答えと理由
思ってもいなかった言葉だったのか、アレスが黙り込む。
「あの、驚かれたかもしれませんけど、アレス様にずっと憧れていました。お父様に連れられて行った神殿の行事で初めてアレス様を見てからずっとです」
一目惚れだった。
話しかける勇気も機会も無かったけれど、アレスから目が離せなくて、夢中でその姿を追った。
アレスの事を想うと、心が浮き立って幸せにな気持ちになった。だから父に結婚相手がアレスだと告げられた時は天に昇る様な気持ちになった。
初恋の相手の妻になれるなんて、そんな幸せな事はない。嬉しくて幸せで何もかもが輝いて見えた。
そんな気持ちをアレスに分かって欲しいと思った。けれど、アレスは相変わらず冷ややかに吐き捨てる。
「お前は話もした事が無い相手を好きになるのか?」
「え?」
「お前は俺の事なんて何も知らないだろう。どんな人間かも分からないのに、好きになるのか?」
「そ、それは……」
確かに妻とは名ばかりで、アレスの事は何も知らない。当然、結婚前も。それでも、アレスへの想いは間違いのない真実だった。
「アレス様を好きな気持ちは本当です。信じて貰えなくてもこの気持ちは変わりません!」
部屋を気まずい沈黙が包む。
アレスの表情からは何を考えているのか分からない。もう何も言わない方がいいのだろうか。
(でも、こんな風にアレス様と話す機会はもう無いかもしれない)
「アレス様はどうして私を嫌うのですか?」
恐る恐る問うと、アレスが伏せていた目を上げた。冷たい光を宿した瞳と視線が重なる。
「アレス様はよく知らない人間を好きになるのかと聞かれました。逆に考えれば私を嫌うのには理由が有るって事ですよね? 教えてください。私の何がいけないんですか?」
真実を知らないまま嫌われているのは悲しすぎる。
フィーアと話した通り、ただ結婚自体が嫌だったのか。それともエレナ個人を嫌ってるのか。
アレスからの答えはなかなか返って来なかった。
(アレス様……答えてくれないの?)
理由を告げる価値すらないと思われているのか。泣きそうな気持ちになっていると、アレスが重い溜め息を吐いた。
「俺は、お前だけは妻にしたくなかった」
「え……」
アレスの言葉が胸に突き刺さる。お前とだけは……つまりエレナとだけは結婚したくなかったという事だ。
「ど、どうして」
動揺のあまり声が震える。アレスは僅かに眉をひそめながら続けた。
「お前が神官長の娘だからだ」
「お父様の? ……でも、どうして……」
確かに夜会の最中、アレスと父の仲は良く見えなかった。でも理由が分からない。
王家とカーナ家の仲は良好で、父はアレスの父で有る国王の信頼を得ているのだから。
「お前の父親は民の信頼を集める神官長だ。だが俺は認めていない」
「どうしてですか? お父様はアレス様に何か酷いことをしたのですか?」
いくら馴染みの薄い父親でも悪く言われれば心が痛い。相手が想いを寄せるアレスなら尚更だった。
「現神官長に個人的な恨みが有る訳じゃない。だが代々の神官長のやり方には嫌気がさしている」
「やり方?」
「そうだ。お前はサリアが他国から何と言われているか知っているか?」
「大陸最古の王国ですよね? サリアは最大の強国、エザリアより古い伝統有る国だと言われています」
突然変わった話題に戸惑いながら答える。けれど、アレスは口元に皮肉な笑みを浮かべながら否定した。
「そんなのは表向きの話だ。実際は宗教国家サリア……神官が支配する国、それが他国からのサリアの評価だ」
「神官が支配する国? サリアで一番権力が有るのは国王陛下なのに?」
「それも表向きの話だ。実際サリアを支配しているのは神官長なのだからな」
「そんなまさか!」
自分の父親がサリアの支配者なわけがない。
「まさかではなく真実だ。俺の妃にお前を選んだのも神官長だ。世継ぎが生まれたら外祖父として更なる権力を得るつもりだ」
そんな話は知らない。父は嫁ぐ時に何も言わなかった。
「俺は神官長の言いなりにはならない。だからお前を離縁する」
はっきりと宣言され、エレナは衝撃を受け息をのんだ。アレスの強い意志を感じて、絶望を感じた。
「お前も俺の事など考えず、他に目を向けろ」
「そんな事……」
出来る訳がない。けれど、冷たい壁を作るアレスに縋る事は出来なかった。
アレスが部屋を出て行くと、エレナは身体の力を失った様に項垂れた。
アレスに疎まれている理由は良く分かった。アレスと父との間にある確執。
そんな事も知らずに、浮かれて嫁いで来た自分。
(なんて、おめでたい……)
自分の呑気さに呆れてしまう。
この結婚にどんな意味が有るのか、考えようとしなかった。ただ、アレスの妃になれる事が嬉しくて、その裏の現実から目を反らしていた。
この先、どうすればいいのだろう。
本当にアレスの言う通り、離縁の日を大人しく待たないといけないのか。
(そんなの嫌!)
冷たくされようと、実家との関係が気まずくなろうとアレスの側から離れたくなかった。
けれどアレスはエレナを疎ましく思っている。あそこまではっきり拒絶されたのだから、アレスの気持ちは明らかだ。
それなのに、アレスの気持ちが変わるかもしれないなんて、僅かに甘い期待を持ち、いつか本当の夫婦になれるかもしれないと考えてしまう。
「エレナ様」
アレス滞在中は下がっていたフィーアが戻って来た。
「何か有ったのですか?」
「……いえ」
エレナはフィーアを見つめながら、小さく首を振った。それから決心の籠もった強い声で言った。
「私……やっぱりアレス様を諦められない」
フィーアは一瞬、戸惑いを見せたけれど、穏やかな表情で「分かってますよ」と頷いた。
翌早朝。エレナはアレスの宮の近くに有る厩舎を訪れていた。
「何をしている?」
エレナの存在に気付いた途端、アレスは不機嫌な声を出した。その様子に早くも怖じ気づきそうになる。
(ここで諦めちゃだめ!)
自分を奮い立たせてアレスに近付いた。
「アレス様が毎朝遠乗りに出ると聞いたので。私も一緒に行く事を許して下さい」
「駄目だ。部屋に戻れ」
アレスの返事はとりつく島も無い冷たい。それは予想どおりで、その上で退かないと決めていた。
「嫌です。どうしても遠乗りに行きたいんです!」
「それなら勝手に行け、俺に付きまとうのは止めろ」
「私は、アレス様とご一緒したいのです」
懇願するようにアレスの顔を見上げると、その顔は怒りを感じている様に強張った。
「いい加減にしろ」
「どうして一緒に行ってはいけないんですか?」
「昨夜の話を覚えてないのか?」
「忘れる訳が有りません。でも私は今はアレス様の妻です、たまに一緒に遠乗りに行くくらい許されると思います」
こんな風にアレスに反抗するのは初めてだった。でもこれくらいしなければアレスと会話をする機会すらない。
アレスは怒りの籠もった目でエレナを見つめる。
「……勝手にしろ」
しばらくしてから怖い程の冷たさで言い捨てると、エレナから目を反らし自分の馬に跨がった。
アレスは後ろを振り返る事なく馬を駆る。エレナの存在などまるで気にも留めていない。
必死に後を追うエレナに、アレスの従者が気遣う様に声をかけて来た。
「妃殿下、危険です。無理はなさらないで下さい」
従者はいつもアレスの近くに居る年若い優しい面持ちの青年だ。名は確か、ライと言った。エレナの事を本当に心配してくれている様で、いつもにこやかな顔が曇っている。
「大丈夫、私、馬だけは得意なの」
エレナはニコリと笑うと、再び前を向き馬の速度を上げた。風を切って走り遠くに見えるアレスの背中を追う。
流れて行く朝の景色。ひんやりとした風が頬に当たる。ざわめく木々の音が聞こえてくる。
(気持ちがいい……)
アレスを追うのが目的だったけれど、いつの間にか久しぶりに馬で駆ける事に夢中になっていた。
どれくらい走ったのか。
アレスは木々に囲まれた小さな湖で馬を止めた。エレナもそれに習い馬から降りる。
朝の光を浴びた湖は銀色に輝き、まるで鏡の様だった。
「綺麗! こんな所が有るなんて知りませんでした」
思わず声に出すと、アレスが疎ましそうな視線を送って来た。
(アレス様、やっぱり怒ってる……勝手に着いて来たんだから、仕方ないけど)
「少しは自分の立場を考えたらどうだ?」
「え?」
不機嫌さを隠さないアレスの声に、咄嗟に言葉が出て来ない。
「こんな事をして何になる? 確かにお前は今は王太子妃だが、それは永遠には続かない。そう伝えたはずだ」
厳しいアレスの目。久しぶりに自由を感じ解放された気持ちがしぼんでいくようだった。それでも何とか口を開く。
「私はアレス様が好きです。近い内に別れがやって来ると分かっていてもその気持ちは変わりません」
「……」
「だから……決めたんです。自分の気持ちに素直になろうって。アレス様に会いたい、話したい。だから今日無理に付いて来たんです」
「俺の迷惑は考えないのか?」
冷たいアレスの言葉。覚悟はしていても胸に突き刺さる。
「アレス様の迷惑にはなりたく有りません」
「それならこんな無茶な真似は止めろ」
冷めたく言われ、涙が溢れそうになる。零れ落ちない様に目を瞑り、それから心の痛みに耐えながら目を開けた。
「出来ません……アレス様が好きなんです。諦めて何もしないでいるなんて出来ないんです」
「俺はお前の想いに応えるつもりはない」
「分かってます。近い未来に離縁される事も……でもそれまでに自分を納得させたいんです」
「納得?」
「私にだって感情が有ります。断れないから仕方なく妻にしたけれど時期が来たら出て行けと言われて、素直に分かりましたなんて言えません」
「……お前の行動は無意味な事ばかりだ」
「アレス様はそう思うかもしれないけど、私にとっては大切な事なんです」
もし別れの日が来てしまったら、その時自分は精一杯頑張ったと納得したい。
「アレス様に常に付きまとったりする気は有りません。でも、こうして一緒に馬で駆けるのだけは許して下さい」
必死に言い、頭を下げる。
「勝手にしろ」
アレスはエレナから目を反らすと、どこか力無い声で言った。