9話 最後の絵
冬休みが明けると、隣の三組では優也の体調が相当悪くなっているという噂が広がっていた。どうやら一命は取り留めたらしい。優子には優也からのメールがたった一通届いたっきり、返事はない。内容は住所を教えてほしいというものだった。あの母親が乗り込んでくるのかと思ったがそんな事はなく、住所を教えたのはいいが、優也が何のために住所を聞いたか謎である。
「隣のクラスの虹ヶ丘、あいつ卒業出来んのかよ。もう二か月もないのによ」
「出席日数ギリギリだっつーから、ダブるんじゃね?」
男子のそんな声が聞こえた優子は、昼休みになった途端、職員室に駆け込んだ。
「雨内、お前まだそんな頭とピアス――」
「虹ヶ丘、卒業出来んの!?」
その言葉が職員室に響くと、室内が一瞬静まり返った。自分しか考えていないであろう雨内優子が、入院中の虹ヶ丘優也を心配しているのだ。それだけで教師が驚きを隠せない。
「どうなの、あいつ、卒業出来んの?」
「そりゃ、お前に話せる事じゃないんだよ。ほら、さっさと昼飯食いな。俺も腹減ってんだ」
ぐいぐいと職員室の扉を閉めようとする担任に、負けるものかと開けようとする優子。力いっぱい抵抗しているが、大人の男性教師に勝てるはずもない。だんだん閉まってゆく。
「何で! いいじゃん、教えてくれたって!」
「だーめ。ご両親にしか話せないんだ。察してくれよ」
ぴしゃっと閉じられた職員室の扉を、また開ける勇気はなかった。察してくれという事は、留年する事を意味していたのだから。もし二月中にドナーが見つからなかったら、卒業すら出来なくなってしまうのではないだろうか。優子の頭に、最悪の事が浮かんだ。
***
それから一カ月後。二月中旬を迎えた。卒業式まであと二週間。優也の留年は確定した。優子は優也の見舞いには行っていない。彼の母親が付きっ切りのため、行くに行けないのだ。だが、三組のクラスメイトの男子は毎日のように見舞いに行っている。優也の容態が優子の耳に入った。
「あいつ、すっげー痩せたよな。管たくさんついてたし……」
「もう、やべえんじゃねーか? もうすぐドナー見つかるって言ってたけどよ、あれ絶対嘘だよ」
おそらく同級生を心配させないための嘘なのだろう。優也は名前の通り優しいので、この一か月間、優子にも数回メールを送っていた。大丈夫、俺は元気だから、また一緒に絵を描こう――と。
(嘘でも、一緒に卒業出来るって言ったら、あいつ、少しは元気になるかな)
どうしたら優也を励ませるか。優子なりに考えた結果、彼女はある行動をとった。
***
三日後、優子は三組の男子から優也の病室を聞き出し、一枚の紙と筒を持って病院へ向かった。
この日は晴天で、風は冷たいが日は暖かい。心なしか、優也の体調も少し良さそうだ。
「優くん。いつまで絵とにらめっこしているの? 集中するのは病気を治すことにしたら?」
「今やらないと未完成のままになるから。それにもうすぐ……」
水彩画のセットをベッドのテーブルの上に置き、スケッチブックに色を塗っている。少しずつ、コツコツと作っているのだ。この前の日、優也はドナーは絶望的だと聞かされていた。しかし彼は、それならば残りの時間で出来る事をやろうと、前を向いたのだ。絶望的とは言われたが、医者は諦めておらず、優也はどちらにせよ絵は早く完成させたいという想いがある。
「できた……!」
「どれどれ?」
「駄目だよ。母さんには見せない。父さんにもね。これを一番に見せたい人がいるんだ。この絵を送って、驚かせるんだ」
ふわっと笑う優也を見た母親は、息子にはまだあの疫病神が巣くっているのだと悟る。なぜそこまであんな不良娘がいいのか、理解できない。
「ねぇ、優くん――」
その時、優也の病室にアッシュグレーの髪をした女が入って来きた。優子だ。優也はスケッチブックをぱたっと閉じる。彼女が視界に入ってきた母親は、人前なので激高したいところを押さえながら震えた声で言った。
「一体何の用?」
「あんたに用はない。アタシは優也に用があるの」
ジロリと睨む優子の態度に、母親は追い出そうと彼女の腕を掴んだ。
「性懲りもなくノコノコと! もう優くんに関わら――」
「そこの椅子に座りなよ。初めてだね、優子がここに来るの」
精一杯の声を張った優也は、優子を招き入れる。そして母親に少しの間席を外すようにと視線で訴えた。可愛い息子の頼みだと、母親は病室を出て行く。出て行ったところを確認した優子は、早速優也に声をかける。
「あのオバサンがいるから長居は出来ないけど、優也にどうしても渡さなきゃいけない物があってっさ」
「何?」
「卒業証書」
持ってきた紙と筒を笑って見せた優子。優也が自分の留年を知らないはずがないが、知れないかもしれない。例えごっご遊びだとしても、優也の気力になるならばと考えたのだ。
「でも俺……、いや、ありがとう。卒業式出られるか分からないんだ。それにしてもよく先生が俺の分を先にくれたね」
「二週間も当日も変わらないし、手術と当たってもダメだからさ、先に頂戴っておねだりしてみたんだ」
「優子が? おねだりするような人じゃないでしょ」
「う、うるさいな。いいからさっさと受け取りなよ。卒業証書――」
優子が持ってきた卒業証書は、到底本物には見えない物だった。文具屋に売っているような紙に中学校の卒業証書を丸写しにして文面。彼女がゆっくりと手書きで書いたらしく、筆で描いた字はバランスがとれておらず、上手くない。中でも左下の隅に小さく描かれたリンゴの絵は、何度も描き直した跡があった。受け取った優也は、彼女の優しさに涙した。
「ありがとう、優子。一緒に卒業してくれて」
その後、卒業式前日に、優也は静かに息を引き取った。優子が知ったのは卒業式当日の朝である。
そして彼女の家に、一枚の水彩画の絵が届いたのだった。
題名は「雨と虹と」