告白
自室の居間で寛いでいたエレナのもとに、乳母が満面の笑みを浮かべて近付いて来た。
随分と機嫌が良さそうだ。
「姫様、本日の夜会には神官長もいらっしゃるそうです」
「お父様が? 珍しいわね、お父様は賑やかな場がお嫌いなのに」
「きっと姫様の様子を見に来るのでしょう。今夜は王太子妃としての役割をしっかり務めているところを見せなくては!」
乳母は張り切って言うと、支度が有ると言いふくよかな体を揺らしながら去って行った。
その背中が見えなくなると、エレナは近くに控えていたフィーアに声をかけた。
「お父様がわざわざ私に会う為に夜会に出ると思う?」
「思いません」
悩む様子もなく、あっさりと否定される。
「そうよね」
決して仲の良い親子ではなかった。幼い頃から神殿に居る事の多かった父とは顔を合わす事も少なくて、三月会わない事も珍しくはなかった。そんな父が嫁いだエレナの様子を見る為に夜会に来るとは思えない。
「おそらく国王やアレス様に用が有るのでしょう」
「アレス様に?何の用で?」
「分かりません。でもアレス様の妃として気は遣わないと。神官長は王に次ぐ権力者ですから」
「そうね、分かったわ」
父を接待するなんておかしな気もするけれど、アレスの役に立てるなら何でもするつもりでいるのだから。
王家主催の夜会に出られるのは爵位を持つ貴族とそれに準じる者と決められている。貴族最高位の公爵から、下級貴族の男爵、爵位を持たない縁者達。その全てが集まったかの様に、今日の夜会は盛況だった。
「凄い。今日はいつもより人が多いけど何か有るのかしら」
小声でフィーアに問いかけた。男爵家の娘であるフィーアは夜会に出席出来る女官の為、常にエレナに付き従っている。
「神官長への機嫌伺いかもしれません」
さりげなく周囲を観察していたフィーアも声を潜めて答えた。
「お父様への?」
「とにかく行きましょう。アレス様はもう席に着いてるようです」
「あっ、そうね」
フィーアに促され、大広間をゆっくりと進んで行く。
エレナの歩みに合わせて、乳母が用意した乳白色のドレスの裾がヒラヒラと翻り、繊細な金細工の髪飾りが揺れる。周囲の注目が自分に集まっているのを感じながら、アレスの隣に用意された席に座った。
アレスはエレナにチラッと視線を向けて来ただけで何も言う事は無く、直ぐに視線を逸らしてしまう明らかに関心の無い態度だ。そんなアレスの正装姿はいつにも増して凛々しくて見とれてしまう。ついうっとりとしていると、
「妃殿下、どうなさいました?」
挨拶に来た大臣に声をかけられ、我に返った。
「あ……何でも有りません」
大臣は不思議そうにしながらも、隣のアレスに視線を移して言った。
「今宵は神官長様もおいでになりますから、妃殿下もお喜びでしょう」
「……そうだろうな」
アレスはニコリともせずに素っ気なく頷く。大臣は少し戸惑った様子をしながら、今度はエレナに向かって言った。
「神官長様は国王陛下にご挨拶をした後、こちらにいらっしゃるとの事です」
「そうですか。父に久しぶりに会えるのは嬉しいです」
本当は父よりアレスの事で頭がいっぱいだったけれど、人の良さそうな大臣の気遣いに応えて微笑んだ。
その直後、アレスの視線が一瞬、鋭く向けられたのを感じた。
(アレス様?)
エレナがアレスに声をかけるのより早く、広間が騒がしくなった。
大広間の入り口には、エレナの父である神官長の姿が有った。上質だけれど飾り気の無い白の法衣姿は、鮮やかな衣装の貴族達に比べると格段に地味だった。けれど周囲の注目は神官長に注がれている。
神官長は広間の中央をゆっくりと進み、貴族達は当然の様に道を譲る。まるで王の様に堂々とした歩みの神官長は、アレスの席の前で足を止めた。
「王太子殿下、お久しぶりです」
「この様な場に出て来るとは珍しいな。娘に会いたくなったのか?」
アレスの声は冷やかだ。
「陛下の下を訪れたついでです」
神官長は気にする様子も無くエレナに視線を移した。
「……お父様」
「息災か?」
「はい」
実の父親なのに、相変わらず親しみを感じる事が出来なかった。近寄りがたい壁を感じてしまう。
「何か辛い事や困っている事は無いか?」
「え?」
「有るなら今言うように。王宮に改善する様に申し入れる」
「辛い事は……」
アレスとの関係が辛くて悲しい。冷たく拒否されて胸が痛い。でも……。
「有りません。王宮の皆は良くしてくれます」
「お前は神官長の娘だ。偽りを口にする事は許されない」
心を見透かす様な父の言葉に、鼓動が速くなった。
(嘘じゃない、みんな優しいもの……アレス様以外は)
「本当です、お父様」
「そうか、それならいい。王太子殿下にはいたわって頂いているか?」
その瞬間、アレスと父の間の空気が張り詰めた気がした。
(お父様は全て知っているの?)
アレスとエレナの不仲はまだ噂になる程ではない。
仲良い夫婦とは見られてないけれど、政略結婚だからそれはおかしな事では無い為、実情の深刻さを知っている人間はほとんどいない。
父の真意は分からない。
「アレス様の妃になれた事を幸せに思っています」
それでもエレナは心のままに告げた。
夜会は盛況なまま幕を閉じた。
エレナの仕事は次々と挨拶に訪れる貴族達の対応くらいだったけれど、それでも自室に戻った頃にはすっかり疲れ果てていた。その様子を見てか、乳母や侍女が気遣ってくれる。
「エレナ様、お茶を入れました」
「ありがとう」
慣れた自分の居間で、香りの良い紅茶を飲んでいると気分が和らいだ。
(アレス様とお父様は、仲が悪いのかしら?)
お互いあからさまな態度には出さないけれど、二人の間には緊迫した空気を感じた。
(国王陛下とお父様は仲が良いと聞いてるけど)
考え込んでいると、席を外していたフィーアが慌ただしく扉を開きエレナの元に駆け寄って来た。
「エレナ様!」
「どうしたの? そんなに慌てて」
いつも冷静なフィーアが息を切らしている姿は珍しい。何事だろうかと、エレナは首を傾げ、控えていた乳母と侍女達の視線もフィーアに集まる。
フィーアはそんな事はまるで気にせずに一気に言った。
「エレナ様、これから王太子殿下がおいでになるとの事です!」
「えっ?! アレス様が?」
予想外の知らせにエレナも驚きの声を上げる。
「はい、たった今知らせが有りました」
「どうして?」
「用件は知らされていません」
夫が妻の部屋を訪れるのは普通なら自然な事だけれど、アレスとエレナの間に限っては異常事態だ。
(アレス様は、何をしに来るの?)
夜会の間、アレスはいつもと変わらず素っ気なかった。突然気が変わって仲良くしようなんて言うとは思えない。
だったら何の用で来るのか。今度は何を言われるのか。不安が募る。それでも、
(アレス様と二人で話せる……嬉しい)
緊張しているのは心配からだけではなかった。
それから直ぐにアレスはやって来た。夜会で会った時と同じ正装姿で部屋に戻った様子は無い。
アレスは人払いを命じると、居間の中央の長椅子に座り、エレナにも正面の椅子に座る様に促した。
侍女達が下がると、アレスは険しい顔をして口を開いた。
「夜会での態度はどういうつもりだ?」
「え……態度?」
(私、何か失敗した?)
アレスに恥をかかせる様な振る舞いをしてしまったのか。慌てて今夜の自分の行動を思い起こす。けれど、アレスの怒りをかうような言動は無かったように思う。
今日は父が来ていた事も有り、最大限に気を遣い、大人しくもしていたつもりだ。心当たりもなく戸惑うエレナに、アレスは苛立たしそうに目を細めた。
「俺の妃になれて幸せだと言っただろう?」
「はい。言いました」
それは忘れる訳がない。
「なぜそんな偽りを言った? 俺に蔑ろにされているとなぜ言わなかった?」
「なぜって……」
「俺の立場を気遣ったつもりか?」
父親に言わなかったのはアレスに気遣ったという事も確かに有る。アレスの評価を落としたくなかったから。でもそれだけじゃない。
「私は偽りなんて一言も言っていません」
アレスの目を真っ直ぐ見つめながら言う。
「私はアレス様と結婚出来て良かった。幸せだと思ってます」
アレスは一瞬驚きの表情を浮かべたけれど、直ぐに冷たい目をしてエレナを見た。
「そこまで王太子妃の地位を欲していたのか? 見かけによらず権力欲の固まりというわけか」
吐き捨てる様なアレスの言葉に、今度はエレナが驚いた。
「違います!」
「何が違うんだ?」
「私は王太子妃になりたかった訳ではありません。ただ……」
「ただ何だ? はっきり言え」
鋭い目で見据えられ、鼓動が早くなる。
成り行きでこんな話になってしまったから心の準備が出来ていない。それでも今はっきり気持ちを伝えなければ、アレスに近付く機会を永遠に失ってしまうと思った。
「私は……アレス様の妃になれた事が嬉しいんです」
「何を企んでいるか知らないが嘘を言うな。離縁すると言うような男の妃になってなぜ嬉しい?」
アレスはますます険しい表情になる。
「それは……離縁するって言われた事は辛かったけど、でもずっとアレス様の事が好きだったから」