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兄と妹

濡れたノート

作者: いちのじ

 地球の表面積の七割が海だというが、四捨五入すればつまり地球って水。まあ、あくまで表面積の話だけど……。でも人間だって成人で六割、子どもなら七割、胎児なら九割が水でできている。ではなぜ人類は地球の三割しかない、手狭な領域で生活しているのか。体の半分以上を未だに水で作っておきながら、なぜ。生物は進化の過程で陸に上がり、海とは別の発展をしていった。そう、言わばその時すでに陸上の生物は母なる海から親離れしているのだ。


 たまには水の中に帰ろう。


 そういう気持ちがきっと、我々人類の中にはあるのではないだろうか。いや、陸上の動植物は全て元を正せば海の生物だったのだ。この陸上で生きている全ての生き物に、等しくそれはある。海に帰りたいという帰巣本能があるはずだ。

 海に浸かっている時の安心感、癒され感、それらを求める気持ちが、必ずある!

 断言しよう! 我々は――


「なにやってんの!? 早く拭きなよ!」

「え?」

「こぼれてるから、麦茶、こぼれてるから!」


 ムギチャコボレテルカラ?


「もー、なんでそこで呆けちゃうかな」

「そうだ確か、俺、ノートに麦茶をこぼして、それで……」


 妹の声で我に返った。彼女はキッチンからクロスを持ってきて、拭いてくれているところだった。

 だが手遅れだった。

 ノートはもう、「ビチャビチャ」以外の形容詞に排他的な状態にあった。……茶色い。手に取ってみると、その悲惨な「ビチャビチャ」がよく伝わってきた。


「そのノートはもうダメだねー」

「ああ……いやダメだ!」

「うん。だから言ったじゃない、ダメだって」

「そうじゃなくて、これ借りたノートなんだよ!」

「えぇ!?」


 俺は妹の方を見た。懇願の眼差しで。

 ……。

 瞬時に目を逸らされた。


「どうしよう、こんなの見せたら……」

「素直に謝りなよ。さすがに命までは――」

「確実に殺される」

「取られちゃうの!?」


 ビチャビチャのままテーブルに置かれたノートを見て、持ち主の顔を思い浮かべてみる。


「誰に借りたノートなの、それ」

「うちのクラスの番長の、金剛沢こんごうざわ

「なんで番長に借りるかな……ていうか番長とか今どきいるんだ!?」

「番長は怖い。この三か月で、三人も病院送りにしてる」

「えー?」

「しかもここ一か月で五人から病院送りにされてる」

「んん? 強いのか弱いのか分かんなくなっちゃったよ?」


 負けが込んでるとはいえ、相手は番長。

 とにかくノートをどうにかせねば。どうにか、元通りに。


「ドライヤー要る?」

「ダメだ。ドライヤーで乾かすとノートが波打っちゃうし、この茶色も取れない」

「そっかー。あ! いいこと思いついた!」

「本当か!?」


 俺もさっきから何か方法はないかと考えていたが、妹はすぐに思いついたらしい。頼りになるやつだぜ。持つべきものは優れた妹だな。


「逆転の発想だよ。そのノート、水槽に入れて返そう」

「……は!?」

「私たちが乾かそうとするから、波打った状態で返すことになるわけじゃん? 逆にその金剛沢さんが乾かすように仕向ければ、ノートが波打ってもそれは金剛沢さんの責任になるわけよ」

「なるほど。筋は通ってるけど、却下な」

「なんでよ」


 私って天才なんじゃない? みたいな顔をしている妹を見て思う。持つべきものは優れた妹だが、こいつは優れた妹ではないなと。


「早く何か考えないと、ノートが自然に乾き始めてる。なにか、なにか手はないか……」

「はいはいはーい!」

「……なんだよ」


 勢いよく手を挙げる妹。不思議と大丈夫な気が全くしないが、他に案が思いつかない。

 聞いてみよう。


「そのノート、水槽に入れよう!」

「それ却下したよね!?」

「違うよー。このままじゃ乾かす方法が思いつく前に、ノートが乾いて波打っちゃうじゃん? だから水の中に入れて、この状態を維持しておくんだよ」

「あ、ああ? 確かに状態は維持できる……のか?」


 あれ? 悪くないんじゃないかと思い始めてきた。あれ?


「善は急げ、ってね。ほれ!」

「あっ」


 妹はノートを手に取り、飼っているメダカの水槽に放り込んだ。メダカたちはびっくりして端の方に逃げていった。ごめんね、メダカちゃんたち。

 一方ノートは含んでいた僅かな空気が泡となって消え、水槽を漂っている。


「おい、これ……いよいよダメな気がする」

「どうして? これでゆっくり考えられるのに」

「……」


 こうなったら意地でもノートを無事に乾かさないと。


「そもそもなんで波打っちゃうんだろうね」

「なんでって……なんでだろう」

「そういえばアンパ○マンの顔も、濡れたら換えるよね。乾かせばいいのに」

「リサイクルするか、あれを」


 あのパン屋さんなら乾かすより、新しく作る方が早いだろう。


「よし、アンパ○マンに倣って新しいノートを買って返そう」

「意味がない!」


 アンパ○マンの名前が出てきたとき、薄々そう来るんじゃないかと思ったよ!


「大丈夫だよ、何食わぬ顔で新品のノート返せばバレないって」

「金剛沢を馬鹿にし過ぎだろ。気づかれるよ」

「じゃあ、新品のノートを借りたことにすればいいんじゃない?」

「なぜ借りたし」


 俺は新品のノートから何を学んだことになるんだ。


「スルメって、反るよね」

「反るねぇ」

「ノートも、反るよねぇ」

「……反るねぇ」

「もうよくない?」

「なにが?」


 でもよかった。反るという点で同じだからって、スルメを返せばいい、とか言い出すかと思ったよ。


「あれって熱を加えるから反るんだよね? じゃあ冷やしたら戻るの?」

「戻らないと思うけど」

「そうだ、反るという点で同じなんだから、スルメを返せばいいよ」

「言いやがった!」

「ちゃんと焼く前の状態で、ね」

「キメ顔やめろ!」


 もうやだー。こいつただのバカじゃん。


「じゃあもうさ、いっそ兄ちゃんのノートを返せばいいよ」

「それ何の意味が……ある!」


 そうだよ。何が大事って、授業内容が残っているものがノートなのだから、同じ内容のものならば俺のノートでもいいはず。


「よく気が付いた妹よ。よかった、これで解決だ」

「うん。そうと決まれば兄ちゃんのノート乾かさなきゃね」

「……え?」


 妹の視線を追うと、テーブルの上に、金剛沢のものではない別の濡れたノートがある。俺のだ。さっきテーブルを拭いたクロスの上に置かれている。

 言うなれば「びちゃり」くらいの濡れ具合。


「なんであんなところに置いたんだよ!」

「濡れてたから。ふきんの上に置いといたら乾くかなと思って」

「ああ、あの時一緒に濡れてたのな、あれ」

「ううん。最初は乾いてたんだけど、ノートの上に濡れたふきん置いちゃって。逆にすれば乾くかなって」

「じゃあ濡れたのって、お前のせいじゃん!」

「いやー、それほどでもー」

「ほめてない!」


 クレしん伝統芸。


「ま、まずい。いよいよノートがない」

「大丈夫だよ兄ちゃん。何のために私がいると思ってるの?」

「えっ?」

「私のノート、貸してあげる」

「……意味がない!」


 二度目だよこのツッコミ。

 確かに彼女は同じ高校に通っているが、俺は二年、彼女は一年。昔のノートなら俺、持ってる。ん? 持ってるっていうか……。


「ていうかお前のノートって俺のじゃん!」

「そーだった」


 同じ高校だからと、彼女は俺のノートを持っている。テスト対策に超有効だと言っていた。嬉しい限りだが、今は嬉しくない。


「ああああ……もう手がない。仕方ない、返す期日を延ばしてもらおう」

「先延ばしにしても解決しないと思うよ?」

「キツいなお前。でもとにかく、返せないものは返せないからな」


 なにか方法があるかもしれない。

 そうだ、こういう時こそグー○ル先生だ。幸いなことにうちにはパソコンがあり、ネット環境もある。自分たちの乏しい知恵による解決を諦め、情報の海原へ漕ぎ出そう。

 と、パソコンの電源を入れようとしたときだった。


――ピンポーン。


「お?」

「え? なに? 金剛沢さん?」

「いや……まさか。俺も一瞬ビクッてなったけど、ノートは明日返すって言ってあるし」

「そうだよね」


 こいつもこいつなりに罪悪感を覚えているらしい。

 とりあえず来客に対応しよう。

 妹も後ろからチラリと覗いている。


「兄ちゃん、ほら、出なきゃ」

「ああ。はいはーい、今出まーす」


 ガチャ。

 玄関のドアを開けると、大柄な男がいた。学ランを着ている。

 こいつは――


「金剛沢……」

「よお椎名しいな


 金剛沢だった。そしてうちは間違いなく椎名だった。


「悪りぃけどよ、あのノート返してくんねーかな」

「な、なんで? 明日返せばいいって言ってただろ」

「それがよ、明日って小テストあんじゃん? やっぱもう一回復習しとかねーと不安でよ」

「番長の癖に小テスト気にしてんじゃねーよ!」

「あっはっは、よく言われっけど、番長でも学校は卒業してぇからな」


 とか言いながら、ずかずか家に上がり込んで来ている。


「お、あれって妹さんか? 可愛いじゃねーか」

「お前なんぞに妹はやらん!」

「バカ言ってんじゃねぇ。俺には愛するミカコちゃんがいるんだ」

「お前、彼女いんの!?」


 番長に出遅れた。ショック……。


「ども、金剛沢っす」

「どうも。兄ちゃんの妹です」


 ショックを受けている間に金剛沢が廊下を進んでいた。このままじゃリビングに入られてしまう。やばいぞ。


「ま、まだ写してないんだよ、明日にしてくれないか」

「そうなのか? ちゃちゃっと写してくれ。リビングで待ってっから」

「いや、リビング以外で待ってくれ」

「普通はリビングじゃねーか!?」


 図体相応に推進力が強く、リビングに踏み込まれた。

 いや、まだ大丈夫な可能性はある。妹が気を利かせて、水槽からノートを取り出していてくれれば――。


「お、水槽じゃんか。もしかしてお前んちでも金魚飼ってんの? いやー、奇遇だな。うちでも金魚飼っててよ、しかもこーんなでっかくなっ――…………」


 自宅の金魚の大きさを手で示しながら、絶句する金剛沢。

 その視線を追うとうちの水槽があり、その中には四角いものがふよふよと浮いている。妹が水槽の上に手を伸ばした状態で固まっているから、きっと取り出そうとしてくれていたのだろう。


 でもちょっとだけ遅かった。


 金剛沢の奴、驚いたろうなあ。

 なにせうちの水槽で飼っているのは金魚ではなく、金剛沢のノートなのだから。


「……」

「……」

「……」


 兄妹の絆ってある。

 だから視線を交わすだけで、次のような会話が可能だ。



――俺はこれから土下座をする。

――私も手伝うよ、兄ちゃん。

――ああ、すまんな。



 それからの記憶はほとんどない。

 ただ、涙って海の味がするんだなぁ、と思ったことは覚えている。



   ―― 完 ――


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