鮮やかな海
「こんにちは、花奏ちゃん」
八木さんの白いシャツが風に揺れた。
金木犀が香る。
人と自然が、こんなにも美しすぎるから、我慢ができなくなった。
泣くな、自分。すぐ泣く女は嫌われるぞ。
言い聞かせてみても、涙は勝手に溢れてくる。
「すみません、目から汗が……。
だって、ほら。今日、暑いじゃないですか」
聞かれてもいないのに、漫画のような言い訳をしてしまい、格好悪いな、と思った。
「汗をこれで拭きなさい」
いつもと違うトーンの八木さんの声がした。
そちらを見ると、彼はハンカチを持って、笑っている。
しかも、「汗を拭くにはタオルの方がいいけどね」なんていいながら。
「あはは」
なぜだか、その優しさがくすぐったくて、今度は笑いが勝手に溢れてきた。
「奏汰さんって面白いですね」
「え、今」
奏汰さんがフリーズした。
「ごめんなさい!」
嫌われてしまったら、どうしよう。
「馬鹿にしたわけじゃないんです。
今日はあんまり気分が良くなくて……。
でも、奏汰さんと話したら元気が出たからすごいなって」
息継ぎをしないで言い切った。
必死になりすぎたかもしれない。
引かれていたらどうしよう。
「そうじゃなくて、今!」
パン、と手を叩く音が聞こえた。
「今、俺のこと奏汰さんって呼んでくれたよね!?」
そう言われてはっとした。
記憶を遡ってみると、確かに言っている。
「すみません! 馴れ馴れしくしちゃって!」
妙に親しみを感じてしまったけれど、向こうからしたら私なんて得体の知れない女だ。
そんなやつにいきなり名前を呼ばれるなんて、いい気はしないのではないだろうか。
ああ、時間を巻き戻したい。
「いいよ、すごくうれしいから」
安心して、世界が明るくなったような気がした。
「ありがとうございます!」
「あと、敬語も使わなくていいからね」
「わかりました」
「あ、今敬語使った!」
にこにこした奏汰さんを見たら、なんだか恥ずかしくなってしまって顔を手で覆った。
指と指の隙間から覗く海は、今までに見たことないくらい、輝いていて、鮮やかに見えた。