月がのぼる図書室
夜の図書室は、月明かりが書架の隙間から差し込み、銀色の迷宮のようだった。
ルナリアは、胸に一冊の詩集を抱いて足を進める。あの日、レグナードがすすめてくれた一冊。温室で救われた際のお礼を直接伝える勇気はなかったが、せめて「ゆっくり読んでいくといい」という彼の言葉への誠実な答えとして、この本を元の場所へ戻しておこうと思ったのだ。
しかし、一番奥の円卓の席に一人の影があった。
「……あ」
ルナリアは息を呑んだ。
そこには、宮廷内貸出厳禁の印が押された重厚な魔術書を開き、頬杖をついているレグナードがいた。
驚きのあまり足が止まる。彼は学院にいるはずではなかったのか。ルナリアは慌てて踵を返し、その場を立ち去ろうとした。
「……逃げなくてもいいのに。僕は、君を追い出すためにここにいるわけではないよ」
低く、どこか楽しげな声が静寂を震わせた。ルナリアが恐る恐る振り返ると、レグナードが月の光を背負ってこちらを見つめていた。
「ルナリア様。せっかくですから、少しお話をしましょうか。そこ、座って」
ルナリアは困惑しつつも、その抗いがたい誘いに抗えず小さく頷いた。促されるまま、彼の一つ斜め対面側の椅子に、壊れ物を扱うように腰を下ろす。
「その様子だと、詩集は読み終えたようだね」
「はい……とても、美しい言葉ばかりでした。あの、レグナード様。先日は、温室で……その、ありがとうございました」
「いいですよ、あんなこと。それより……君は図書室に籠もってばかりだと聞いたけれど、普段はどんなものを読んでいるのかな?」
レグナードの問いかけに対し、ルナリアは緊張しながらも、自分が読み込んしてきた理論書の内容を少しずつ話し始めた。レグナードは最初、いつものように穏やかに相槌を打っていたが、ルナリアが多層魔法陣の展開における構成順序の矛盾について私見を述べた瞬間、彼の瞳の色が変わった。
「……面白い。では、この術式の記述はどう見る? 二節目の詠唱破棄を行うと、術式の安定性が損なわれるのが定説だけど」
ソレイアなら「難しいわ!」と笑って切り捨てるような、血の通わない理論。
レグナードは魔術書をルナリアの方へ押しやった。ルナリアはそれを熟読し、自分なりの論理を構築していく。魔力を持たぬ彼女には、魔法が放つ熱も、彼が纏う闇の魔圧も感じ取ることはできない。ただ、目の前の紙面に並ぶ「理」だけを見つめていた。
「破棄するのではなく、あえて余剰魔力を放熱させる回路を組み込めば、安定性は維持できるはずですわ」
ルナリアは少し考え、言葉を選びながら答えた。
読書しかすることがなかった十数年。彼女はこの図書室にあるあらゆる魔術理論書を、血肉にするまで読み込んでいたのだ。
「ははっ、なるほどね。放熱か……その発想はなかったな」
いつの間にか、レグナードの口調から余所余所しさが消えていた。彼はさらに踏み込み、多層魔法陣の展開における構成順序の矛盾について問いを投げた。
「それは、起点の術式を鏡像で展開すれば、第三層以降の反動を相殺できるのではないか……と、私は思いました。理論上の話ですが」
会話が進むにつれ、ルナリアの瞳には知的な熱が宿り、魔術談義は深まっていく。レグナードの鋭い問いに対し、彼女は熟考し、自分なりの論理で答えを導き出す。その姿は、魔力を持たぬ「欠陥品」などではなく、真理を探求する一人の賢者のようだった。
レグナードは、内心で舌を巻いていた。
最初は、ただのからかい半分だった。学院の生徒ですら悲鳴を上げるような小難しい理論をふれば、彼女が困った顔をして会話が終わるだろうと思っていたのだ。
(……驚いたな。講師としての視点で見ても、文句のつけようがない。いや、それどころか……)
ルナリアの回答には、実戦を知らぬ者特有の脆さはあっても、本質を射抜く鋭さがあった。これほどの理解力と洞察力があるのなら、もし彼女に一滴でも魔力があったなら、歴史に名を残す大魔導師になっていただろう。
「……勿体ないね。本当なら、僕の教壇の特等席に座らせてあげたいくらいだ」
不意に零れた本音。自分でも驚くほど自然に「僕」という仮面の下にある素の言葉が漏れていた。ルナリアは不思議そうに小首を傾げる。彼女には、今の言葉に含まれた自分の熱量さえ伝わっていない。それがどこか、もどかしかった。
レグナードは誤魔化すように、彼女の傍らに置かれた詩集に目を向けた。それは規格外の強大な魔力を持ち、それゆえに周囲から疎外された魔術師が、旅の中で自分の居場所を見つけていく過程を綴った古い詩集だ。
「その詩集の感想を、聞かせてもらえるかな。その魔術師は、最後に『力こそが自分を孤独にしたが、力こそが自分を救った』と結論づけている。君はどう思った?」
レグナード自身、その結論こそが魔術師の真理だと思っていた。孤独は力への対価であり、それを受け入れるしかない。
しかし、ルナリアは静かに首を振った。
「私は……。彼は最後、救われたのではなく、『諦めた』のだと感じました」
「諦めた?」
「ええ。力で周囲を黙らせることを、救いと呼ぶのは悲しい気がします。彼は旅の途中で、魔力を持たない村人とパンを分け合いました。その時、彼は初めて『ただの人』として笑ったはずです。もし彼が、最後に捨てたのが力ではなく、その『孤独への執着』であったなら……彼は独りではなく、誰かの隣で詩を書けたのではないでしょうか」
レグナードは絶句した。
魔法侯爵家の嫡男として、強大な魔力ゆえの孤独を「高貴な義務」としてきた自分の価値観が、魔力を持たぬ少女のたった数行の言葉で鮮やかに否定された。
彼女が言っているのは、強者の傲慢でも弱者の僻みでもない。もっと根源的な、魂の「在り方」についての指摘だった。
「……君は、面白いな。ルナリア様」
レグナードは、自分でも驚くほど穏やかな、そして熱を帯びた声で言った。
月明かりの下、対面に座る少女。
ソレイアの王婿として生きる未来を、当然の義務として受け入れていたレグナードの心に、この図書室の静寂だけが知る「未知の引力」が、確かに芽生え始めていた。




