2話
薄暗い林。誰もいない通学路で大粒の雨がひっきりなしに傘を叩く。
鼓膜が麻痺しそうな音をBGMに歩き始めて5分。だが、あづさはすでに1時間程歩いているような気がしていた。
頼むから何か喋ってと思う反面、気の利いた返事は出来ないだろうからこのまま何も言わないでと思っている自分もいる。まるで心臓をちりちりと焼かれているようだ。あづさは重い重い沈黙に絶えながら早く駅についてくれと祈るような気持ちで歩いていた。
勢いの強い雨は、神田の傘に入ってすぐにあづさの足下を濡らした。膝を隠すスカートの先。おろしたての真っ白のソックスはぐっしょりと濡れ、ふくらはぎは確認せずとも泥の斑点が出来ていることが解る。一歩歩く度に、ローファーに染み込んだ雨水がぐちゅぐちゅと脚の指の間を這い回る。
ああ早く。もっと速く。まだ駅に着かないのだろうか。
祈るような気持ちを、頭の中で言葉にする。だがふと、あづさは自分がいつもと変らぬ歩調で歩いていることに気がついた。落としていた視線をさらに落として神田の足を見た。
大きな真っ黒のローファー。あづさのものより一回りも二回りも大きく見える。しとどに濡れ、数えきれないほどの水滴を乗せては落とす神田のローファー。それをしばらく眺め、そして傘を見上げた。鈍く光る銀色の骨はあづさが傘をさすときよりも高い位置にある。
神田の長身から考えれば、この速さは随分ゆっくりなのではないだろうか。
——もしかして、歩調、合わせてくれてるのかな?
そう思ってふと首を動かせば、すでに自分を見ていた神田の視線とぶつかった。思わずぎょっと顔が強張る。
艶やかな黒い瞳があづさを見ている。神田は相変わらずの無表情で感情が掴めない。一体何を考えているのだろう。一体何を言われるのだろう。あづさは背中に厭な汗が流れるのを自覚する。しかし、その視線はすぐにあづさから外れ、正面を向いた。
「三戸は…」
「は、はい!」
「三戸は、俺のこと、覚えてる?」
「え?」
相変わらず鼓膜を麻痺させるような雨の音に混じって、ぼそぼそとくぐもったような神田の声が問いかけた。
あづさは聞き取り辛いうえに意味が解らず、思わず聞き返してしまった。
唐突に林を抜けて道が開け、視界が広がった。駅に直結している2車線の車道はがらんとしている。車道の向こうに広がる田圃にも案山子以外の人影は見当たらない。灰色の広大な世界にまるであづさと神田だけしかいないような。そんな錯覚をおこしそうだった。
「俺、保育園からずっと、小中もお前と同じとこ通ってたんだけど…」
会話をしていたはずなのに、いつもと違う世界にぼぉっとしてしまったらしい。あづさは慌てて神田の言葉を反芻した。
視線を真っ正面に据えたまま遠慮がちに話をする神田の横顔は、まるで自分の知る神田じゃないようだった。
何を言っているんだろう。
保育園からずっと同じところに通っていたなんて、そんなことは当然知っている。むしろ神田の方が自分のことを覚えていないのではないかと思っていたぐらいだ。なんて滑稽な勘違いだろう。あづさは何か突き抜けたように可笑しくなって、ふふ、と笑った。
「変なの。覚えてないわけないよ。神田くん、目立つし。小学校三、四年生のときと今以外ずーっと同じクラスだったよね」
中学校は6クラスもあったのにね。と笑えば、初めて神田の顔に感情が乗った。驚きに目が開かれ、そしてすぐにまた不貞腐れたような、少し怒ったような、感情が掴みづらい表情に戻った。
「…三戸は、俺のことなんか知らないのかと思ってた……」
「まさか!」
思わず声をあげた。
神田は一体自分をどんなふうに評価しているというのだろう。それこそ保育園のころから彼は目立つ存在で、みんなが彼に近づきたがっていた。就学以前に限って言えばあづさだって――
「神田くんのこと知らない子のほうが少ないと思うよ?他のクラスの子どころか他の学校でも神田くんのこと知ってるって子いたもん。塾とかで噂になってたし。神田くんのほうこそ、私のことなんか知らないと思ってた。…覚えて、くれてたんだね」
「当然だろ」
わずかに語気を強めた神田に、あづさはぴくんと肩を跳ねさせた。何か気に障ることを言っただろうかという疑問以上に、眉をひそめてあづさを見た神田に怯え――とまではいかないが――を抱いたのは仕方のないことだと言いたかった。
あづさはこれまで、異性と意識させる男子と交流をもったことはおろか、いわゆる男性そのものと関わることはなかったのだ。それこそ、父はおっとりとしていたし、何の因果か担任の教師も今まで女性ばかりだった。
神田は、そんなあづさに気付いたのかもしれない。ふいと視線を正面に戻し、どことなく気まずげに、口調を和らげた。そのことに、ほっとする。
「…覚えてねぇわけねぇって…保育園から一緒じゃ…」
「じゃあお互い様だね」
ふっとこみ上げた心のままに頬を緩める。神田がちらりとあづさを見た。相変わらず、雨は降り続けている。
「まぁな…たださ……」
「うん?」
「ずっと側にいたのにさ、話したことねーじゃん、俺ら」
「…そうだね」
「だからちょっと、確認っつーか……」
きまり悪そうにする神田を横目に、あづさは小さく心臓を跳ねさせた。電線から落ちて来た雨粒が、ひときわ大きく傘を叩く。
〝ずっと一緒にいたのにさ〟
神田はこういう言い回しをする人なのか、と、どこかふわふわする心地を甘受する。これならば、なるほど女子に騒がれる理由もよく解る。
すらりと高い背丈、長い手足、ほどよく鍛えられた体、小さい頭。きりりとした目元の整った顔は真っ黒の髪がよく似合っていた。それだけでも騒がれだろう。加えてその容姿を裏切らない、物静かな大人びた人柄。そんな男子がたまに口に乗せる言葉が甘いのだとすれば、本気になる子も多いだろう。
あづさは思う。この雨の通学路のように、あづさの日常とは違うところにいる人だ、と。
「クラス違った小三の時、担任誰だった?」
「あ、えっと、坂上先生だよ」
「ああ、あの化粧の濃いオバちゃんな」
「それ言っちゃダメだよ神田くん!」
それでも、幼い頃に思いを馳せれば毛糸をほどくようにするすると神田のことが思い出された。自然と、笑みも浮かぶ。隣を歩く神田の空気も、ほんのすこし和らいだように思えた。
保育園の頃から神田はあまり変わらない。特に幼少期は無口というより、いっそ寡黙という方が似合う、子どもらしからぬ子どもだった。極端に表現すれば、ただ黙々と遊び、勉強する、そんな少年だったように思う。ようやく、外見が中身に追いついた。そんな気がする。
それでもずっと、彼の周りに人が絶えなかったのは人柄だろう。優しくて、博識、稀にたんぽぽのように屈託なく笑い、でしゃばらず、無理をせず、己に出来る最大限のことを自然とやってのける。ノリが悪いわけでもなかった。押さえどころをわきまえ、たまにすっとぼけて見せたこともあった。それがさらに彼の魅力を輝かせていたのだろう。
決して神田を中心に人が集まるわけではなかったかが、神田の側には人がいた。いや、神田が人の輪にそっと寄り添っていたという方がもしかしたら正確かもしれない。
羨ましい、とあづさは思う。
本当は、自分も神田のような人間になりたいと思ったこともあった。そしてそれが自分には難しいことだと思ってからは、ひっそりと、こっそりと、彼を目で追った時期が確かにあった。
あづさは隣を歩く神田に、ぽつりぽつりと思い出話に近い会話を続けながら、あの頃感じていた想いをふつふつと思い出していた。
駅が見えてきた。
この別世界とももうすぐお別れだ。早く抜け出したかったこの世界も、ほんの少しの会話のおかげで、今ではなんだか惜しい気がしていた。滅多に男子と話さないから——ましてや女子に騒がれるような男子とは——舞い上がっているのだ。ああ、現金だなぁ、とあづさは苦笑する。
それは仕方のないことだと許して欲しい。あづさとて、多少なりとも恋というものに憧れを抱く年頃の娘なのだ。なんの変哲もない、普通の女の子だ。
大袈裟なものでなくていい。こんな大雨のような激しいものでなくて良い。明け方にひっそりと降る霧雨のように、穏やかで静かなものでいいから、恋をしてみたいと。ふとした時に思うのだ。
そう、例えばこんなふうに。
別世界の住人だと思っていた男の子が、もしかしたら同じ世界の住人かもしれないと感じた時に。