陰り始めた太陽の傲慢、月の孤独
王立魔法学院の講師控室。レグナードは羊皮紙に記された術式を眺めながら、隣で繰り広げられる会話に神経を尖らせていた。
「ええ、もちろん行ったことがあるわ! あそこはルナがいつも行く温室でしょう? 殺風景だし、お花も咲いていないから……ルナが寂しくないように、あそこで魔法の練習をしていたの。私の光で、少しでもあの子の心が明るくなればいいなって思って!」
ソレイアの声は、一点の曇りもない純粋な響きを湛えていた。
シリウスは慇懃に一礼し、それ以上追及することなくレグナードの方へ視線を投げた。
「……なるほど。やはり、ソレイア様の御業でしたか。私の観測が『太陽の気まぐれ』を捉えきれていなかったようです」
シリウスは納得したふりをして去っていったが、レグナードの胸中には、澱のように重い違和感が沈殿していた。
(……ソレイア様が温室へ行っているのは事実だろう。けどあの『月の光草』の再生は、そんな単純な理論では説明がつかない)
レグナードは、代々『魔法侯爵』と謳われる家門で、幼少期からありとあらゆる術式を叩き込まれてきた。
光属性の治癒魔法は、あくまで対象の細胞活性を爆発的に高めることで傷を塞ぐものだ。しかし、あの温室に咲いていた花は細胞の活性化どころか、原子レベルでの『時間の巻き戻し』に近い完全な復元を遂げていた。
(魔力の残滓がない……。それは、光属性についても言えることなんだよな)
通常、ソレイア様のような高密度の光属性使いが魔法を行使すれば、その場には数時間『光子残渣』が滞留する。魔力の乱反射が発生し、空気は微かに熱を帯びるはずだ。だがあの時の温室には、一切の魔力的ノイズがなかった。そこにあったのは、すべてのエネルギーを無に帰すような、絶対的な『聖なる静寂』。
「ねえ、レグナード様? 私、ルナのために頑張って正解だったわよね? 私の光が、あの子の役に立てたんだわ!」
ソレイアが瞳を輝かせて覗き込んでくる。
いつもなら、彼は「その通りですよ」と、彼女の望む肯定の言葉を柔らかな微笑みと共に差し出すはずだった。だが今の彼にとって、その眩しさはひどく不快な「ノイズ」にしか感じられない。
「……そうだね。君の光は、いつも眩しすぎるよ」
レグナードは手元のペンを置き、視線を上げずに答えた。語尾は穏やかだが、そこには皮肉めいた冷たさが混じる。
「レグナード様……?」
「ソレイア様。一つ聞いていいかな。君はどの術式を用いたんだい? 『輝光治癒』か、それとも広域展開の『聖光抱擁』かな」
「え……? そんな難しいこと言われても……。私、ただルナを愛してあげたくて、一生懸命祈っただけだわ! 私の愛があのお花に届いたのよ」
レグナードは内心で舌打ちをした。
魔術の定義を「愛」や「祈り」という曖昧な概念で塗り潰す。その無垢な傲慢さが、これほどまでに鼻についたことはなかった。彼女が「愛してあげた」と口にするたび、王宮の隅で息を潜めるルナリアの、あの透明な瞳が脳裏をかすめる。
(ソレイア様が魔法を使ったのなら、あの日、俺を救ったのも……)
十年前。魔力暴走という絶望の淵にいた自分を抱きしめた、あの腕。今、目の前で無邪気に笑うソレイアから感じる光は、あまりにもギラついていて、あの時の「深い静寂」とは性質が異なりすぎている。
「レグナード様、どうしてそんなに怖い顔をなさるの? もしかして、ルナが何か失礼なことでもしたのかしら? 私、あの子にちゃんと言っておきますわ。レグナード様を困らせてはだめよって」
「……もういいよ、ソレイア様。講義の準備があるんだ。席を外してもいいかな」
レグナードは立ち上がり、椅子を引いた。その際、無意識に漏れ出た魔圧が、控室の空気を一瞬で氷点下まで引き下げた。
「レグナード様……っ」
背後にソレイアの戸惑う気配を感じながら、レグナードは廊下を足早に進む。
太陽の光が強ければ強いほど、影は色濃く沈む。
そして今のレグナードは、救いようのないほどに、その深い夜を求めていた。
◆
学院から帰還したソレイアの足取りは、いつになく乱れていた。豪奢なドレスを翻し彼女が向かったのは、王宮の最も端にある陽当たりの悪い北西の離宮。そこには魔力を持たず、王家の「恥」として隠されるように暮らす双子の妹、ルナリアの部屋がある。
「──って言うのよ! ひどいと思わない、ルナ? まだ勉強し始めたばかりの私に術式がどうだとか、専門的な難しいことばかり並べて……。私、あんなに一生懸命ルナのことをお話ししたのに!」
ルナリアの狭い居間に座るなり、ソレイアはぷくっと頬を膨らませていじけてみせた。
机の上には、ソフィアが用意した慎ましい茶菓子と紅茶。それらはソレイアが学院で口にする最高級のものとは比べるべくもないが、彼女はそんな格差にすら気づく様子はない。
「……ええ、そうね。レグナード様は、とても真面目な方だから……」
ルナリアは伏せ目がちに、優しく相槌を打つ。
先日、図書室や温室で見せたレグナードの「別の顔」が脳裏をよぎるが、それを姉に語る術を彼女は持たなかった。
「そうなの! 真面目すぎるのよ。それに最近のレグナード様ったら、なんだかそっけなくなった気がするわ」
「そっけなく?」
「ええ。今までのレグナード様だったら、何をしていても私を最優先してくれたのに。最近は、講義の準備だとか考え事ばかりで、ちっとも相手をしてくれないの。私の顔を見ていても、どこか遠くを眺めているみたいで……」
ソレイアは不満げにティーカップを弄ぶ。
次期女王である彼女にとって、王婿候補筆頭であるレグナードの関心が自分以外に向くことは、世界の理が歪むのと同義だった。
「魔導師のお仕事や、講師のお仕事でお忙しいのではないかしら? 彼は魔法侯爵家の爵位を弟君に譲ってまで、貴女の傍を支える決意をなさった方ですもの。背負うものも多いのだと思うわ」
そう、レグナードはソレイアの王婿になるため、本来継ぐはずだった魔法侯爵の地位を捨て、王家に入る準備を進めている。彼が「僕」という一人称を使いソレイアに献身するのは、その覚悟の表れなのだ。
「それはわかっているつもりよ。でも、もう少し私をかまってくれてもいいと思わない? だって、私とレグナード様は将来結婚して、夫婦になるんですもの。今のうちに二人の時間を大切にするのが、本当の『愛』でしょう?」
当然の権利のように語られる「愛」。
「結婚」「夫婦」「将来」──その輝かしい言葉の一つひとつが、ルナリアの胸に冷たい楔となって打ち込まれる。魔力がないがゆえに婚姻の権利すら危うく、誰かに愛される未来を描くことすら許されないルナリアにとって、姉の悩みは贅沢を通り越した「暴力」だった。
「……そうね。でも、これから先、ずっと一緒なんだもの。きっと大丈夫よ」
ルナリアは、ひび割れそうな心を必死に繋ぎ止めて微笑んだ。自分を救ったかもしれない「あの記憶」にいる男が、今、目の前でいじけている姉の王婿候補であるという現実。その温度差に、ルナリアの指先は白く凍えていく。
「それもそっか! さすがルナ、話を聞いてもらったらスッキリしちゃったわ。ありがとう!」
ソレイアはパッと顔を輝かせ、妹の手を両手で包み込んだ。温かく、魔力に満ち溢れた太陽の手。それとは対照的に、冷たく枯れ果てた自分の手。
「またお話聞いてね! 次はルナも幸せになるような、もっと素敵なお話を聞かせてあげるわね。お父様に頼んで、ルナにも何か小さな公務を分けてもらうとか……。次は、ルナがずっとお部屋にいても退屈しないような、魔法の絵本でも持ってきてあげるわ!」
ソレイアの瞳に宿るのは、一点の曇りもない慈愛だ。「可哀想な妹を、幸せな私が救ってあげる」というその構図が、どれほど無残に自尊心を削り取っているか、太陽の乙女は永遠に理解することはない。
「……楽しみに待ってるわ」
絞り出すようなルナリアの声に、ソレイアは満足げに頷くと、嵐のように去っていった。
扉が閉まった後の静寂が戻った部屋で、ルナリアは姉が飲み残したカップを見つめる。ソレイアの光に当てられた部屋は、ひどく寒々としていた。
「ルナリア様……」
控えていたソフィアが痛ましげに歩み寄るが、ルナリアはただ静かに首を振った。
太陽は影があるからこそ輝きが増し、月は太陽があるからこそ存在を許される。その残酷な共依存の中で、ルナリアの孤独は誰にも気づかれぬまま深く、静かにその輪郭を研ぎ澄ませていった。




