私を殺そうとした元婚約者――その弟に求婚したら、なぜか即答で「はい」と言われました
「……っ、はぁっ、はぁっ……」
ベッドから跳ね起き、私は荒く息を吸い込んだ。
喉元に押し当てられた冷たい刃の感触が、まだ生々しく残っていた。
両手で喉を押さえ、荒い呼吸を繰り返しているうちに、ふと違和感を覚えた。
どうして、息ができているの?
私、死んだはずでは……?
すぐさまベッドを抜け出し、鏡の前へ駆け寄った。
鏡に映っていたのは、私だった。
首は、ちゃんとつながっている。
傷ひとつない……それどころか、幼い頃の姿に戻っていた。
……どうして?
もしかして、今までのは全部夢だったというの?
いや、記憶が鮮明すぎる。夢のはずがない。
かといって、今が夢の中だとも思えない。
いったい何が起きたの?
「戻ってきた……の?」
あのときの記憶を持ったまま、幼い頃に?
もし本当に戻ってきたのだとしたら、あの未来はまだ変えられる。
私は必死に記憶をたぐり寄せた。
私を死へ追いやったのは、前の人生で私の婚約者だった王太子アドリアンだ。
聖女と恋に落ちた彼は、彼女と婚約するため、邪魔な私を消そうとした。
大きな力を持つ公爵家との婚約を破棄するには、我が家に反逆の罪を着せるのが都合がいい。そう判断したのだ。
そのせいで、モリアス公爵家は没落した。
私が王太子の婚約者だったというだけで、両親も兄も断頭台で処刑された。
私はぎり、と奥歯を噛みしめた。
罪悪感に胸を締めつけられながらも、ひとつだけはっきりしていることがあった。
まだ、やり直せる。
もう一度、機会を与えられたのなら、同じ未来を迎えなければいい。
私は心に決めた。
この人生では、絶対に王太子とは婚約しない。
◇◇◇
数週間後。
両親に連れられて王室主催の慈善パーティーに出席した私は、機会を見計らって、ある人物に近づいた。
王太子アドリアンの弟、第二王子カシエルである。
幸い、彼も退屈していたのか、人の輪から離れ、庭園の片隅にいた。
私は彼のもとへ歩み寄り、声をかけた。
「殿下」
花を眺めていたカシエルが、驚いたように振り向いた。
「モリアス嬢?」
「どうしても殿下にお願いしたいことがあって、失礼とは存じながら参りました」
カシエルも、まだ私と同じ年頃の少年だった。
けれど銀の髪に澄んだ青い瞳、整った顔立ちには、すでに冷ややかで大人びた雰囲気があった。
彼はしばらく私を見つめたあと、護衛を下がらせた。
「お話しください、モリアス嬢」
私はごくりと唾を呑んだ。
前の人生で、私は彼とそれほど親しい間柄ではなかった。
たまたま顔を合わせても、短く挨拶を交わすだけで、彼は無表情のまま私のそばを通り過ぎていったからだ。
きっと、私のことをあまりよく思っていなかったのだろう。
だから私も、自分から近づこうとはしなかった。
けれど、本当にこのやり方でいいのだろうか。
不安が胸をよぎった。
それでも、いくら考えても、王太子との縁談を確実に避けるには、これしかない。
覚悟を決めた私は、用意してきた一言を口にした。
「殿下、私と婚約してください!」
カシエルの目が大きく見開かれた。
やはり断られるだろうか。
変な令嬢だと思われたのではないだろうか。
不安と緊張で、心臓がうるさいほど脈打っていた、そのとき。
「はい。いいですよ」
彼は即答すると、美しく微笑んだ。
カシエルは少し身をかがめ、赤いチューリップを一輪摘み取ると、私に差し出した。
「モリアス嬢。こちらこそ、お願いいたします。どうか、私と婚約してください」
思いがけない積極さに呆然としながら、私はチューリップを受け取った。
前の人生では、いつも感情の読めなかった彼の青い瞳が、今は真剣に私を見つめていた。
胸が、とくんと跳ねた。
「陛下には、私からお話しいたします。モリアス嬢はどうぞご心配なく」
その声は、とても穏やかだった。
それなのに、不思議と頼もしく感じられた。
◇◇◇
屋敷へ戻ってから、私は全力で父を説得した。
カシエルが陛下に話を通している間、こちらでも念のため手を打っておきたかったのだ。
将来王妃となるなど、私には荷が重すぎる。そう訴え、王太子との縁談が持ち上がらないよう、何度も父に自分の意思を伝えた。
それとなく、相手が王太子でなければ、王族でも構わないとも匂わせておいた。
ありがたいことに、家族は私の意思を尊重してくれた。
そしてほどなくして、国王陛下は前の人生と同じように、父へ縁談を打診してきた。
ただし、相手は違っていた。
王太子ではなく、第二王子だったのだ。
婚約の話は、驚くほどとんとん拍子に進んだ。
通常、王族との婚約ともなれば、少なくとも一年は準備期間を置くものだ。
けれど私たちの婚約式は、わずか三か月も経たないうちに執り行われた。
カシエルが強く望んだからだ。
それだけではない。
婚約が決まってから、カシエルは毎日のように私のもとを訪ねてきて、私と語り合った。
これから生涯を共にする相手なのだから、互いをよく知るべきだ。
彼はそう言っていた。
そうして共に過ごす時間が増えるほど、私たちの距離は自然と縮まっていった。
時が流れ、王立貴族学園に入学してからも、それは変わらなかった。
カシエルは授業のある日はもちろん、休日でさえ、いつも私のそばにいようとした。
そんな彼を嫌だと思ったことはない。
けれど、なぜそこまでしてくれるのかは不思議だった。
だから、思い切って尋ねてみることにした。
庭園のガゼボで、二人きりで昼食をとっていたときのことだった。
「カシエル様は、私が一人で出かけるのはお嫌ですか?」
パンに手を伸ばしかけていたカシエルが、ぴたりと動きを止めた。
そして私を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「ロゼが可愛すぎるからね。悪い虫が寄ってきたら困るんだ。君を一人にしておけるわけがないだろう?」
頬がかっと熱くなった。
カシエルは普段から過保護気味だ。
そこまで心配しなくてもいいのに。
それでも、彼が私を大切に思ってくれていることだけは、確かだった。
私は照れ隠しに、話題を変えた。
「このあと、一緒にお茶を飲みませんか? 王家からいただいた茶葉があるのです」
「王家からの贈り物?」
その瞬間、カシエルの表情がこわばった。
「ロゼ。その茶葉で淹れたお茶は、もう飲んだ?」
「いいえ。まだ口にはしていません」
「なら、飲まないで。私に預けて。毒がないか確かめてから返す」
「毒だなんて……」
「私が確認していないものは、たとえ王家からの贈り物でも絶対に口にしないで」
彼はきっぱりと言い切った。
王家がそこまで露骨に毒を仕込むとは思えない。
いつも私を案じてくれるカシエルだけれど、今度ばかりは少し心配しすぎではないだろうか。
そう思いかけた、そのときだった。
「王家からの贈り物が、どうしたというのだ?」
アドリアンが私たちの前に姿を現した。
その隣には、新入生である聖女レアが、アドリアンの腕にしがみついていた。
前の人生で何度も見せつけられた光景を再び目にした瞬間、目の前がくらりとした。
あの二人の姿に、私はどれほど傷つけられてきただろう。
前の人生で、アドリアンは学園でレアと出会ってから別人のように変わった。
それまでは私に対して最低限の礼儀はわきまえていたのに、以降はあからさまに私を冷遇し、レアへの嫌がらせの首謀者だと決めつけた。
『君がレアを仲間外れにしたと聞いた。なぜ晩餐会にレアを招かなかった?』
『レアに、私に近づくなと言ったそうだな? 嫉妬でそこまで醜くなるとは、心根まで救いようがない』
そんな暴言をいくつも浴びせ、私を嫌悪しつづけたアドリアンは、最後には我が家に反逆罪を着せ、私という存在ごと排除した。
前の人生で受けた仕打ちを思い出し、背筋に冷たいものが走った。
今の人生ではカシエルと婚約し、アドリアンとの関わりをできる限り避けてきた。
それでも、こうして学園で顔を合わせるのはつらかった。
私は表情がこわばりそうになるのを押し隠し、アドリアンの前で丁寧にカーテシーをした。
「王太子殿下、ご機嫌よう」
アドリアンは私に挨拶を返すこともなく、目をつり上げて問いただした。
「今の話を聞く限り、王家がモリアス公爵家に毒入りの品を贈ったと疑っていたようだが……そうなのか、モリアス嬢?」
私を見るアドリアンの目には、前の人生と同じ嫌悪がにじんでいた。
心臓が嫌な音を立てた。
あれほど破滅を避けようとしてきたのに、こんな形で罪を着せられるのだろうか。
王家への不敬罪を問われるかもしれない。
そう思った瞬間、頭の中が真っ白になった。
私が何かを答えるより早く、カシエルが私を庇うように前へ出た。
「疑ったのは私です。ロゼを責めるのはおやめください、兄上」
「公爵家に贈り物をしたのは、我が母、王妃陛下だ。おまえは、王妃陛下がモリアス嬢を害そうとしたと言うのか?」
「王妃陛下を疑っているわけではありません。ただ、飲食物は多くの者の手を経ます。あくまで念のための確認です」
アドリアンが不満げに口を引き結んだ、そのとき。
隣にいたレアが眉尻を下げ、口を開いた。
「王妃陛下からの賜り物にまでそのような疑いを向けるなんて、少し悲しいです。これがモリアス様の落ち度と見なされないか、私、心配で……」
「聖女様には馴染みのない話かもしれませんが、口に入れるものを検めるのは、王族や貴族にとって基本中の基本です」
カシエルの容赦ない正論に、レアの顔がみるみる赤くなった。
傾きかけた男爵家の出身であることを意識したのか、ひどく恥じ入ったように見えた。
彼女は今にも泣きそうな顔でアドリアンを見上げた。
「殿下、私、余計なことを言ってしまったみたいです。私はただ、モリアス様が心配だっただけなのに……」
「レアが怯えているではないか! カシエル、今すぐ謝れ!」
アドリアンはカシエルを睨みつけた。
けれどカシエルは少しも動じず、淡々と言い返した。
「さあ。普段の振る舞いを見る限り、この程度で怯えるような方ではないでしょう」
「何だと? レアの普段の振る舞いとは、どういう意味だ」
「それを、わざわざ私の口から説明しなければなりませんか?」
カシエルの顔に浮かんでいたのは、まさに軽蔑そのものだった。
「貴様!」
アドリアンは今にも掴みかかってきそうな勢いだった。
けれどカシエルはその剣幕を悠然と無視した。
そして私の手をしっかり握ると、迷いのない足取りでその場を離れた。
本当に、剣呑な空気だった。
何より驚いたのは、アドリアンとカシエルの関係だ。
前の人生では、二人はここまで険悪ではなかった。
けれど今のカシエルは、アドリアンを心底嫌っているように見えた。
「ごめん、ロゼ。怖い思いをさせたね」
ガゼボから庭園の小道へ出たところで、カシエルが気遣わしげに声をかけてきた。
先ほどまでアドリアンとレアに正論を突きつけていたとは思えないほど、私を見つめるカシエルの瞳はやさしかった。
「はい。大丈夫です」
カシエルは私の髪をそっと撫で、真剣な表情で口を開いた。
「今、あの二人は罪のない貴族家を陥れようと、罠を張っている」
その言葉を聞いた瞬間、思い当たることがあった。
「もしかして……レア嬢と対立している令嬢たちの家を、罠にはめるつもりなのですか?」
「私が調べた限りでは、そうだ」
暗い表情で答えたカシエルは、決意を固めたように呟いた。
「……あのような者に、王位を継がせてはならない」
私は重く頷いた。
学園の令嬢たちは、王太子にまとわりつく男爵家出身のレアを快く思っていなかった。
中には、レアにあからさまに敵意を向け、皮肉を浴びせる者もいた。
前の人生では、私が彼女たちを扇動していると決めつけられ、アドリアンの怒りを一身に受けた。
けれど今の人生では、あえて彼女たちとは距離を置いてきた。
だから私が巻き込まれることはないはずだ。
それでも、アドリアンが彼女たちを見逃すとは思えない。
アドリアンは、ぞっとするほど残酷な男なのだから。
アドリアンとレア。
あの二人が罠を仕掛けるのなら、おそらく前の人生で我が家を没落させたのと同じ手口を使うのではないか。
けれど、同じことが起こるという証拠はなかった。
それでも、もしカシエルが私の話を信じてくれるなら、きっと何かの手がかりになるはずだ。
少し迷ったあと、私はおそるおそるカシエルを見上げ、口を開いた。
「カシエル様。アドリアン殿下の企みについて、心当たりがあります。アドリアン殿下が使う手口は、おそらく……」
◇◇◇
やがて迎えた卒業パーティーの日。
華やかな会場を見渡した途端、胸の奥がきゅっと痛んだ。
この日は、前の人生でアドリアンが私と家族を破滅へ追いやった日だったからだ。
前の人生では、王太子に捏造された証拠を突きつけられ、なすすべもなく追い詰められた。
けれど、今日は違う。
私は気を引き締め、隣に立つカシエルの腕に、そっと腕を絡めた。
大丈夫。
前の人生とは違い、私のそばにはカシエルがいる。
彼は前の人生では、この頃にはすでに他国へ留学していた。
けれどなぜか、今の人生では私のそばにいてくれる。
会場がワインの香りと華やかなざわめきに包まれていた頃、音楽がふつりと途切れた。
それもまた、前の人生と同じだった。
アドリアンが会場の中央へ進み出た。
「敬愛する国王陛下、そして親愛なる学友諸君の前で、明らかにすべきことがあります」
アドリアンが恭しく頭を下げた先には、特別に招かれた国王陛下が臨席していた。
アドリアンは声に力を込め、本題を切り出した。
「聖女レアが、先日執り行われた神殿の儀式において、重大な神託を授かりました」
純白のドレスとベールを身にまとったレアは、アドリアンの隣で両手を胸の前に重ね、静かに立っていた。
誰の目にも、清らかで神聖な姿に映った。
アドリアンはそんなレアを誇らしげに見つめ、それから再び口を開いた。
「由々しきことに、この国を転覆させようと企む者たちがいるとの神託です。今から、その不敬なる家々の名を読み上げます」
貴族たちの間に、ざわめきが広がった。
アドリアンはますます自信に満ちた表情で、いくつかの家名を読み上げた。
標的にされた家の令嬢たちは、みな青ざめていた。
続いてアドリアンは、名を挙げた家々が敵国に通じている証拠を示し始めた。
会場が水を打ったように静まり返り、国王陛下の表情まで険しくなった、そのとき。
「お待ちください」
カシエルが一歩、前へ出た。
「王太子殿下が示された証拠は、捏造されたものです。証人は、ここにおります」
カシエルが合図を送ると、縄で縛られた男が一人、引き立てられてきた。
その男の顔を見て、顔色を失ったのはアドリアンだった。
「この男は、筆跡偽造で名の知れた者です。名を挙げられた家々が敵国と内通しているという密書を、彼が偽造しました」
カシエルが顎で促すと、男は観念したように口を開いた。
「……すべて事実です。アドリアン殿下が、屋敷が一軒買えるほどの金貨をくださると仰ったので、引き受けました」
瞬く間に、会場の空気が一変した。
標的にされていた家の令嬢たちは安堵したようにその場に座り込み、王太子と聖女に向けられる視線は冷え切っていく。
「なんてこと……」
「では、聖女様が受けたという神託も嘘だったの?」
ざわめく声の中で、前の人生の光景が、否応なく脳裏に重なった。
私は、前の人生で同じ手口で陥れられた。
だから知っていた。
アドリアンが誰のもとを訪れ、どのように今回の件を依頼するのかを。
私は、筆跡を偽造した男が口封じに消される前に、屋敷の騎士たちに命じて身柄を確保した。
また、偽の神託を仕立て上げた大神官と王太子の結託についても、すでに知っていた。
だからカシエルに頼み、二人の密会を調べてもらっていたのだ。
今の人生では王太子と婚約していないため、我がモリアス公爵家が直接の標的になることはなかった。
けれど、罪のない貴族たちが罠にはめられ、没落していくのを見過ごすことなどできない。
それに、気に入らないというだけで平然と他人に濡れ衣を着せるような二人が権力を握れば、我が家だっていつまでも無事ではいられない。
だから、放っておくわけにはいかなかった。
「聖女が受けたという神託もまた、偽りです。大神官が王太子殿下と手を組み、今回の件を仕組んだのでしょう。おそらく王太子殿下の即位後に、相応の見返りを約束されていたはずです」
カシエルは冷ややかに言い切った。
そして、国王陛下の命が下った。
「ただちに聖女レア、ならびにアドリアンを捕らえよ」
「な、何を……! 誤解です、父上!」
アドリアンは情けなくも膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。
そんなアドリアンを、騎士たちが両脇から抱え上げ、引きずっていく。
「離せ! 下郎どもが、誰に触れていると思っている! くっ……カシエル! 俺が王になったら、貴様だけは絶対に生かしておかない!」
レアもまた、騎士たちに両腕を取られた。
彼女はそれまで保っていた聖女めいた表情をぐしゃりと崩し、泣き叫んだ。
「殿下ぁ! 助けて! 一生私を守るって言ったじゃない! それでも王太子なの!?」
彼女のベールもドレスの裾もすっかり乱れ、顔は涙とよだれでぐちゃぐちゃになっていた。
とても聖女とは思えない姿だった。
私はその場に立ったまま、二人が破滅していくさまを静かに見つめていた。
そんな私の肩を、カシエルがそっと抱き寄せた。
その温もりに触れて、ようやくすべてが終わったのだと実感した。
◇◇◇
私はカシエルと手をつなぎ、屋敷の庭園を歩いていた。
遠くの方で、お母様とお兄様が談笑しているのが見える。
何事もなく、健やかで、幸せそうな家族の姿。
その姿を見ているうちに、気づけば涙がこぼれていた。
「……ロゼ」
カシエルは足を止め、私の目元をハンカチでそっと拭ってくれた。
それから、私をぎゅっと抱きしめた。
「ロゼ、大丈夫。もう終わったんだ」
「……カシエル様」
もう本当に安心していいのだと、わかっている。
アドリアンは王籍を剥奪され、平民の身分に落とされた。
そして聖なる神託を偽った聖女レアと大神官は、王宮の地下牢に終身幽閉されることになった。
二人はもう、私や家族に危害を加えることはできない。
誰も、私の大切なものを奪えない。
「わかっています。わかっているのに……」
わかっているのに、どうしてこんなに涙が出るのだろう。
「もう誰にも、君を傷つけさせない。君のそばには、私がいる」
私はカシエルの腕の中で、張り詰めていたものがほどけ、声を上げて泣いた。
カシエルは私の背中を、やさしく何度もさすってくれた。
彼の言う通り、今も、そしてこれからも、私のそばにはカシエルがいる。
私たちはきっと、生涯を共にし、幸せに生きていく。
ほのかなチューリップの香りに包まれる中、カシエルは私の背をやさしく撫で、耳元で囁いた。
「ロゼ。今度は、君を失わずに済んだ」
◇◇◇
前の人生で、カシエルはロゼッタに密かな想いを寄せていた。
しかしロゼッタは、兄であるアドリアンの婚約者だった。
だから、自分には近づくことさえ許されないと思っていた。
王宮の回廊で偶然顔を合わせても、高鳴る鼓動を必死に押し隠した。
無表情を装い、短い挨拶だけを交わして、彼女のそばを通り過ぎた。
彼女が通り過ぎてからようやく振り返り、その後ろ姿が見えなくなるまで、人知れず目で追った。
早鐘を打つ胸を抑えるのに、いつも必死だった。
カシエルが留学を決め、国を離れていた間に、事件は起きた。
帰国したときには、ロゼッタの遺体はおろか、墓さえ残されていなかった。
目の前にあったのは、焼け落ちて黒く煤けたモリアス公爵家の屋敷跡だけだった。
その前に膝をつき、カシエルは何度も己を責めた。
なぜ、自分はアドリアンの醜悪な企みを見抜けなかったのか。
なぜ、愛する人を守れなかったのか。
胸の奥を刃で抉られるような痛みに、息ができなかった。
真っ黒な灰を両手で握りしめ、これまで口にすることさえできなかった彼女の名を呼んだ。
「……ロゼッタ……っ」
ようやく口にしたその名は、焼け跡の静寂にむなしく消えていった。
もう、何ひとつ取り戻すことはできなかった。
「……うっ、うう……っ」
喉の奥からこぼれた声は、嗚咽そのものだった。
どうか……。
もう一度だけ。
たった一度でいい。
もし機会を与えられるなら、今度こそ、彼女を失わない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけましたら、評価をいただけると励みになります。




