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小さな奇跡と太陽の不穏

図書室から自室へと戻ったルナリアは、扉を閉めるなり崩れ落ちるように椅子に身を預けた。

胸の高鳴りが、いつまでも静まらない。レグナードの長い指が髪に触れそうになったときの熱、そして至近距離で見つめられたあの射抜くような氷の瞳。


(……自惚れてはだめ。私に魔力がないから、ただ珍しがられただけだわ。珍獣を眺めるような、そんな好奇心に違いないわ)


ルナリアは震える手で日記帳を開き、今日の出来事を書き留めようとした。けれど、ペン先が紙の上で泳いでしまう。


『レグナード様とお会いした。彼は、図書室が似合うと言って本を取ってくれた。けれどそれはきっと、陽の当たる場所へは出てくるなという彼なりの忠告。私のような空っぽの器に、彼が何かを感じるはずがない。わかっているのに、胸が痛いのはどうして?』


そう綴った瞬間、視界がじんわりと滲んだ。

あんなに切なそうな目で見つめられても、自分はソレイアの「予備」ですらない欠陥品なのだという事実が、鉛のように重くのしかかる。


「ルナリア様……。そんなに悲しいお顔をなさらないでください」


背後からソフィアが静かに、それでいて強い意志を込めた声で語りかけてきた。彼女はルナリアの側に膝をつき、冷たくなったその手を包み込む。


「私にはわかります。あのレグナード様が、ルナリア様に向ける目は、他の誰に向けるものとも違いました。あの方は、ルナリア様の『何か』に……理屈を超えた部分で惹かれていらっしゃいます」


「……そんなことないわ、ソフィア。私には魔力がないの。この国で魔力がないということは、存在しないのと同じなのよ。レグナード様のような高潔な魔導師様が、私のような影に構う理由なんて……」


「それでも私は知っております。ルナリア様がどれほどお優しく、気高く、そして──美しいかということを」


ソフィアは泣き出しそうな顔を伏せながらも、ルナリアの手を離さなかった。没落した自分を救ってくれたこの温かい手。魔力という数値では測れない「何か」が、確かにルナリアには宿っているのだと、ソフィアは命をかけて信じている。


「少し、お疲れなのです。温かいお茶をお持ちしますね。お庭で摘んだハーブを、少しだけ寝かせておいたのです」


ソフィアは立ち上がり、棚から小さなティーポットを取り出した。だがそのポットの隅には、使い込まれたがゆえの小さな「欠け」があった。王宮の隅で冷遇される二人の境遇を象徴するような、古びた茶器。

ソフィアが背を向けて準備をしている間、ルナリアは悲しみを堪えるように、無意識にそのティーポットの欠けた部分を指先でそっとなぞった。


(ごめんね、こんなに欠けちゃって……。私のせいで、あなたまで惨めな思いをさせて……。せめて、元通りになれたらいいのに)


心からの謝罪と、慈しみを込めた「祈り」。

その瞬間、目に見えないほど淡く、透き通った光が染み出した。それは魔力の残香すら伴わない、絶対的な静寂の奇跡。


「お待たせいたしました、ルナリア様……あ……?」


茶葉の用意を終えたソフィアが振り向き、息を呑んだ。

ルナリアが触れていたティーポット。

そこにあったはずの「欠け」が、跡形もなく消えていたのだ。それだけではない。使い込まれてくすんでいた磁器の表面が、まるで今朝焼き上がったばかりの逸品のように、滑らかな白磁の輝きを取り戻している。


「ソフィア? どうしたの?」


ルナリアは不思議そうに小首を傾げた。彼女には、自分の手が何をしたのか全く自覚がない。

ソフィアは震える指先でポットを受け取り、涙をこぼさないよう必死で唇を噛んだ。


「いえ……何でもありません。ただ少しだけ、月明かりが綺麗に見えたものですから」


ルナリアは、またしても奇跡を起こした。形あるものの傷を癒やし、本質を取り戻させる神の如き力。

ソフィアは決意を新たにする。この力がもし世に知られれば、ルナリアは王国の都合の良い「道具」にされてしまう。あるいは、ソレイアの光を脅かす存在として排除されるかもしれない。


(私が……私だけがこの奇跡を、ルナリア様の真実を守り抜きます。たとえ世界中の誰もが、ルナリア様を無価値だと言おうとも)


ソフィアが淹れたハーブティーはかつてないほどに深く、甘やかな香りを部屋中に漂わせていた。ルナリアはそれを一口飲み、「美味しいわ」と少しだけ微笑む。

その小さな笑顔を守るためなら、ソフィアは地獄にだって落ちてみせる。

 

そんな主従の静かな決意を余所に、王宮の天塔ではシリウスが不気味なほどに静止した星術盤を見つめていた。


「……観測史上、類を見ない『静寂』の波。中心点は……やはり、あの王女の部屋ですか」


理の観測者がいよいよ獲物を特定するように、冷たく口角を上げた。



王立魔法学院の学び舎は、今日もソレイアを中心に回っていた。彼女が中庭を歩けば学生たちは憧憬の眼差しで道を開け、光を宿した黄金の髪が揺れるたび、周囲には祝福のような輝きが満ちる。


「ソレイア様、次の演習のパートナーをお願いしてもよろしいですか?」


「ええ、喜んで! 私にできることなら何でも言ってね。みんなで一緒に頑張りましょう」


ソレイアは曇りのない笑顔で答える。彼女の言葉には裏も表もない。自分が恵まれている自覚はあっても、それを鼻にかけるのではなく、「恵まれているからこそ、みんなに分け与えたい」と本気で願っている。

そんな彼女にとって隣に立つレグナードは、自分と同じ「光の側に立つ」半身のような存在だった。

十年前のあの日。庭園の隅で魔力暴走を起こしていた彼に、幼い自分が迷わず光を注いだ。あの時から、レグナードが自分にだけ向けてくれる特別な眼差しは、ソレイアにとって「善い行いをした自分」への、神様からの贈り物のような気がしていた。


(レグナード様……。あの日以来、あの方を守れるのは私だけ。私たちが幸せになることが、一番の幸せなのよね)


だが最近のレグナードは、ふとした瞬間に視線が遠くなることがある。


「……レグナード様? さっきからペンが止まっていますわ。お疲れではありませんか?」


放課後の図書室。

並んで魔導書を開いていたソレイアが、心配そうに顔を覗き込む。レグナードは一瞬、弾かれたように顔を上げた。


「……失礼。少し、考え事をしていただけだよ」


レグナードはいつものように飄々と微笑んでみせるが、その瞳はソレイアの光属性の魔力ではなく、窓の外の静まり返った王宮の空を映しているように見えた。

ソレイアは小さく唇を尖らせて、けれどすぐに慈愛に満ちた表情で言った。


「レグナード様……もしかして、ルナのこと心配していらっしゃいますの?」


ソレイアは、本当に心を痛めているような顔で首を振る。


「あの子、魔力がないから学院に来られないでしょう? きっと寂しくて、誰にも必要とされないって思い詰めちゃっているんだわ。本当に可哀想……。あの子のためにも私がもっと頑張って、あの子の分までお父様やお母様を喜ばせてあげなきゃ。私だけは、ルナのこと世界で一番愛してあげたいんですの」


ソレイアの言葉に、一点の澱みもない。

「愛してあげたい」という言葉の裏に、無意識のうちにルナリアを自分より低い、保護されるべき「可哀想な対象」として固定している残酷さに、彼女は全く気づいていなかった。


「……ルナリア様を、愛してあげる……か」


レグナードの呟きは、いつもの肯定ではなかった。どこか突き放したような、氷の冷たさを孕んだ響き。

その時──ソレイアの掌で灯っていた読書用の光が、ふっと瞬きするように翳った。


(え……?)


自分の魔力が揺らいだ。そんなはずはない。

その瞬間、ソレイアは確かに感じた。王宮の遠い彼方、ルナリアがいるはずの方向から、自分の「光」が届かないほどの、絶対的な静寂が押し寄せてくるのを。


「レグナード様、今、何か……」


「……いや、何もないよ。少し、風が冷たかっただけだろう」


レグナードはそう言って席を立ったが、彼の手が微かに震えているのをソレイアは見逃さなかった。

彼が見ているのは、自分ではない。

ソレイアは、不安を打ち消すように胸元で手を組んだ。


(大丈夫。あの子には何もないもの。私だけが、あの子を救えるの。レグナード様も、本当はそれを分かっているはずよ)


完璧な太陽姫である彼女の世界に生じた、小さな染み。

それを「善意」という名で塗り潰そうとするほどに、ソレイアの放つ光は周囲の空気をどこか息苦しく、不自然なほど明るく照らし始めていた。

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