5話
誰もいない放課後の多目的室。そこはほとんど物置にされており、中央に名目上しかたなく置かれた長机とパイプ椅子がある以外、大量の段ボールやパイプ椅子などの備品が置かれていた。
埃っぽいその部屋に夕日が差し込んで来てキラキラと光る。穏やかな空気が流れているように見えるその教室で、あづさと神田はやや緊張した面持ちで長机を挟んで向かい合って座っていた。
「じゃ、まず現国」
神田の良く通る低い声が響いて、あづさはこくりとひとつ頷いた。鞄から現国のテストを取り出して机の上に伏せて置けば、同じタイミングで神田も己の答案を机に伏せて置く。
「「せーの」」
ばっとひっくり返したそこには——三戸あづさ95点、神田武87点が記されていた。
「!」
両者の顔がぱっと対照的に変わる。しかし、まだ1教科。しかもこれはあづさの得意とするものであり、神田の不得意分野だ。気を取り直して次に進む。
「じゃあ次、英語」
「あ、はい」
——三戸あづさ83点、神田武89点
「!!」
今回の英語はかなり難しかったのに。あづさが驚いて神田を見れば、神田はその端正な大人びた顔で子供っぽくニヤリと笑ってみせた。あづさはそれを内心でむっと睨みつける。
文系のあづさは英語と国語そして得意の社会で大きく差を開くことが出来なければ神田に勝つ事は難しい。残るは現代文演習と古典、そして英文法演習。社会は日本史と現代社会だ。
だが、この5科目は自信がある。あづさは、ぐっと身を乗り出した。
「つ、次は数学!」
「解った。三戸はまっちゃんの数学演習取ってるか?」
「あ、ううん。松田先生のは取ってないの」
「じゃあ演習以外の2科目一気にやろう」
「あ、はい」
ごそごそとプリントを探し出して、また机に伏せる。そして「せーの」で見せ合う。それを繰り返す事、十数回。
軍配は、僅差で神田に上がった。
「…勝った」
「うぅう〜、負けたぁ…!」
ずるずると机の上に顔を乗せるようにして沈んで行くあづさ。余程悔しいのだろう、机につけた額をなかなか上げようとしなかった。
今日は高校最終学年2学期の期末テスト答案返却日だった。
あの、雨の日からすでに2年と少し。その間に行われたテストの数は19回。あづさと神田はずっと勝負し続け、そして驚く事にその勝者はずっと神田だった。
つまり、あづさの連敗。それでもこの勝負が続いたのはひとえに、あづさ本人も気付いてなかった彼女の負けず嫌いな性格のなせる業だった。
大人しい、争いごとが嫌いに見えるあづさだからこそ、その負けず嫌いっぷりは神田もかなり驚いた。あづさ自身、そのことに無自覚だったのは、それほど一生懸命になる勝負事がなかったことと、自ら進んでやるほどには勝負事そのものが好きなわけではなかったからだ。しかし、仕掛けられれば話は別なのだという事が神田との付き合いで解ったのだった。
そしてもうひとつ。この勝負で当然の事ながら面白いくらい成績が伸びたのだ。それというのも、初めてのテスト結果をお互いに報告しあったあと、敗北に打ちひしがれていたあづさに、神田が勉強会を提案したことが始まりだった。
神田とあづさは得意科目がほぼ正反対で、お互い教え合う事ができた。テスト後すぐに、間違い直しをする勉強会を、ふたりで、ときには神田の親友陽介とあづさの親友真紀を交えたりしながら続けていた。これがきっかけで陽介と真紀は付き合いだしたのだが、これはまた別の話だ。ともあれ、こうしてあれから2年以上もの間、あづさはあの神田の問いの答えを巡って勝負を挑み続けていたのだった。
ことんと頭を机につけたまま、右へ回してあづさが顔を覗かせた。いつもより、落ち込みが深いように見受けられる。今度こそはと挑み、それなりに自信もあったらしいから、この落ち込みようも当然と言えば当然だ。
「三戸、数学伸びたよな。数学で負けると思ってなかったからびっくりした」
「…うん。神田君のおかげ……」
「……拗ねんなよ。俺が言うのも変だけど…、さすがに今回はもうダメかと思った」
神田はあづさを浮上させようと探り探り言葉を紡いだ。だが、あづさから帰って来たのは全く違う反応だった。
「…違うの」
「…何が?」
「拗ねてるんじゃないの」
「違うのか?」
「うん…あのね、テスト、あと、1回しか残ってないでしょ?…だから…」
「だから?」
「次、負けちゃったら、答え、もう教えてもらえないかなって思って……」
「……」
この2年。神田とあづさは、よい友人関係を築いてきた。始めの頃は勉強に関する事ばかり。それでも放課後一緒に本屋に行って参考書をみたり、学校ではなく近所のファストフード店で勉強するようになったりと、徐々にテスト後の勉強会以外でもふたりで過ごすことが増えていった。
陽介と真紀を交えた勉強会をするようになってから、話題に上がった映画をみんなで観に行ったことをきっかけに、ボーリング、テーマパーク、プールにアイススケート、夏祭りにヴァレンタインに花火に初詣。同年の子がするだろう遊びを一緒に楽しむようになった。陽介と真紀に騙されて、去年のクリスマスはふたりだけで過ごした。
それでも、ふたりは友人のままだった。
神田は何度となく、己の課した約束に地団駄を踏んだ。あづさとともに過ごす時間が増え、あづさへの想いはますます強くなった。ふと見せる可愛らしいあづさの表情に、何度思いを伝えてしまいそうになったことか。感情を抑えきれずに、あづさがいるにもかかわらず顔が赤くなったことは最早両手両足でも足りない。いっそ想いに気付いてくれと枕を殴った回数は、それこそ数えるのも馬鹿らしかった。
だが、それは言ってはいけない、伝えてはいけないことだ。言ってしまえば、あづさの努力を踏みにじることになる。必死に、答えを知るべく努力してくれているあづさの誠意を踏みにじることになる。そして、自分がテストで手を抜く事も同義だ。全力を出して、負けなければ、あづさに想いを伝えることはできない。
もちろん、一概に悪い事ばかりではない。だが、それにしてもここまで自分の足枷になるとは、と思わずにはいられないことが多かった。なんておかしな勝負をけしかけたのだろうと、神田はこの2年、幾度となく陽介に愚痴をこぼしていた。
そしてとうとう、そのテストも残すところあと1回。大学受験を控え、3学期の学年末テストはセンター試験で代用される。それが終われば卒業だ。
「……三戸」
恐る恐る呼びかければ、あづさはようやく上体を起こした。口元に掛かっていた黒髪をすっと指で横へ流す。神田の好きなあづさの癖だ。あづさはほんの少し眉尻を下げて「ごめんね」と苦笑してみせ、鞄からノートと教科書を出した。神田もそれにならい、ノートを取り出しシャープペンシルを2度ノックしてから走らせた。
「…あのね、ホントは、このまま知らなくてもいいかな、なんて思ってたりするんだ。…あの答え」
「……なんで?」
カリカリと間違ったところを書き出しながら、ふたりはノートを見つめながら会話を続ける。淡々と返答をしたが、神田は内心酷く動揺していた。
「んー…なんて言ったら良いのかな…答えを聞くのが段々怖くなっちゃったっていうか…」
「——…」
「神田くんとこんなにも仲良くなれたのは、私が負け続けたからっていうのもあるでしょ?」
「…あー、まぁ…や、それは…」
「気にしないでね?変な意味はないの」
言葉を濁した神田にあづさはくすくすと笑う。笑いながら、しかしあづさはほんの少し寂しげに顔を曇らせ「ただね…」と続けた。
「ただね、じゃあ勝っちゃったらどうなるのかな、って…」
「……」
「可笑しいよね。どんな答えかも解らないのに…でも、どうしても考えちゃって……ごめんね、怖がりで…」
答えを知らないあづさにとっては当然なのかも知れない。申し訳なさそうに苦笑するあづさに、神田は「それは何となく解る」と曖昧に返事をした。カリカリ、とシャープペンシルがノートをひっかく音がふたりの間に響く。
解らなくはない。神田だって答えを言った後の変化を想像して、何度怖いと思ったか知れないのだから。答えを知らないあづさは神田とはまた違う怖さを感じて当然だろう。
真面目にノートに向うあづさをちらりと盗み見る。染めたことのない真っ黒で真っすぐな綺麗な髪。あの日から変わらず綺麗に眉の下で切りそろえられた前髪は、あづさの短めの睫毛をチラチラと隠す。わずかにちらばるにきび跡。もう赤みもないそれはまろい頬に申し訳なさそうにくぼみを作っているだけで、さらさらと触り心地のよさそうな肌が細い首まで繋がっている。
何度、触れたいと手を伸ばしただろうか。何度、それはいけないと爪を掌に食い込ませただろうか。
だからこそ。諦めてもらっては困るのだ。何としてでもあづさには勝ってもらわないと。そうでないと神田はあづさに想いを伝えることはできないのだから。どんなに怖いと思っていても、神田はそれ以上にこの気持ちをあづさに伝えたくて仕方がなかった。本当に好きになった相手には、秘すよりも伝えたくなるのだと教えたのは、他ならぬあづさだ。
どうか、諦めないで。求めて欲しい。青臭い問いかけの、その答えを。その先を。
どういえば、また乗り気になってくれるのか。それを考えるも、結局何も言えないまま神田は口をつぐんだ。