3話
別世界の住人だと思っていた神田との会話は意外なほど心地よかった。これだけの長い時間を共有してきた人と、再び他人に戻ることを淋しく感じるほどに。
けれど、この雨の世界が終われば、あっけなくもとの関係に戻るのだろう。ならば、せめて。学校ですれ違った時に、こっそりと微笑み合えるくらい。その程度で良い。その程度の関わりでいいから続いて欲しいと願うくらいは許されるだろうか。
ほどなくして、駅に着いた。傘を叩く雨の音が無くなり、ほっとする。田舎の小さなこの駅には駅員は駐在していない。自動改札機だけがひっそりと佇んで自分の仕事を全うしていた。あづさは定期券を通して改札を通る。神田は券売機で切符を買い、一歩遅れて改札を通るとかしゃんとそっけない音が響いた。
神田の定期券が切れていることに疑問を抱く。こんな中途半端な時期にどうしたのだろうかと思ったが、口には出さなかった。神田が自分が思うよりずっと気安い人だとは解っているが、まだ、異性を意識させる男子に気軽に声をかける勇気はあづさにはない。気後れするのだ。そんな自分に少しだけがっかりする。
勇気を出して聞いてみようかと思った丁度その時、ホームに電車が滑り込んで来た。神田はたっぷりと雨を含んだ傘を素早く一振りして電車に乗り込む。ホームのコンクリートに雨色の文様が残った。
あづさたちが乗り込んだ各駅停車が4度目に扉を開いた時、ふたりは黙って電車を降りた。乗り込んだ駅と同じく無人のこの駅には屋根が無い。改札機を守る為に申し訳程度に屋根があるだけだ。
相変わらずの雨。神田は電車を降りるその一連の流れの中ですっと傘をさし、当然といった様子であづさをそこへ自然と招き入れた。あづさはぺこりと小さく頭を下げて、音にする代わりに口の中で「ありがとう」の言葉を飴玉のように転がした。
「三戸、家二丁目だっけ?」
「あ、うん…神田くんはたしか六丁目だよね?」
「家まで送る」
「え!?い、いいよそんな!ここからじゃ真逆だもの。それに、ここまで来たら大丈夫。ほら」
あづさがそう言って見遣った先には、錆びてほとんど字が読めなくなった傘立てがある。かろうじて読める字をなぞれば〝愛の置き傘〟とあった。使わなくなって、寄付された傘を置き、突然の雨で傘がない人が自由に使い、また戻すという代物だ。あまり人が乗り降りしない無人駅だからなのか、大きな駅なら全く残っていないだろう愛の置き傘もこの駅にはまだ1、2本残っていた。
「あれ、使うのか?」
「うん。ここまで送ってくれただけでもとても助かったもの。テスト前だし、これ以上は迷惑かけられないから。本当にありがとう神田くん。すごく、嬉しかった」
「……」
嘘ではない。はじめの方こそ戸惑ってはいたが、神田との会話は楽しかったし、送ってもらわなければ、今でも学校の玄関ホールで立ち尽くしていただろう。あづさは心から笑って礼を言った。
だが神田は押し黙る。迷っているのだろう。下校のわずかな時間で再確認した、優しい神田らしいと、あづさは内心苦笑する。きっとこちらからもう一度断らないと神田はまた送ると言い出すような気がして、あづさはするりと傘を1本抜き取って神田を振り返って微笑みかけた。
「帰ろう?」
神田が一瞬驚いた表情をみせた。だがそれも一瞬。神田は何を思ったのかすぃと視線をそらすと片手で口元を覆うようにして俯いてしまった。
「神田くん?」
訝ってあづさが問えば、何事もなかったかのように神田は無表情をこちらに向けた。一体なんだったんだろう?何か気に触ることでもしたのだろうかと不安になったあづさに、神田は静かに語りかけた。
「あのさ」
「あ、はい」
「俺、実は高校上がると同時に引っ越してて…」
「え?」
「学校から歩いて20分なんだ。家」
「……ええっ!?」
思わず大きな声が出た。
今いる駅から帰る方向が真逆だのなんだのの話ではない。家が、学校の、徒歩圏内。
あづさはしばらく声を発することも出来ず、口をパクパクと開閉させる他なかった。神田はというとよほどあづさの反応が可笑しかったのかくすくすと笑っている。
「なんで…」
かろうじで言えたのはそれだけ。神田は相変わらずくすくすとほんの少し眉尻を下げて笑みを浮かべている。
「なんか全然解りませんって顔だな…」
そりゃそうだ。とあづさは危うく言いかけた。いくら十年ちかく同じ空間を共有していたからと言って、自分たちは今日まともに話をしたような仲だ。学校から学校の最寄りの駅までならまだしも、ここまで一緒だったのは神田が引っ越していたことを知らなかったからであって、そうでないなら学校の最寄りの駅で別れていた。
そもそもこうして一緒に通学路を歩くこと自体今までの関係から言えば一大事どういうのに、その上ここまで送ってもらう理由はあづさにはさっぱり見当がつかなかった。
神田は質問には答えず、ぽんとあづさの肩を叩いて「また」と挨拶をすると反対側のホームへと歩を進める。あづさも慌ててその後を追おうとしたが、神田に静かな視線で止められた。一路線だけの小さな踏切を渡れば、そこは六丁目だ。
「問題です。なんで俺はここまで三戸を送ったでしょう?」
踏切の向こうから雨に負けない大きな声が飛んできた。傘と雨に阻まれ、神田の顔は判然としない。それでも、声で笑っているだろうことが解った。
問題です。と言われれば学生の悲しい性かな、正解を言わなければ、と、あづさは必死で答えを探した。だがそのうちに遮断機がけたたましい音を発して電車が来たことを告げる。
「三戸ー!答え知りてぇ!?」
神田の叫ぶような声が届いた。知らなければ。とっさにあづさはそう思った。
「知りたい!」
生来声は小さい方だ。叫んでも、遮断機の耳が割れるようなこの音に、鼓膜を叩き続ける雨の音に、負けないで神田に伝えることが出来たかどうかは解らない。それでも神田が、満足そうに笑った気がした。遮断機が下りる。
あづさはどうして自分がこんなに必死になっているのだろうと疑問に思った。電車が来て、神田がそれに乗って帰ってしまっても、明日、隣のクラスに行ってなんだったのか訊けば良いじゃないか、そう思う。だが、そんなことは出来るはずもないと小心者があづさの体の中でぶんぶんと首を振っていて、今尋ねずにはいられない自分がいる。
今訊かなければ、神田はあづさをここまで送ってくれたこと自体をなかったことにしてしまうという確信があった。
それは、いやだ。
「教えて!」
「期末ーッ!」
神田が口元に手を添えて大声を張り上げる。ああ、雨の音が邪魔だ。あづさは必死で耳を傾けた。
「期末で俺に勝ったら教える!」
かろうじて聞こえたそれ。どういう意味か問い直す前に電車が来てしまった。神田は慌てて切符を買ってそれに飛び乗る。発車間際、神田は窓際からあづさを見つけるとふっと微笑み、するりと背を向けてしまった。
気付けばあづさの心臓は速度を増していた。その場にうずくまりたくなるようなぐちゃぐちゃの気持ち。雨で冷えきっているはずの体が、今は戸惑うほどに火照っている。雨の音が消えるほどに、心臓が胸を打つ音が大きい。
正直に言えばひとつだけ答えの心当たりがあった。
しかし、それを口にするのは、いや、そもそもその答えを思い描く事自体おこがましい。
違う違うと否定する。しかし、神田の意図を推し量れば推し量るほど、あづさが期待する答えであって欲しいと期待してしまう自分がいた。
こらこら、待て待て。期待するな。でもやっぱり。みっつの台詞が頭の中でぐるぐる回る。ぐるぐる、ぐるぐる。
ざあざあと降り続く雨は、まるでそんなあづさを笑っているようだ。
ああ、全くなんてことをしてくれたのか。送ってもらった厚意も忘れて恨みがましい気持ちになる。こんな状態にして放っておかないで欲しい。起伏のない穏やかな日常を愛するあづさには、天地を揺るがす大事件だ。
もうすぐ期末テストだというのに、こんな状態では腰を据えて勉強できる気がしない。しかし、神田のおかげでテストを頑張らないわけにいかなくなってしまった。
混乱した頭であっても、あづさは自然と定期考査の後に張り出される成績上位者のリストを思い出していた。
頑張れば勝てるかも知れない相手だ。でも、頑張らなければ決して勝てない相手だ。
それでも、今日投げかけられた質問の答えは知りたいと思ってしまっている。簡単になかったことに出来る。それなのに、出来ることなら知りたいと心が叫んでいる。ああ、なんて憂鬱な。それでも、やっぱり。
喜んでいる自分がいる。元に戻ることを惜しみ、かすかに抱いた希望が、叶うのかも知れない。ほんの小さな繋がりで良い。友人なんて贅沢は言わないから、繋がっていたいと祈った雨粒のように小さな願い。
それが、もしかしたらもっと形を変えて――
――あーあ、もう手遅れかなぁ…
あづさはふぅとひとつ息をつく。いまだ降り続く雨。頬もいまだ火照っている。
あづさは傘を開いた。降り続く雨を、祈るような気持ちで見上げる。
雨の世界がもたらした、小さな小さな想いの芽。
それに、ほんの少しだけ、恵みの雨を。
膨らむ期待を宥めすかし、あづさは自室の机を目指して雨の中に飛び込んだ。