マーブル模様
四時間の授業を終えて、なんとか家に帰った。
友達と何を話したか、先生がなんといっていたか、すべて思い出せない。
多分きちんと聞いていなかったから。
「ただいま」
そう声をかけた家の中は、静まり返っている。
昨日、兄が居座っていたリビングの机の上には、その騒がしさの代わりに一枚の置き手紙があった。
「お兄ちゃんも、お母さんも、お父さんも今日は多分帰りが遅くなります。 母」
母親の達筆な文字を目でおって、ため息をついた。
帰り道、曇ってはいたものの、雨は降っていなかったし、風はさほど強くなかった。
本当に台風なんて来るのか、疑問に思う。
今はまだ、午後二時半。
奏汰さんに会いに行く時間まで、余裕がある。
だからといって、課題をする気にもなれず、制服のまま自室に行ってベッドにダイブした。
枕に顔を埋めても、羽根布団を頭まで被っても、落ち着かない。
目を閉じては、開けてを繰り返した。
どれくらいたった頃だろう。
窓の外が暗くなったと思うと、カタカタ、ゴーゴーという激しい音が聞こえた。
それは、風の音だった。
そのとき、ポケットの中に入れてあるスマートフォンが震えた。
ホームボタンを押して、画面をつけると、私は驚いた。
待受画面に表示されていた時刻が、午後四時五十分だったから。
急いでバイオリンと傘を持って玄関のドアを開けた。が、予想以上だった。
滝のように降ってくる雨と、すべてをさらっていくかのように吹き付ける風。
これでは傘を差すことも出来ない。
どうしよう。バイオリンに水は大敵だ。
考えている間にも時は流れた。
「夕焼け小焼けの赤とんぼ」
外から、かすかに午後五時を知らせるチャイムが聞こえてきた。
「やばいじゃん。早く行かなきゃ」
台所から四十五リットルのビニール袋を探す。
「どうして見つからないの!?」
すべての引き出しを開けて、荒っぽく中を見た。
そして、食器棚の一番下を開けたとき、半透明のビニール袋を見つけると、最後の一枚だということも気にせずそれを楽器に被せて家を飛び出した。
台所から玄関に行くまでに、急ぎすぎて家具を蹴飛ばしてしまったからか、足が痛い。
それでも、走った。
風に体が持っていかれそうになっても走った。
普段は穏やかな相模湾も、今は荒れている。
国道の入り口に数人の男の人がたっているのが見えた。
……きっと、通行止めになったんだ。
「お嬢さん、ここは通れないよ! 家に帰りなさい」
予想は大当たり。
「ごめんなさい!」
おじさん達の間をすり抜けて、ただひたすら前へ足を出した。
やがて目に付いた錆びた階段を駆け上ってたどり着いた高台の、その向こう。
奥に進めば進むほど、胸の鼓動は速まるばかり。
雨に濡れ、風に揺れる金木犀の中に一人。
空を見上げる男の人がいた。
その姿を見たとき、私は時が止まったかのように感じた。
「奏汰さん!」
暴風にかき消されないように叫ぶ。
「花奏ちゃん」
目が合う。無我夢中で奏汰さんの元へと駆け出した。
その二倍速で距離が近づく。
やがて、二人の間は一尺ほどとなり、私は抱きしめられた。
バイオリンを持ちながらも、ゆっくりと彼の背中へ腕を回した。
「だめじゃないか。こんなに濡れて、風邪ひくよ」
「奏汰さんこそ」
伝わる鼓動、にわかにかかる吐息。
そのすべてが、夢だったのなら。
覚めても、覚めなくても続く、長い夢だったのなら。
シャツ越しに、奏汰さんの体温が伝わる。
こんな天気も気にならないくらい、ドキドキした。
今までにも数人の男の子と付き合ったことがあったけど、こんなに胸がきゅん、として呼吸をするのさえ、ためらうような思いは感じたことがない。
これが、初恋だったら良かったのに。
この何番目かもわからない恋は、今までで一番ーーーーいや、これからも一番大切で、短くて、忘れられない恋になる。
もしも、奏汰さんと私が同じ時代に生まれていたとしたら、ずっとそばにいられたのかな。
付き合ったり、できたのかな。
もうすぐ終わる恋だって、分かっているのに、心が、一秒一秒ときめいて、奏汰さんでいっぱいになってしまう。
きっと、奏汰さんも私のことが好きになってる。
もちろん、私は奏汰さんに引き返せないくらい落ちてしまった。
恋は、お互いの思いが通じたら、叶うと信じてたのに。
それなのに、叶わない。
言葉に表せないような悔しさと、愛しさが、私の胸の中にマーブル模様を作った。
好きです、奏汰さんーーーー。