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異浮蝶

作者: 雨音れいん

条件に合わず夏ホラーに参加できなかったこの作品……(無念)

この世でなき世



これを“異”と示す



異に行くことを望まんとする者の魂



これを“浮”と示す



蝶が舞い、七色の粉を散らす様を見たる者



異に導かれ、この世のすべての苦、悲、痛から解き放たれん



この流れを“異浮”と言い



導く蝶を“異浮蝶”と呼ぶ



                           (民間伝承詩)





 少女は蝶に会いに行った。古くから村に伝えられてきた伝説の生物、『異浮蝶』に。その蝶に会った者は死を選ぶとされ、村の人々に恐れられていた。

「……」

 彼女は虚ろだった。愛する彼に裏切られ。その彼は彼女にとって初めて恋をした人。そして身も委ね愛を確認し、愛を知った――はずだった。しかし彼は彼女を裏切った。他の女性と交わり合い、それを彼女は目撃してしまった。

 彼から弁解の言葉は無かった。それどころか彼は開き直り、こんな捨て台詞を吐き捨てた。

「お前のことは愛してなかった」

 彼女は愛されてなどいなかったのだ。愛されてもいない男性に身を捧げてしまったのだ。その事実は初めてだった彼女にあまりに強い衝撃を与えた。

 彼女は生きる希望を失い、ある草原に向かった。そこは村に古くから伝わる異浮蝶が出現する場所とされていた。草原の横を流れる小川がさらさらと涼しげな音をたてている。その音に耳を澄ますと時の流れも心の闇も全て忘れ、癒される気がした。彼女は小川の側にしゃがみ一輪の雑草の花を摘んだ。その花びらを見詰め、何も考えず無の状態になる。

 小川の心地よい響きは耳に届いていた。



 もう私には何も無い

 もう死んでしまいたい

 

 彼女は腰を上げ草原に立つと心の中で呟いた。



 異浮蝶さん、異浮蝶さん

 私の前に姿を現して?

 私を異浮の世界に連れてって?


 彼女は願い続けた。瞼を閉じ、時々辺りを確認しながら。

「どうして……どうして現れないの!?」

 伝説の蝶は現れず、彼女は絶望して泣き崩れた。

「……!」

 そして取り乱し、狂ったようにそこら中の草花をむしり出した。

 やがて疲れ果て、草花の上に座り込む。呼吸を荒げ、聞こえてくるのはその息と小川のせせらぎだけ。指や掌には土や草の汁が付き、細かい切り傷ができていた。

 


 私はどれだけ悲しんでも、この程度でしかそれを表現することができない……

 なんて、ちっぽけな人間なの――!?


 彼女は自分に失望した。自分に味方してくれない運命を嘆いた。彼女がもっと強い人間だったなら、彼とのことも忘れられるだろう。もっと酷く弱い魂と強い意思の持ち主だったなら、自ら命を断つだろう。

 しかし彼女にはできなかった。そしてすがりつくような思いで安楽の死を求め、逸話のあるこの草原にやって来たのである。

 


 異浮蝶さん……異浮蝶さん!

 

 彼女は諦め切れず、泣きながら願った。聞こえてくるのはその嗚咽と小川の流れる心地よい音だけ。彼女はもはや抜け殻のようになり、焦点の定まらぬ目で辺りの景色を眺めた。そして一輪の雑草に手を伸ばす。それをぼうっと見詰め、その雑草をむしり取り

「……っ!」

 強く握り締めた。その雑草の茎に生えた刺が指や掌に食い込む。

 しかし彼女はその手を放さなかった。いつまでも強く握り締め……







「?」

 

 ――ここは何処?

 

 目を開けると彼女はどこかに倒れ込んでいた。起き上がるとそこはあの草原だった。

 


 私、こんな所で寝てしまったの?

 

 彼女は起き上がり、家に向かって歩き出した。何故あの場所にいたのか全く分からなかったが、すぐ別のことに頭を切り替える。

 


 そうだ  

 今日は彼に逢いに行くんだったわ

 

 と……




 彼とは彼女の恋人で、彼女の初恋の人でもある。彼女は家に着くと彼に会うために栗色の髪を結い直し、化粧をして、一番お気に入りの服に着替えた。彼は隣町の工場で働く17歳の少年で、15歳の彼女がその町に住む叔母に会いに行った時知り合った。彼は叔母の夫の工場で働いていて、その家の下宿人でもある。そのいきさつはこうだった……



「こんにちは」

 彼女が母に頼まれ、届け物をしに叔母の家を訪ねた日のことである。何かの用事で偶然家に戻って来た彼に明るくそう声をかけられた。彼はハンチング帽を被った少年で、人懐こい笑顔に彼女は好感を持ち

「あの人誰?」

 と叔母に尋ねると伯父の工場の職員であることが分かった。

「そう……」

 彼女はそれから度々理由を付けては叔母の家を訪ねるようになった。

「パンを焼いたの。たくさん造ったから、おすそ分けしようと思って」

 ある時はパンを届け、一言

「“みんな” で分けてね」

 と付け足す。このようなことを何度も繰り返すうちに、叔母は悟ったのか

「分かってるわ。 “あの子” にもちゃんと分けますよ」

 と答えてくれた。

「……!」

 彼女は恥ずかしそうに、でも彼に食べてもらえることが嬉しかったので笑みが零れた。

 こうして彼女の恋は始まった。彼女が15年間生きてきて絶頂の幸福な時期になった。

「こんにちは」

 彼と二度目に顔を合わせたのは、ある曇りの日だった。家を出た時はそれほど曇っていなかったが叔母の家の側まで来た頃にはだいぶ空が暗くなり、遠くで雷の音が響いていた。しかし彼女の心は晴れていて、その足取りは軽かった。着く頃には空模様が怪しくなっていて

「雷が近付いてきた。雨が降るかもしれない。さぁ、中に入って」

 彼に招かれ彼女は家の中に入った。

「あら、いらっしゃいシエナ」

 叔母に温かく迎えられた直後、雷とともに激しい勢いで雨が降り出した。その雨はしばらく経っても止む気配がなく、叔母の好意で彼女はその晩家に泊めてもらうことになった。

「シエナ、あとはいいから居間で休んでなさい」

 夕飯の片付け中、叔母が言った。彼女はよく気が付く人で居間には彼がいた。

「私達は上に行きましょう」

 叔母はパイプをくわえる伯父を少し強引に、さぁさぁと言ってその背中を押しながら二階に上がって行った。

「……」

 彼と二人部屋に取り残され、緊張して落ち着かない彼女に彼は言った。

「君、いつもパンやお菓子を持ってきてくれる人だよね?」

「ええ」

「いつもおいしく頂いてるよ。ありがとう」

「そ、そんなこちらこそ食べてもらえて嬉しいわ……」



 ああ、この人を好きになって良かった

 この人のためにパンやお菓子を焼いて良かった


 彼女は幸せに満ち溢れた。この恋に全てを捧げてもいいというほどに。


「シエナって呼んでもいい?」

 不意に彼が言った。

「ええ」

「オレのことはエクルって呼んで」

「ええ……」

「いつも何時に寝てるの?」

「11時……ぐらい」

 彼女は実際より1時間遅く答えた。そのほうが彼と長く話せることも期待して。

「じゃあちょっとトランプやらない?」

「トランプ?」

「僕の部屋にあるから上に行こう」

「え、ええ……」

 彼女は緊張しながら彼と二階に上がった。

「ちょっと待ってて」

 部屋に入ると彼はトランプを探し始めた。彼女は座れそうな場所を探し、辺りを見渡した。一台のベッド、その奥には窓があり、反対側に小さな机とイスがあった。彼はその横に置かれた大きな木箱の中を探し、時々

「あれ?」とか「無いなぁ……」などと呟いたり、首を捻っていたが

「ごめん、見付からない……」

 とうとう諦め、申し訳ない表情でそう言った。

「そう」

 彼女は少し残念そうに小さな声でそう返す。

「お詫びに手品を見せるよ」

 そう言い彼は机の上にあった紐を手に取った。

「一本の紐があります。この紐をこのように結びます」

 彼は紐の中央に結び玉を作る。

「これをこのように巻き付け」

 彼は彼女の手にその紐を巻き付けた。

「それをしっかり握って下さい」

 彼は念じるように瞼を閉じ

「1、2、3」

 と言ったと同時に素早く紐を引いた。すると

「!?」

 紐が彼女の手を通り抜け、結び玉も消えた。彼女は驚愕して目を大きく見開く。

「すごい……」

 叫びそうになった彼女に彼は

「し〜っ」

 と唇の前に人差し指を立て注意を促した。すると部屋の向こうで物音がした。

「やばい、隠れて!」

 彼はひそひそ声でそう言った。彼女は慌てて机の下に隠れるとイスと木箱で塞いだ。彼はベッドで寝た不利をする。二人は息を潜め、物音に耳を澄ませていた。

 やがて沈黙を破るかのように彼が口を開く。

「もう大丈夫みたい」

 彼女は木箱やイスを退かし、机の下から出た。

「ちょっと来て」

 彼が手招きし、彼女が歩み寄る。

「この中に隠れよう」

 彼はベッドに隠れるよう彼女に促した。彼女が戸惑っていると

「早く!」

 と毛布を持ち上げて急かし、彼女は仕方なくその中に潜り込んだ。彼は静かに息を潜め、部屋の向こうの物音に神経を集中させる。

「絶対に声を出しちゃ駄目だよ」

「……」

 彼女は言われた通りに沈黙を続けた。やがて彼はむくりと起き上がり、ベッドの上の彼女を見下ろした。

「?」

 彼女は彼が何をしようとしているのか不安に駆られたが、硬直したまま動けなかった。彼は彼女の上に覆い被さり――キスをした。それは生ぬるく味もせず、彼女が夢に描いていた憧れのキスとは程遠いものだった。口の中をうごめく何かに衝撃をうけ、不意に彼女は顔を背けるが

「……」

 彼はそれを気にするわけでもなく、無言のまま彼女の服に手を伸ばす。

 


 後はされるがままだった。こんなにも自分がふしだらな女だとは思わなかった。こんなにも簡単に落ちていいとは思わなかった。

 しかし彼女には止められなかった。彼の行為を拒絶できるだけの羞恥心や常識など破壊されてしまっていた――あのキスによって。そして、それをきっかけに何かが弾けた。彼と触れ合うことに歓喜している自分が現れ、その自分に自我も理性も全て浸食され尽くしてしまっていた。

 


 軽い女だと思われたかしら?

 彼は好きだったから私を抱いたの?


 何故…… 


 済んでしまってから彼女は自身に問い掛け、その愚かさに気付き、後悔と自己嫌悪とそれらを打ち消そうとする思考を衝突させた。そして打ち勝ったのは彼との情事を美化する愛で、独り善がりな妄想だった。  

 この少女のことを軽率だと思うかもしれない。しかし彼女はまだ15歳の未熟な少女で、初めての甘い恋の誘惑に翻弄されないだけの免疫力や経験などをいっさい持ち合わせていなかった。愛されたのだと自分を洗脳し、過ちではなかったと情事を正当化して自己防衛する。そうでもしなければ彼女自身の心を救える術はなかった。




 ――彼女が彼と会う約束をしていた日の続きに戻る。

「日曜日にプルシャンで会おう」

 雷雨に見舞われた日の夜、彼の提案で二人は会う約束をした。プルシャンとは彼女の住む村と彼の住む町の近隣に位置する町である。彼女が初めてそこを訪れたのはまだ幼い頃だった。風船で造ったピンクのプードルを母に買ってもらったのを覚えている。棒付のキャンディを舐めながら手を繋いで町を歩いた。綿菓子やクレープ、キャラメルポップコーンの甘い香りが漂って来る度足を止め、店の前で

「買って」と駄々をこねた。

 その記憶がまるで昨日のことのように蘇る。

 汽車でプルシャン駅に到着すると、その町の空気に懐かしさを感じた。時折母親と歩く子供を見掛け、それがとても微笑ましく思え自分が急に子供から大人になったような気がした。

 繁華街を歩いているとキャラメルポップコーンの甘い香りが漂って来た。彼女は心を弾ませ、待ち合わせ場所の喫茶店に向かう。

 彼とはあの日以来会っていなかったが、その間彼女は毎日彼の姿を目に浮かべながら幸せの余韻に浸っていた。学校にいる時も食事の時もぼんやりとくうを見て妄想の世界に居たり、時にはその幸せで胸がいっぱいになり幸せの溜め息を漏らしたりもした。それが生きる喜びであり、彼女を輝かせる理由でもあった。

「ちょっと、どこ行くの!?」

 喫茶店で再会を果たすと彼は彼女を連れ出した。やって来たのは民家だった。彼は持っていたキーで玄関の鍵を開け、彼女を招き入れた。

「ここ、誰の家?」

 彼女は困惑して尋ねた。

「伯父さんのうちだよ。日曜はバクチに行って遅くまで戻らないからオレが留守番して家畜の世話を手伝ってるんだ」

「そうなの」

 彼女がぼうっとしていると彼は彼女にキスをした。

「シエナ」

「エクル……」

 二人はそう呼び合い何度も唇を重ねた。

「キャッ」

 彼は彼女を抱え上げ、奥の部屋にあるベッドに連れて行く。

「早くしよう。伯父さん気まぐれだから、いつ戻って来るか分からないんだ」

「待って! 窓が開いてるわ」

「気にするな。誰も見ちゃいない」

「農家のおじさんがいるわ」

 カーテンのない寝室の窓の向こうには拓けた土地の奥に家が建ち、その横にある小さな畑を男性が耕しているのが見えた。こちらからはその男性の顔を半分囲むような髭が見え、振り向いて目が合った。これでは絶対に丸見えだ。向こうが気にしなくてもこっちは気にする。

「駄目……!」

 躊躇う彼女を押し倒し

「こうしたら見えないだろ」

 と彼は彼女の上に馬乗りになった。

「……」

 彼女はまだ不安だったが、あまり嫌がって彼に嫌われたくなかったので我慢することにした。

「声を出してもいいよ」

 そう言われたが恥ずかしくて彼女は呼吸を荒くするだけだった。

「キャッ!?」

 彼女は驚愕した。窓からさっき見た農家の男性がこちらを覗いていたのである。

「やだ……」

 彼女は身を縮め、泣き出した。

「あっち行け!」

 彼は追い払うようにそう威嚇した。

「大丈夫だよ。もういなくなったから」

 彼女の気持ちは興ざめだった。彼の強引な所も、大胆な所もやんちゃでかわいいとさえ思うようになっていたが、この姿を他人に見られるなんて

 


 彼には配慮というものがないのだろうか?

 私を大切に思っていないのだろうか?

 身勝手で、貪欲で……


 彼女はそんな気がしてきた。


「ごめん……泣かないでシエナ」 

 今にも泣き出しそうな悲しみの表情で謝る彼を見て、彼女は自己嫌悪に陥った。



 ごめんなさい

 私はあなたのことを……!


 泣きながら彼にしがみ付き、愛しいその胸に顔を埋めた。

 このことをきっかけに彼女の彼に対する愛情は更に深まり、彼の愛情に確信を持つようになった。

「早く服を着て。伯父さんに見付かったら大変だ」

 やたらと伯父のことを気にする彼に急かされて、彼女は服を着た。

「ごめん。やらなきゃならないことがあるから送れないけど大丈夫?」

「ええ、なんとか」

「迷うといけないから地図を書くよ」

 彼は駅までの道程を紙に書く。

「ありがとう」

 彼女はその地図を受け取ったが

「エクル」

 離れるとなると急に寂しくなった彼女は、上目遣いで彼を見詰めた。

「ん、何?」

 彼は首を傾げ、彼女は

「キス……して?」

 と恥ずかしそうに小さな声でそう呟く。

「……」

 彼はすぐにキスをした。それがあまりに短く感じたので、彼女はまた悲しい表情をする。

「?」

 彼は眉を潜めた。

「もう一回して?」

 彼女がそう言うと彼は

「今しただろ」

 と冷たく返した。機嫌を損ねたと思った彼女はそれ以上頼めなくなり、沈んだ表情で背を向けた。

「じゃあね」

 後ろから彼の声が聞こえてきたが、彼女は返事を返さなかった。








 彼女は抜け殻のように無気力な状態で駅に向かって歩いた。溜め息ばかりが零れていく。空はまだそれほど暗くはなかった。

「はぁ……」

 彼女は後悔していた。最後に彼を無視してしまったことを。

  


 なんで無視してしまったのかしら

 なんて馬鹿なの……


 彼女は自分の行動が情けなくなってきた。キスしてもらった後、素直に帰っていればと思うととても悲しくなってきた。重い足取りで繁華街を歩いているとまた甘い匂いが漂ってきた。彼女は丁度お腹が空いていたので、それに誘われるように歩き出す。その匂いは焼き菓子だった。

「おいしそう〜」

 彼女は目を輝かせ、その焼き菓子を買うと柵に腰掛けてそれを食べ始めた。その前を手を繋いだ恋人達が笑いながら歩いて行く。反対側から別の恋人達も通った。

「……」

 彼女はまた寂しくなった。

『エクル……』と心の中で名前を呼ぶ。そして気が付くとまたあの家に向かって歩いていた。街頭が灯り、辺りは薄暗くなっている。伯父が帰ってきたかもしれないが、話をするだけなら怒られないだろう。彼女はそのうち駆け出していた。彼に会いたくて、謝りたくて、もう止められなくなっていた。

「エクル!」

 やっとあの家に着くと彼女は叫んだ。しかし返事はなかった。数秒の間も今の彼女には不安だった。彼女は鍵の掛かっていないドアを開けると部屋の中に入って行った。

「!?」

 奥の部屋のベッドの上で揺れる彼の背中が目に入った。その下に激しい喘ぎ声を上げる髪の長い女性の姿が見える。彼女よりずっと豊満で大人だ。

「……」

 彼女は言葉を失った。呆然とその場に立ち尽くし。彼は “それ” を止めようとはしなかった。シエナも去ろうとはしなかった。やっと振り向いた時彼は憎らしげにシエナを睨み

「何しに来たんだよ」

 と吐き捨てた。

「あのね、さっき無視しちゃったから……謝りに来たの」

 こんな状況でシエナは笑っている。

「早く行けよ」

 彼は全く悪びれず不機嫌な態度だった。

「エクル……」

 彼の名前を口にした途端、シエナの両目から涙が溢れ出た。

「私は……エクルの彼女じゃなかったの?私のこと……愛してないの?」

「……」

 彼は煩わしそうに目線を外して黙り込む。

「エクル……?」

 シエナは認めたくなかった。彼を失いたくなかった。

「ねぇ?」

 彼女は問い詰める。

「……」

 彼はだらしなく口を開けた。見下したような目でシエナを見る。そしてこう言った。




「お前のことは愛して “なかった”」




「!」

 簡単だった。この短く何の感情も込められていない台詞によって、彼女の夢物語は幕を閉じたのである。

 

 彼女の心は破滅した。泣き方も怒ることも忘れてしまった。そして何事もなかったかのように家を出ると辺りはすっかり暗くなっていた。子供など歩いていない。店もほとんど閉まっている。しかし、それに怯えることはなかった。こんな時間に少女がうろついていたら危険だが、そんなことも気にならなくなっていた。

 幸い何事もなく駅に着くと汽車に乗り、自宅の最寄り駅で下車した。

「……」

 その足でためらいもなく彼女は進んで行った。暗い光すら差し込まぬような草原に向かって。

「異浮蝶さん、異浮蝶さん」

 彼女はそう呼んだ。そこはこの村に古くから伝わる伝説の異浮蝶が現れるという草原。彼女はその蝶に会いに来た。異浮の世界に行くために。



『異』はこの世とは異なった創造上の世界


『浮』は離れること


『異浮』はこの世から離れ創造上の世界に行くという――現実逃避




「異浮蝶さん……」

 彼女はか細い声でそう繰り返す。


 蝶の舞


 七色の鱗粉


 夢見心地


 『異浮の世界』

 

 彼女はぼんやりとその光景を思い浮かべた。



 ああ、私も行きたい

 異浮の世界へ……



 彼女はおぼろげにそう願った。だが空ろな目には闇しか映らない。聞こえて来るのは側を流れる小川のせせらぎだけ。

「……」

 やがて彼女は草むらの上に仰向けになった。闇の空に光る無数の星が見える。それを見ていると吸い込まれるような気がした。

 ふと彼女の前で何かが光る。それは七色に輝き、彼女は驚きもせずそれに見とれていた。

「異浮蝶さん」

 一匹の蝶の姿が闇に浮かぶ。その周りだけ昼間のように明るくなった。蝶は白い翅をひらひらと動かして繊細に揺れていた。彼女はその蝶の舞をいつまでも眺めていた……







 彼女は夢の中にいた。異浮という永遠に覚めることのない。

 あの草原は実在し、彼女はあの日そこへやって来た。彼との別れを受け入れず現実逃避して。そしてその草むらで伝説の蝶に出会い……



 ――現実の世界はこうだった。

 あの翌日、村人の懸命な捜索により彼女はあの草原で発見された。その時彼女が握っていたのはアザミに似た毒草だった。その刺に作用はないが、傷口から茎の汁が体内に入ると幻覚が見え、2時間以内に解毒処置を施さなければ全身の筋肉が硬直して呼吸不全で死に至る。

 

 ところが、不思議と少女に苦しんだ形跡は見られず

 その顔は安らかで、笑っているようにも見えたという……





この結末をバッドとするのも、ハッピーとするのも、どう捉えるかは――“あなた次第”(笑)

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして。読ませて頂きました。なんといいますか。ものすごく奥の深い作品でした。文章全体から伝わってくる堅さも故意でしょうか? ホラーとしてのジャンルには疑問を感じますが、純粋に良い作品で…
[一言] こんばんは♪ 読みましたよ。 これで3作目ですかね? MEBINAさんの世界が統一されだした気がします。 エロチックなところもありつつ、欧風で最後に余韻が残ります。 最初の詩のところも斬新で…
[一言] 「異浮蝶」というタイトルからして、とても幻想的なストーリーだと思いました。少女が回想するシーンまでは、朧気でその雰囲気が出ていたと思います。回想シーンになってから、いきなりガラリと雰囲気が違…
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