1話
授業はとっくに終わった放課後。あづさは今日で期限の切れる貸し出し図書を読んでしまおうと教室に残っていた。
ふと気付けばもう5時半を少し回っていた。1学期の学期末テスト前ということもあり、教室には、というより学校にはもうほとんど生徒の気配はない。外は天気予報通りの夕方からの土砂降りの雨のせいで随分薄暗かった。大粒の雨が必死になって教室に入ろうとして、窓ガラスに阻まれては悔しそうに滑り落ちて行く。
しまった、と思う。学校から駅までは歩いて15分。その道のりにはバスもなく、田圃と林ばかり。通学時間帯以外は人通りもなく、女子が1人で歩くには少々不安なところだった。
あづさは慌てて荷物をまとめ、結局読み終えられなかった小説を机の中に放り込み、玄関ホールへと向う。誰ともすれ違わない廊下は、まるで先程まで読んでいたミステリー小説の中に迷い込んだようで心細い。なんとなく気が急いた。
玄関ホールにたどり着き、金属製の下駄箱を開けて、ローファーを静かに床に置く。靴を履き替え、上履きのスリッパを入れて、さあ帰ろうとしたときだ。あづさは自分の傘立てに、朝ちゃんと持ってきたはずのお気に入りのピンクの傘がないことに気がついた。
「うそ…!」
慌てて周辺を探す。あづさの高校の傘立てはなかなか豪華で、美術館などにあるもののようにひとりひとつひっかけられるタイプのものだ。早々取り違え、間違うことはない。傘立ての底に沈み込んでいないかと覗き込むも濁った水が蛍光灯を反射しているだけだった。
別の学年の傘立てや、下駄箱の上も探してみたが見つからない。これだけ探して無いということは、心ない誰かに盗られたのだろう。諦めた途端、急速に心が沈んで行く。傘立てにはぱらぱらと傘が残っていたが、拝借する気には到底なれない。それをすれば、自分が今感じているこの遣る瀬なさを、誰にかにも与えるのだ。出来ようはずもない。
ただ、あづさの場合は潔白な精神からよりも、小心者の側面が大きくて出来ないのだが。
しかし、とても傘なしで帰れるような雨ではなかった。薄いブラウスはあっという間に雨を含んで透けるだろう。そんな格好でとても電車には乗れない。親に迎えにきてもらおうにも運悪く今日は2人とも仕事で帰りが遅いと言われていた。あづさは泣きたい気分で空を見上げる。
「どうしよう…」
その時、カチャンと下駄箱の閉まる音がして、あづさは反射的に振り返った。そこには隣のクラスの神田武が不機嫌そうな顔でローファーの踵を直していた。
あづさは、なんとはなしに神田を見つめた。
神田とあづさは同じ保育所と小、中学校を卒業し、偶然にも今も同じ高校に通っている。そのうち何度かは同じクラスにもなったが、あづさと神田には接点がなく、また親同士の繋がりもないので、2人は幼馴染だと言えるだけの時間を共有してきたというのに、全くの赤の他人だった。
神田は傘立てからさっさと自分のものと思しき紺色の大きな傘を取り上げると、すぃとあづさの横を通り抜け、雨の中へとその姿を消した。あづさはそれを複雑な気分で見送る。
都合良くあづさの知り合いが——今度はもっと親しい——誰か現れないだろうかと願わずにはいられなかったが、きっともう誰も学校の中には残っていないだろう。だったらまばらに残っている傘を借りても良いようなもの気もするのだが、やはり行動には移せなかった。
あづさは諦めて雨足が弱まるのを待つことにした。トン、と、玄関ホールのガラス戸に背中を預けて降り続ける雨をぼんやりと見やる。
ひっきりなしに降る大粒の雨。今回の雨はその様子といい、音といい、テレビの砂嵐のようだ。ずっと見ていると眼がおかしくなりそうであづさは早々に雨から視線を外す。友達にラインでもしようかと思ったが、なんとなくスマートフォンを触る気にならず、結局自分の足元に視線を落とした。
白いタイルが、あるところでくっきりと色を変えている。色の境界では大粒の雨が砕け、砕けた雨は粉のように小さくなってまた白いタイルに降り注ぐ。それが早送りされるように延々とあちらこちらで起こっている。それがなんだか不思議に思えた。
ぼうっとそれを見ていたが、吹き込んだ風に体の熱を奪われて現実に戻る。
あづさは片手で持っていた鞄を、両手でぎゅっと持ち直した。
しばらくして、ふと気配を感じあづさは顔を上げた。
そこにはさきほど帰ったはずの神田が戻ってきていた。忘れ物だろうかとあづさは神田の紺色の傘を眺める。すると、傘がすいと上がり神田と目が合う。相変わらず整った顔をしているな、と普段ならすぐに逸らす目をそのままに見つめ、ぼんやりとそんなことをあづさは思った。
「三戸、お前、ひとりか?」
突然、神田は雨に負けないはっきりした声であづさに尋ねた。尋ねられたあづさは何を訊かれたのかとっさに理解できずきょとんと呆ける。
「誰か待ってんのか?」
神田がまた尋ねた。そこでやっとあづさの思考回路が繋がる。鞄の取っ手を握りしめていた利き手を、わたわたと慌ただしく手を振った。
「う、ううん。ひとり!誰も待ってないよ?どうかしたの?」
「駅まで送る」
ぽんと飛び出した神田の言葉に、あづさは固まった。神田はぽりぽりと頭を掻きながら、色の境界線の向こう側で立ち止まる。
「もう暗いし。傘もないみたいだし」
「え、…あの……」
「一緒に帰るヤツいねんだろ?」
「…それは、そうなんだけど」
「送る」
言って神田はすっと傘を少し傾けて、先刻から変わらない仏頂面のまま、あづさに傘の中に入ってくるよう促す。あづさはあまりのことに全くついて行けていなかった。頭の中では、家で飼っているハムスターが忙しなく回し車を回している。
神田の気遣いはありがたい。素直にそう思う。しかし自分の気持ちに正直になるなら、放っておいて欲しかった。
神田がもっと人懐っこい性格だったら甘えていたかもしれない。だが、神田は表情をコロコロ変えるタイプではない。下手をすれば常に人を睨んでいると誤解されるような静かなタイプだ。派手な友人とよくつるんでいて、神田自身華やかな外見をしているので女子に人気もある。はっきり言って、あづさではとても気安く近寄れる相手ではなかった。
あづさはしばらく逡巡し、意を決して神田を見上げた。
「ありがとう。でも、大丈夫。神田くんに迷惑かかるし、もうすぐ雨も――」
「止まないと思うぜ」
「……」
ぴしゃりと言い切られて途方に暮れる。そこまではっきり言わなくても、と批難めいたことまで心に浮かんだ。そんな自分にまた落ち込む。
断らせる気はないのだと段々と気付いたが、ならばどうして、と疑問が浮かぶ。接点のまるでない自分にここまで構うのか。その理由が伺い知れないために、余計に厚意に素直になれなかった。
なおもどうやって断ろうかと逡巡していると、しびれを切らしたのか神田はばりばりと頭を掻いたかと思うといきなりあづさの腕をとって傘の下に引き入れた。
「きゃっ!ちょっ、神田くっ」
ぐっと肩を抱き寄せられ、一瞬にして顔に血が集まる。骨張った大きな手が、冷えきったあづさの肩で存在感を主張した。
「いくぞ」
声と同時に肩を抱いた手はするりと離れて行って、他意はなかったのだと理解する。
問答無用に連れ出された通学路はさらに雨の勢いを増していた。
檻のような雨。まるで別世界だ。
その別世界に連れ出されたきり、会話はぷっつりと途絶える。恋人というには遠く、知人というにはあまりに近い神田との距離。
あづさにとってただでさえ重い沈黙が、彼女の細い肩にさらに重くのしかかった。




