狂い始めた指針、不純な静寂
魔法学院の最上階にある講師室。窓の外には、次代を担う若者たちの熱気に満ちた学び舎が広がっている。
レグナードは机に山積みにされた期末試験の答案用紙を、流れるような手つきで採点していた。
(……この術式の展開。ソレイア様なら『愛の光』で強引に押し通すんだろうな。理屈を飛び越えた、有無を言わせぬ輝きで)
ふと浮かんだ思考を、レグナードは自嘲気味に振り払った。
数年前までその「強引な光」こそが、魔力暴走という闇の中にいた自分を救ってくれた唯一の希望だと思っていた。彼女の王婿となり、魔法侯爵の地位を弟に譲り、彼女の影として一生を捧げる。それが自分の、逃れられない定めだと信じて疑わなかった。
だが今のレグナードのペンを止めるのは、王宮に缶詰となり後継者教育に励むソレイアの笑顔ではない。あの日、図書室で自分と対等に語り合った「月」の少女の、震えるほどに清らかな言葉だった。
「……レグナード。ペン、止まってるぞ」
低く、重みのある声が静寂を区切った。
ソファで黙々と大剣の手入れをしていたヴァルディスが、視線だけを向けてくる。二十二歳になり、武門の辺境伯家を継ぐべく己を厳格に律し続けてきた彼は、座っているだけで周囲を圧するような威圧感を放っていた。
「ホントだ、珍しいね。天才レグナード様が採点ごときで集中切らすなんてさ。ソレイア様が王宮から離れて寂しいんでしょ?」
扉を蹴るような勢いで入ってきたのは、カイゼルだ。風属性の騎士公爵家を継ぐ二十二歳の彼は、その華やかな容姿と自信に満ちた振る舞いで、既に魔導軍の若きリーダーとして君臨している。
「……かもしれないね。少し、根を詰めすぎたかな」
レグナードはペンを指先で弄びながら、薄く笑みを返した。
その態度は驚くほどに「いつも通り」で、ひどく飄々としている。けれどその微笑の底のなさが、今のカイゼルとヴァルディスには、どこか鏡の表面を撫でているような実体のない滑らかさに映っていた。
「……何か隠してるだろ。最近のお前、マジで掴みどころないっていうかさ。昔はもっと、ソレイア様のことになると必死だったじゃん」
カイゼルが不機嫌そうに机の端を叩く。
ソレイアの幸福こそが世界の正解だと信じて疑わない彼らにとって、レグナードの情熱がぼやけて見えることは、理解不能な「不気味さ」として胸に小さな棘を刺していた。
「そうかな? 僕は何も変わっていないよ。ただね、魔術の深淵を知れば知るほど、感情という熱量は不純物に見えてくるんだ」
レグナードは椅子に深く背を預け、他人事のように嘯く。その「不純物」を誰よりも嫌い、論理で世界を測る男──シリウスが、部屋の隅で静かに本を閉じた。
「『何も変わっていない』、ですか。それは観測者としての私への挑戦でしょうか、レグナード」
シリウスの冷徹な瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。
「ソレイア様の光は、今や王国のすべてを照らそうとしています。一方で貴方の魔力波形は、その光に同調することを拒むように、不自然なほど『夜』へと沈み込んでいる。貴方の視線の先にあるのは、本当に太陽の隣ですか?」
室内の温度が、一気に数度下がったような錯覚。
ヴァルディスは無言で剣を鞘に納めた。長年共に過ごしてきたが、今のレグナードから漂う凪のような、底なしの深淵を感じさせる空気が武人としての本能を逆撫でしていた。
「シリウス。深読みは良くないな。僕はただ、なるようにしかならないと、思っているだけ」
「……ならば、その隠し持っている『詩集』は、一体誰への期待の表れなのです?」
レグナードの指先が、わずかに震えた。
彼が自室でも肌身離さず持っているのはあの夜、ルナリアが返そうとした詩集だ。力を持つ者が孤独に執着するのを捨て、誰かの隣で笑うことを願った物語。
「……君には関係ないよ」
レグナードは採点ペンを置くと、椅子を引いて立ち上がった。一人称すら「僕」のまま。態度はどこまでも飄々としたまま。けれどその瞳の奥には、十七歳になった少女──王宮の離宮で、今も静かな孤独を愛でているはずの『月』への、狂おしいほどの渇望が潜んでいた。
「少し風に当たってくるよ。採点の続きは、夜にでもやるかな」
レグナードが部屋を出た後、残された三人の間に重苦しい沈黙が流れた。
「……あいつ、何なんだ。笑ってるのに、全然笑ってないみたいで……」
カイゼルが吐き捨てるように呟く。ヴァルディスは何も言わなかったが、その拳は固く握りしめられていた。
シリウスだけが、手帳に新たな観測記録を刻みつける。
『太陽を向くはずの向日葵が、月影の静寂に魂を売り渡そうとしている。この狂いは、速やかに修正されねばならない』
十七歳の春を迎えた双子の王女。
完璧だったはずの未来図は、レグナードの変節という一滴のインクによって黒く、修復不可能なほどに滲み始めていた。




