バーテンダーの彼
カラン、と耳に心地いい音を鳴らしてドアを開ける。
ドアの前には『CLOSED』とおしゃれなフォントで書かれたプレートがかかっていたけれど、そんなの気にしない。
現在時刻は夕方の6時。
あたしが今ドアを開けたバー、『tempo di sogno』の開店時刻までは後1時間ある。
よし、今日も時間ぴったり。
「―――お前、また来たのかよ…」
店内に歩を進めると、いい加減うんざり、といった表情で、カウンター席のテーブルを拭いていた背の高い男性があたしを見た。
ブラックのシャツにスラックス、ベストとソムリエエプロンを身に着けた真っ黒なその格好をいつ見ても崩さないのは、性格上、きっと面倒くさいからだと思う。
似合っているといえば似合っているし、実際にファンが多いのも確かだけれど。
なんで好き好んでこんなのを、と思うのはさすがに悪いだろうか。
「『いらっしゃいませ』にっこりスマイル付き、くらい言えないの?仮にも接客業のくせにー」
「ナニユエ毎週やってくるめんどくさい身内に営業スマイルを見せなければならないのデスカ」
「えー?時代はお客様第一だよ?和兄ともあろう人が流行に乗り遅れるなんて………あ、もしかして老化?」
「お前、今日からウチの店出入り禁止」
「ゴメンナサイ」
顔を合わせるたびに軽口をたたきあうこの光景は、もはや日常茶飯事だ。
とはいえ、本当にここを出入り禁止にされたりしたら困る。
そんなわけであたしは即座に謝罪の言葉を口にした。
まったく和兄ったら冗談通じないんだから。
そんなんだから彼女ができないんだっ!
なんて本人には絶対に言えない悪口を心のなかで和兄に向けて、あたしはバッグの中からラッピングされたとあるモノを取り出す。
「それで、ほかの皆さんは?」
にこにこにこ、と笑顔を浮かべるあたしをフクザツそうな顔でしばらく眺めた和兄は、はぁ…、とあたしと目を合わせたままため息をついた。失礼な!
「一応きくけど。父さんと母さんは?」
「毎週のことじゃない。仕事ほっぽって、旅行に行ったよ。今回はイギリスだって」
「イギリス好きだな…。じゃあ、秋兄は」
「お父さんに押し付けられた仕事のせいで、残業中」
「………。で、お前はなんでここにいんの」
顔にわかりやすく「秋兄、不憫な…」って書いてあるよ、和兄。気持ちはわかるけど。
うちの両親はそこそこ名のある会社の社長とその専属秘書なんだけど、結婚して二十数年経った今でも新婚気分なラブラブ夫婦。
週末になる度に、長男であり、専務でもある秋兄に仕事を押し付けて旅行に行ってる。
ちなみに次男である和兄は、学生の頃からバイトして、卒業と同時に正社員になったこのバーでシェフとして働いているの。
週末は特に忙しいから、ここにずっといるんだ。
まあ、あたしとしてはその方が助かるんだけど。
さて。そろそろあたしの目の前で遠い目をして現実逃避をしようとしている和兄を、現実に連れ戻して差し上げましょう!
現実はそんなに甘くないのだ!
「そりゃもちろん、お母さんが『私たちがいない間は和くんのところでご飯食べさせてもらいなさいね』ってウインク付きでお金くれたからですよ!」
Vサインを和兄に見せつけながら得意げにそう言うと、どこからか、ブチッと何かがキレる音がした。………気がする。気がしただけだと思いたい。
わかってる。わかってるのよ。だからあたしは静かに臨戦態勢をとる。
そして―――
「お前、今自分が何歳かわかってんのか?」
「もちろん!華の女子高生!ピッチピチの17歳だよ!」
「ならわかるよな?ここはバーだ。酒を飲むところなんだよ。未成年の飲酒は法律で禁止されてるだろうが!」
「別にお酒なんて飲まないもん!あたしはご飯食べに来てるだけなんだから!」
「だったらその辺のファミレスにでも行けッ!」
「やだやだやだ!絶対いや!あたしはここがいいの!」
お互いに一歩も引かずに睨み合う。
でも、どれだけ言われたって帰ってやらないんだから!
だって、だってここには――――――
「まあまあ、和臣先輩。いいじゃないですか。ちゃんと他のお客様のご迷惑にならないように、開店前の夕方に来てくれてるんですし。それに、酒類は僕たちが飲ませなければいいだけの話でしょう?」
ぽん、と頭に大きくて暖かい手を乗せられた感覚がして。
あたしの援護射撃をしてくれる穏やかな声がその場に割って入る。
「藤哉さん!」
ぱぁっ、と笑顔になるのが自分でもわかった。
それと同時に、チッ、と和兄の舌打ちが聞こえる。
和兄は経験上、口では藤哉さんに勝てないってわかってるもんね。
藤哉さんは、和兄の大学時代の後輩で、このバーのバーテンダーさんで、―――あたしの、好きな人でもある。
あたしが藤哉さんに会えるのは週に2日。両親が旅行に行ってる間に夜ご飯を食べに来たときだけ。
叶うかどうかもわからない恋だけど……、でも、会えるだけで幸せなの。
「いいですよね、マスター」
そう言って藤哉さんが厨房の方に声をかけると、店の奥から見た目30代後半のダンディーなおじさまが現れた。
「もちろんだ。代金もちゃんと払ってくれるし、持ってきてくれるスイーツはおいしいし…何より、ウチの従業員たちも咲月ちゃんが来てくれるのを楽しみにしてるんだよ。なぁ?藤哉」
「ええ」
マスターの言葉を受けてにっこりとキレイカッコよく微笑む藤哉さん。
藤哉さんも楽しみにしてくれてるのかな…、なんて少し浮かれてしまう。
ちょっぴりほてりそうになった顔を隠すために、あたしはさっき取り出したとあるモノをマスターに差し出した。
「今日は抹茶のミニマドレーヌなんです。いっぱい入ってますから、皆さんで分けてくださいね」
ここに来るときは、いつも何かしらの手作りお菓子を持ってくるようにしてる。
時間外にわざわざあたしのためにご飯を作ってもらってるんだし、代金だけじゃなんとなく申し訳ない。
だから、昔から得意だったスイーツ作りを生かしてるってわけ。
迷惑ばっかりかけてるのに、ここの皆さんは喜んであたしを迎え入れてくれる。和兄は違うけど。
こうやって毎週来ることが、迷惑だってことはわかってる。
ずっとこうしてるわけにはいかない、って、わかってはいるんだけど。
でも――――――
今日も(なんだかしゃくだけど)おいしかった和兄のご飯を食べ終わって、店の準備を終えた和兄と外に出た。
ちらちらと星が瞬いて、暗くなり始めた空を飾る。
ぼんやりと空を眺めていると、和兄が、ドアのプレートを『OPEN』に反しながら言った。
「お前、藤哉が好きなのはわかるけどな。あいつはお前を『先輩の妹』としてしか扱ってないって、わかってるんだろ」
突然の、確信を突いてくる和兄の言葉に、あたしの胸がツキンと痛む。
「………うん」
知ってるよ。わかってるよ、そんなこと。
あたしは、藤哉さんのことなんて何もわからない。
知らないことだらけだもん。
一度だけ見たことがあるの。
いつもの穏やかな優しい顔じゃない、藤哉さんを。
お酒に酔って、お店に迷惑をかけたお客さんを止めた時、藤哉さんはすっごく冷たい目をしてた。
すごく、………怖いって、思った。
同時に、あたしには、きっと本当の藤哉さんは見せてもらえないんだってわかってしまった。
だって、藤哉さんのあの穏やかな笑顔は、お客さん用だから。
営業スマイルだから。
それでも、たった週に2日だけだとしても、会えたら、幸せなんだもん。
迷惑なんだろうって、わかってる。
でも、きっとあたしは「来るな」って言われるまで、ここに通い続けるんだ。
「暗くなるのが早くなってきたからな。気を付けて帰れよ」
うつむいたあたしの頭をくしゃりと撫でてそう言った和兄は、その時ばかりは、まぎれもなく心配性なあたしのお兄ちゃんの声だった。
◆ ◆ ◆
「咲月!ちょっと疲れたからさ、お茶にしない?」
「うん、いいよ。どこに行こっか」
あたしこの前良さげなとこみつけたんだー、と隣を歩く早月ちゃんが楽しそうに言う。
彼女は高校に入って初めて出来た親友だ。
同じ『さつき』だったからなんだか2人で驚いてしまって、それが理由ですぐに意気投合したの。
実は彼女の家はあたしの家とはまさに天と地ほどの差がある大財閥。
普段は隠してるんだけど、以前こっそり教えてくれたんだ。
もちろん、あたしはそんなブランドが無くたって早月ちゃんが大好きなんだけど。
『tempo di sogno』でご飯を頂いた翌日、あたしは早月ちゃんと街にショッピングに来ていた。
時刻はそろそろお昼前で、ランチも頂ける早月ちゃんいわく『良さげなとこ』に向かっているところ。
趣味や好みが合う早月ちゃんと話すのはとても楽しくて。
まさか、あんなことになるとは思わなかったの―――。
「あれ?ねぇ、あそこにいるの、咲月の好きな人じゃない?ほら、なんて言ったっけ………そうそう、トウヤさん」
「え?うそっ!どこ?」
「ホラあそこ」
早月ちゃんが指さす先の通りを目で追う。
今の時間って、もうお店にいるんじゃないかと思ってたけど………、なんて考えながら、もしかしたらっていう期待もあって。
そして、みつけた。
―――でも。
「…咲月、他人の空似ってこともあるし!ね、別にあの人がトウヤさんだっていう確実な証拠があるわけじゃないんだしさっ!」
早月ちゃんが慌ててフォローしてくれる。
それに「うん、そうだよね」なんて生返事しながら、本当はわかってた。あの人は、あたしの目線の先にいる人は―――間違いなく、藤哉さんだ。
だけど、なんで?
その、隣にいるキレイな女の人は誰ですか?
彼女、今はいないって、前に言ってたのに。
大通りを歩く2人はびっくりするくらい絵になっていて。
美男美女。そんな言葉がしっくりくる。
楽しそうに話しながら歩く彼女さんに対して、藤哉さんは少々不機嫌そうで。
あ、驚いた顔した。
それから少し赤くなって、――――――藤哉さんが浮かべたのは、はにかんだような、彼女さんを本当に愛おしいと、そう思っていることがわかる、笑顔。
それからまた少し不機嫌そうだったけど、今度は少し拗ねているようでもあって………。
―――ああ、あのひとは、藤哉さんの“本当”を知ってるんだ。
そう、直感した。
どうしよう。泣きそうだ。
あたしは、自分が思っていたよりももっと、ずっと、藤哉さんが好きだったらしい。
こんな所でこんな風に失恋するなんて、思ってもみなかった。
もう、まっすぐ家に帰って泣いてしまいたかった。
だけど。
神様はすごく意地悪だったんだ。
大通りを何か話しながらゆっくり横切っていく藤哉さんと、彼女さん。
もう、見ていたくない。
早月ちゃんが心配そうにあたしを窺っているのが気配でわかる。
なんとか笑顔をつくって、早月ちゃんに「行こう?」と言おうとしたその時。
バチリと。
あたしと、藤哉さんの目が、合った。
「―――ッ!!」
藤哉さんが、通りの向こう側で驚いた顔をしてる。
何かを言おうとした藤哉さんをこれ以上見ていられなくて………。
あたしは、藤哉さんから顔を背けて、早月ちゃんの静止の声も聞かず、その場から走り去った。
信じてなんていないけれど。
でも、それでも。
―――神様の、ばか………。
◆ ◆ ◆
ふと、また週末が巡ってきたことに気が付く。
あの日は結局、『tempo di sogno』に行かなかった。
その、次の週末も。
もう、2週間もあのバーへ行ってない。
こんなに長くあそこに関わらなかったのは初めてのような気もする。
まだ、失恋の痛みは強くて。
すごく、辛いけれど。
これが、あそこから離れる、いい機会なのかもしれない。
もう、迷惑をかけずにすむから。
――――――だけど。
その日の夕方。
いつもの時間に、あたしは『tempo di sogno』の前にいた。
これで最後。
最後にするから。
もう一度だけ、優しい、偽りの藤哉さんに会いたい………。
カラン、と耳に心地いい音を鳴らしてドアを開ける。
一瞬ギュッと目を強く瞑り、震える足で店内に歩を進めた。
「―――! 咲月ちゃん………、ひさしぶり、だね」
「藤哉、さん…」
今日カウンターのテーブルを拭いていたのは、和兄じゃなくて藤哉さんだった。
まさかこんなにすぐに藤哉さんに会うなんて思ってもみなくて。
頭の中が真っ白になる。
どうしよう、あたし、どうしたらいいの………?
ただ立ち尽くしているあたしを見てかすかに苦笑した藤哉さんは、「和臣先輩を呼んでくるから、適当に座ってて」と言い残して奥に入って行ってしまった。
あたしの、見間違い、かな。
でも、さっきの藤哉さんの笑顔は、なんだか少し痛そうに見えた。
どうして?
彼女さんとあんなに幸せそうだったのに。
―――もしかして、あの日、あたしをみつけてしまったから………?
いや、そんなわけないよね。だってあたしは、ただの『先輩の妹』だから。
自分で考えたことに、またへこむ。
そんな自分を自嘲するみたいに笑って、あたしは一番奥のスツールに腰かけた。
バッグの中から、今日のお菓子を取り出す。
この差し入れも、今日で最後になるんだよね。
なんとなくそれが寂しくて、でも仕方ないと思い直す。
しばらくぼんやり座っていると、厨房の方から和兄がカウンターに出てきた。
相変わらず全身真っ黒だ。
「お前また来たのか。もう来なくてよかったのに。―――って、嘘だよ。皆心配してたぞ」
そう言って、あたしの頭をくしゃりとなでる。
「藤哉なんか特にな。お前、案外脈アリなんじゃねーの?」
違うよ、和兄。
それは、藤哉さんがあの日あたしと会ってしまったから。
だから気にかけてくれただけ。
あたしは、もう失恋しちゃったんだもん………。
「お前が元気ねぇっつうのもなんか調子狂うな。ま、今日は俺が美味いもん食わせてやるから。期待しとけ」
ぽんぽん、とあたしの頭を軽く叩いて、和兄は厨房に戻っていった。
こっちだって調子狂うよ。
そんなに突然優しいお兄ちゃんになられたら。
でも、今は和兄のそんな優しさが素直にうれしかった。
それから数十分経って。
和兄は本当においしい料理をいっぱい出してくれた。
しかもあたしが好きなものばっかり。
おいしいものを食べてると、それだけでちょっぴり元気が出る。
「………和兄、ありがと」
面と向かっては絶対に言ってあげないけど、本当に感謝してるの。
くすっと、もしかしたら2週間ぶりになるのかもしれない笑みを、小さく口の端に乗せた。
「―――ひさしぶりに、咲月ちゃんの笑顔を見た気がするね」
「―――ッ! 藤哉、さん………」
コトリ、とキレイな色の飲み物が入ったグラスを、藤哉さんがあたしの前に置く。
「あの、あたし未成年ですけど………」
「大丈夫。アルコールは入ってないよ。和臣先輩が出してあげてって」
和兄、本当に心配してくれてたんだ。
普段はこんなこと、絶対してくれないくせに。
しん、と沈黙がその場におりる。
気まずい。
だけど、このままずっとこの沈黙が続けばいいのにと思った。
この先に待っているものなんて、知りたくもない。
でも、―――現実は、甘くなかった。
「―――咲月ちゃん。この前、街で会ったのは………咲月ちゃん、だよね?」
「………、は、い」
やっぱり、きた。
急速に、口の中がカラカラに乾いていく。
テーブルの下で握りしめた手が震えて、指先が冷たくなってきた。
失恋した、って、わかってたはずなのに。
本当は、まだどこかで期待してる自分がいるんだ。
でも、決定的な言葉を聞くのが、怖い。
だってそれは、今度こそ本当に失恋するってことだから。
だめ。やめて。
もう来ないから。迷惑かけないから。
だから――――――、
―――カラン
「―――! いらっしゃいませ、………って、なんだ」
「なんだ、とはなによ。失礼ね」
ドアが開く音と同時に、ヒールのカツ、カツ、という足音がこっちに近づいてくる。
近づいてきたその人は、―――あの日の、彼女さんだった。
キレイ。
近くで見ると、本当に、すごくキレイな人なんだってわかる。
勝ち目なんて絶対にない。
そりゃそうだよね。だって藤哉さんの彼女さんだもの。
「まったく。その様子だとまだみたいね」
「………余計なお世話だよ」
まだ、って………なにが?
自分がまったくわからない、2人だけに通じる会話をされるのは、なんだかおもしろくない。
それに………、やっぱり、藤哉さんはこの人の前だといつもと違う。
なんだろう、少し、少年っぽい。
ふて腐れたように答える藤哉さんを、なんだか可愛いと思ってしまった。
でも、それと同時に、そんな表情を軽々と引き出せる彼女さんに嫉妬してる。
そんなことできるような立場でもないのに。
「あんた仮にも男でしょーが。なっさけないわねぇ」
「ほっとけ」
会話する2人を見て、やっぱりあたしは失恋したんだ、って思い知る。
遠慮のない会話は、心を許してる証拠。
正直、この場にいるのもツライ。
早く、この時間が過ぎてしまえばいいのに。
そんなことを、ひたすらに願う。
「―――まぁいいわ。とりあえず、ちょっと話があるのよ。来て」
「は?いや、でも………」
彼女さんのお誘いに、ちらりとあたしを見て戸惑う藤哉さん。
「あ、あの、あたしのことは―――」
「いいから。来て」
いいので。そう言おうとしたあたしの言葉をさえぎって、彼女さんが言った。
そして、ちらりとあたしを見る。
その瞳は――――――、
しぶしぶ、といった風にあたしの座っている席の横にある通路から出てきた藤哉さんは、彼女さんについていこうとする。
でも、やだ。だめ。
彼女さんがあたしに見せた瞳の色は、―――嘲り。
あたしなんか、ライバルにすらなりえないって決めつけて、見下してる目。
――――――あなたじゃ私に敵わないでしょう?
そう、言われたような気がした。
そうかもしれない。
あたしはどうしたってまだコドモで、オトナなあの人に勝てる要素なんて無いに等しいのかも。
でも、――――――でも。
――――――ギュッ
「―――ッ、え?」
あたしは、彼女さんに向かうその背中に抱きついた。
歩みを止めた藤哉さんが、戸惑ってる。
ごめんなさい。迷惑ですよね。訳わかんないですよね。
でもね、いくらキレイでも、あんな風に人を見下すような人になんて、負けたくないの。
絶対、藤哉さんは渡したくない。
だから、お願い。
「………いかないで………」
ぎゅうっと手に力を込めて、呟く。
その声は、自分で思っていたよりもずっと、震えて、小さくて、弱々しい声だった。
こんなことして。
今度こそ、本当にフラれちゃうよ。
もしかしたら、嫌われちゃうかも。
そんな考えに涙が滲んだその時。
「よくできました」
やわらかい、声が聞こえた。
それと同時に、頭にやさしい感触。
「え………?」
状況が理解できなくて、間抜けな声を出す。
だって。だってだってだって、
今の、声は―――
「あなたが咲月ちゃん、でしょう?こんなに可愛い妹ができるなんて、嬉しいわ。もしこのバカと喧嘩でもしたら、いつでも私のところにいらっしゃいね。私はあなたの味方だから」
―――へ?
え、なに?どういうこと?
いもうと?ばか?けんか………?
「ちょ、おいっ!余計なこと言うなよ!」
「ふふふ、あんた、この子を捕まえられなかったりしたら覚悟しときなさいね?じゃ、頑張って」
ひらひらと手を振って、去り姿もキレイに店を出ていく彼女さん。
待って待って、まだ混乱してるの。
「よくできました」って、―――あたまを撫でられた?
だれに?―――彼女さん、に?
優しかったな………じゃなくて。
えっと、えっと、今のは、つまり――――――
―――フワリ
「え?―――ッ、きゃあっ!!」
突然足が地面から離れた感覚がして、『なにか』から落ちそうになったあたしは慌ててその『なにか』にしがみつく。
ストン、と置かれたのはさっきまで座っていたスツールの上。
目の前にはブラックのシャツにベスト。
え、と。
頭が飽和状態になって今何が起きたのか理解できていないあたしを暖かくて大きな手が撫でる。
もう何がなんだかわからなくなっている頭が、それだけは感知した。
あ。―――藤哉さん。
「咲月ちゃん」
ぼんやりと、穏やかにあたしを呼ぶ声の主を見ると、優しく微笑まれて。
それだけであたしの温度は上がる。
「なんで、さっき止めたの?」
止め………?
―――ッ!!
「あ、の、その、えっと………」
言えない。言えるわけがない。
彼女さんにあなたを渡したくなかった、だなんて。
だって、あたしにはそんな資格ないよね?
ていうか彼女さん帰っちゃったし。
――――――え?帰った………?
「と、藤哉さんっ!彼女さん追いかけなくていいんですかっ!?」
そうだよ!帰っちゃったよ彼女さん!
なんかよくわかんなかったけど、優しかったし!
あの瞳は見間違いだったんじゃないかってくらいに、…ていうか見間違いだよね!?あれ!
どうしよう。あたしのせいだ!
あたしがあんなことしたからっ!
「ご、ごごごごめんなさい藤哉さん!あたし今からでも彼女さんに謝りますからっ!だから、」
「ストップ。咲月ちゃん、落ち着いて」
ぽんぽん、と背中を軽く叩かれて、なんだか自分が小さな子供になったような気がした。
落ち着いた?と覗き込んでくる藤哉さんに、声も出せずにこくこくと頷く。
「なんか誤解してるみたいだけど………、あの人は、僕の彼女じゃないよ?」
カノジョジャナイ?
………彼女じゃない!?
「ええっ!?」
うそっ!
でもだって、あの日2人で………
「あの人は、僕の姉だよ」
ふぅ、となんだか疲れたように苦笑しながら藤哉さんが言った。
おねえさん………。
本当に?
――――――ううん。ちがうよね。
だって、あの日の藤哉さんの表情。
あれは、本当に相手を愛おしいと思っている顔だったもの。
だから、やっぱり………
「信じてないって顔だね?」
「………。」
信じたいよ。
信じてしまえた方が、きっと楽。
でも、あんな表情を見ちゃったら、そんなの無理だよ………。
藤哉さんが困ったように笑って、あたしの目をまっすぐに見た。
真剣な顔になった藤哉さんから、目をそらすなんてできない。
藤哉さんの形の良い口が、ゆっくりと開いて―――
「君が、好きだと言っても?」
「………え?」
もう何度目になるのかわからない不測の事態に、あたしの頭はなかなかついていかなくて。
すき?
すきってなんだっけ。
すき―――好き。
え。だれが、なにを?
あたしが、藤哉さんを?
もちろんそうだけど、そうじゃなくて。
藤哉さんが、………あたしを?
え?うそっ!
ようやく藤哉さんが言った意味を正しく理解して浮上した気持ちは、でも次の瞬間には地に落ちていた。
ていうかむしろ地にめり込んでいきそう。
だって。
「うそ、ですよね?だってあの日、藤哉さん、彼女さんにすっごく、い、………いとおしそうな顔、向けてたもの………」
言っちゃった。
言いたくなくてどもっちゃったけど、でも、そうなんでしょう?藤哉さん。
「………なるほど、そうきたか………」
はぁ、と深いためいきをついて藤哉さんがそうもらす。
ほらやっぱり。
あたしのことが好きなんてうそ。
本当に好きなのは、あの人なんでしょう?
「咲月ちゃん、言い訳っぽく聞こえるかもしれないけど、言ってもいいかな?」
本当は聞きたくなんてなかったけど、藤哉さんの目がすごく真剣だったから、あたしはコクリとうなづいた。
「姉は、以前から何故か僕が君のことを好きだって知ってた。どうやって知ったのかはわかんないけどね」
―――『あなたが咲月ちゃん、でしょう?』
やわらかな、やさしい声が耳によみがえる。
「あの日、君が見てたあの時、姉に聞かれたんだ。『咲月ちゃんのどこが好きなの?』って」
―――え?
ポカン、とするあたしの頬を撫でて、藤哉さんは続ける。
「最初は、よく来る『先輩の妹』だったんだ。でも、いつからかな。君から目が離せなくなった。君が来る週末を、待ち遠しいと感じるようになった」
あたしも。
あたしも、いつも、早く週末にならないかなって待ち遠しくて。
藤哉さんに会えるのがうれしくて。
「いつ見ても元気な、はじけるような笑顔も、お菓子作りが上手な、器用なこの手も、」
スルリと藤哉さんの大きな手が頬をすべって、ひざの上に置いたあたしの手を握りこむ。
「僕をまっすぐに見てくれる瞳も、僕を呼ぶ、声も、」
だめ。だめだよ。これ以上はだめ。
頬に熱が集まるのがわかる。
これ以上言われたら、あたし―――
「いつも一生懸命な君が、好きだよ。咲月ちゃん」
トラワレル。
だめなの。もう、逃げられない。
あたしを、あの日と同じ瞳で見つめる藤哉さんから、逃げようなんて、思わない。
藤哉さんに囚われてしまった。―――あたしの、全部を。
ゆっくりと、藤哉さんの瞳が、先をうながす。
こたえを求めてる。
「咲月ちゃんは?」
あたしの答えはたったひとつ。
もう、逃げないよ。そらさないよ。
藤哉さんの瞳をみつめて。
想いをそっと唇にのせる。
あたしは―――
「藤哉さんが、好きです―――」
ふわりと優しく重なるキスは、約束の証。
最後だなんて言わないから。
週末には、いつもの時間に、カランとドアを開けましょう。
いつだってそこには、
優しく微笑む
バーテンダーの彼
*END*
―――長いわッ!
別に勝手に動いてくれるのはいいんですよ。いいんだけど………、うぅ。
藤哉はドSだと思います。
作者泣かせです。
てゆーか後半、ここまで長く、甘くなるとは思いませんでした。
藤哉とあんまり絡んでないなーとか油断してたらこの有様。
藤哉め………ッ!
書いてて砂吐きそうでした。
あと、何故か和兄がイケメン。
こんな予定じゃなかったんだけどなー。
あんたなんで彼女できないんだ、と作者がツッコミました。
ちなみに。
お気づきの方はさすがにいらっしゃらないだろうと思いますが、今回出演した『早月ちゃん』は、別サイトの「幼なじみ君」のプチ未来です。
わかる方にはニヤニヤしていただけるとうれしいな、と(笑)
近日中に続編を書きたいなと思っています。
今度は短くしたいです。はい。
打倒藤哉!ですね。
最後に。
ここまでお読みくださってありがとうございました。