の方から近づいてきて声をかけられた。付けていたのがバレたのかと焦る優子。
「別に、どこも悪くないし! ちょっと靴紐ほどけただけだし!」
「靴紐?」
つい嘘をついてしまった。足元はローファーだというのに。気まずい。優子は明後日の方向を向いて誤魔化そうとしたが、彼は無邪気に笑う。
「何がおかしいの」
「ご、ごめんごめん」
クスクス笑いながら、彼はスケッチブックを置いてあるベンチに戻っていった。何となく付いていく優子は、ちらっとスケッチブックを見る。まだ白紙が多いが、目の前に広がる風景を描こうとしているようだ。
「俺ね、その辺の風景の絵を描くのが好きなんだ。時々近所の公園に行ったり、学校じゃ校庭とか中庭とか、そういう所から見える風景描いたり……。時々人も描くけど、あまり得意じゃなくてさ」
「ふーん」
だから夕日の絵が綺麗だったのかと、何となく納得した優子。彼女の反応を見た彼は、優子にとってどうでもいい事を聞かせてしまったと勘違いする。
「あ、ごめん、つまんないよね、こんな話」
「別に、そんなんじゃないけど……」
夕日の絵が綺麗だった、とは言えない。恥ずかしくて死んでも言いたくない。だが、これだけは言える。
「絵、上手いなーって思って」
視線を逸らしながらぶっきらぼうに言うと、彼はにっこり微笑んだ。
「本当? ありがとう」
素直で自分とは真逆だと、優子は思う。それがあまりにも眩しく、人が良すぎて苦手な気もする。すると、どこかから音楽が聞こえてきた。彼の携帯電話からだった。携帯電話を取り出した彼は、音楽アラームを止めると鉛筆を片付け、スケッチブックを閉じた。
「ごめん、時間だから行かなきゃ」
「どこに?」
彼が指を指した先は病院だ。
「どこか悪いの?」
「……ちょっとね。ごめん、またね」
あまり聞かれたくない病気なのだろう。彼は手を振って歩みだした。行ってしまう。優子にはどうしても聞きたい事があり、彼の手を引いて歩みと止めた。
「名前! 名前、教えて」
「虹ヶ丘だよ。三組の虹ヶ丘優也。よろしくね」
名前を聞いた優子の手が緩み、優也は病院へ向かっていった。