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惜別のとき



「花奏ちゃんって、泣き虫だよなぁ」

奏汰さんが困ったように笑いながら、私の頭をポンポンとなでた。

「泣き虫とか言われたことないよ」

これは事実。

たしかに私は泣かない人だった。

でも、それは本当に悲しいこととかがなかったんだと思う。

「目から汗が出てるよ?」

ああ。この人の笑顔は、柔らかい。

自然と口元が緩むけど、やっぱり涙が出てくる。


「ねえ、奏汰さん」

「ん?」

「もしも、行かないでって言ったらどうする?」

奏汰さんに行って欲しくない。死んでほしくない。

だけど、「行かないで」とはっきりいう事はできなかった。

「それでも行くよ」


奏汰さんが、ベンチをハンカチで拭いて、座った。私も彼に促され、腰を下ろす。

「日が沈むのが、こんなに早いなんて」

隣から掠れた声が聞こえた。

「今日の夜、町の人たちが小さな壮行会みたいなのをしてくれるんだ。

普段から、食べ物も酒も不足してるのに親切過ぎるよなあ」

「それはあなたがみんなに好かれているからだ」と心の中で答えた。

「……だから、太陽が全部沈んで、空が紺碧色になったら、帰るね」

さよならなんて、言いたくない。離れたくない。

それでも、茜空は時間を刻んでいく。


にわかに吹いた風が、ほとんど散った金木犀の香りを運んだ。

初めて会った日の『タイスの瞑想曲』を思い出して、胸がぎゅうっと掴まれる。


私の左手が、奏汰さんの右手にぶつかった。

「……あ」

目と目があって、何も言えなくなって。

……それなのに、目は離せなくて。

目を閉じたら、この人しか浮かばないくらい、見つめていたい。


「花奏ちゃんの夢ってなに?」


もう、諦めたの。

諦めたつもりなのにーーーー


「バイオリニスト」


言葉は勝手に出てきた。

溢れ出したそれは、とまらない。


「奏汰さんみたいに、人の心を溶かせるようなバイオリニストに、私はなりたい」


にっこりと微笑んだ奏汰さんの頬に一筋、涙が流れているのが見えた。


「……よかった。

何かを残すことが出来て、よかった」

それは、人生の中で見た笑い顔で一番、美しかった。


「三日間だけだったけど、君と過ごせて、最後の瞬間まで人として生きようと思えたよ。

……ありがとう」

死ぬ日も、死ぬ理由も決まっているのに、勇気を持って生きている。

「花奏ちゃんのバイオリンが、俺に勇気をくれた」

この人の安らぎの場所に、少しでもなれたのなら、素直に嬉しい。

「海軍に入ったその瞬間から、俺は自分を人殺しだと思って生きてきた。

お国のために華を咲かせられたら、それでよかった」

静かに次の言葉を待つ。

「音楽学校に行くか悩んだんだけど、戦争が始まって」

戦争が、奏汰さんの未来を変えた。

「いつかは戦いに行かなければならなくなるだろうから、それならいっそのこと、軍人を職業にしたいって思って潜水学校に行ったんだ」

潜水学校は、軍学校だったと、やっとわかった。

「もちろん長男だからすごく反対はされたんだよ?」

「うん」

「でもね、どうせ死ぬなら、誰かの役に立って死にたかった」

死というのがどれだけ重い事なのか、微かに震える彼の瞳から読み取れる。


「俺、音楽がこんなに人の役に立つって知らなかったんだよ」

また、手を握られた。

「この腕は、誰かの役に立つ、素敵な腕だよ。

君のその音で、救われる人がたくさんいるはず」

本当は、もうすぐその命を散らす人を、私が励ますべきなのに、また優しさを受け取ってしまった。


「君がいるから、最後まで俺が俺でいられる。」


奏汰さんは、泣いていた。


「ありがとう」


私は、全力で頷く。むしろ、私の方こそ感謝でいっぱいなのに。


「私の方こそ、嫌なことがあっても頑張ろうって思えたのは、奏汰さんに会えたから」


空を見上げた。

紺碧色に染まっていた。


「ああ、もう時間がないや」


奏汰さんは立ち上がり、私に手を差し伸べた。

私はその手をとって、ベンチから立った。


「それじゃあ、俺、行かなきゃ……」


切ない。切ない。切ない……。


「花奏ちゃん、元気でね」


ふたりに距離ができていく。

小さくなる後ろ姿。

走馬灯のように駆け巡るいろいろな表情。

そのすべてに別れを告げる時がやってきたのだ。


「奏汰さん!」


叫んで、大きく手を振った。


「お元気で! また会おう」


愛しの人が頷くのが見えた。

ほっとして俯いて、再び視線を戻した頃にはもうその姿はなかった。



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