太陽と魔導師そして月
王立魔法学院の学び舎は、常に刺激的な魔力の揺らぎに満ちている。若き魔導師たちの憧憬と畏怖を一身に集める講師レグナード・クローヴィスは、感情の機微を感じさせない涼やかな顔で教壇に立っていた。
「……はい、今日の講義はここまで。魔力の構成における『調和』を忘れないようにね。不純な感情は術式を濁らせるだけだから」
彼が書を置くと同時に、張り詰めていた教室の空気がふわりと緩む。レグナードにとって教えるという行為は、ソレイアを頂点とする王国の魔導水準を維持するためのルーチンに過ぎない。
そこへ、一人の少女が華やかに駆け寄ってきた。
「レグナード様、今日の講義も素晴らしかったですわ!」
弾むような声の主は、第一王女ソレイアだった。
彼女が微笑むだけで教室内の光属性が共鳴し、空間が祝福されたように明るくなる。その後ろには、護衛兼剣術講師を務めるカイゼルとヴァルディスが、当然の権利のように控えていた。
「光栄ですよ、ソレイア様。おや、少し魔力の波動が昂っているようですが。あまりはしゃぎすぎると、術式の制御に障りますよ」
レグナードは努めて冷静に、けれど至極丁寧に問いかけた。ソレイアは嬉しそうに、自らの掌に柔らかな光を灯してみせる。
「学院の空気が私に合っているみたい。レグナード様に教えていただいた術式、さっそく試してみたくなりますわ」
ソレイアの眩い笑顔。それは十年前のあの日、魔力の奔流に焼かれていたレグナードを救い出した、唯一無二の希望の象徴だった。意識が混濁する地獄の中で自分を抱きしめ、嵐を鎮めてくれた小さな温もり。目覚めた時に自分を見つめていた、黄金の髪の少女。だからこそレグナードは、彼女をこの命に代えても守り抜くと決めている──それが「正解」だと信じて。
だがこうして彼女の側にいればいるほど、レグナードの胸の奥には、正体不明の「乾き」が広がっていく。
「相変わらず、彼女の前でだけは殊勝な態度ですね。見ていて感心しますよ、レグナード」
ふと、背後から慇懃な声がした。天文学の講師であるシリウス・アストレイドだ。彼は天球儀を弄びながら、レグナードの横を通り抜ける。
「……シリウスか。お前に言われる筋合いはないよ」
レグナードはソレイア以外には関心がない。突き放すような、どこか掴みどころのない穏やかな口調。シリウスはくすりと低く笑った。
「おや、冷たいですね。ですが、貴方の魔力の波形は、先程からソレイア様ではなく、別の方向に引かれている。……月の潮汐にでも、当てられましたか?」
シリウスの言葉は、氷のように冷たく鋭い。レグナードは表情を変えないまま、わずかに目を細めた。
「ふざけたことを言うね。僕が忠誠を誓うのは、この眩い光を放つソレイア様だけだ。実体のない影が、僕の心を揺らすことなんて、万に一つもあり得ないよ。……合理的じゃない」
「否定の言葉が饒舌なのは、不安の裏返しですよ。星の運行は、嘘をつきませんから」
シリウスはそれ以上追及せず、優雅に一礼して去っていった。
レグナードは、残されたソレイアの光の中にいながら無意識に遠い王宮の方向を振り返っていた。図書室が似合うと言って突き放したはずの、あの影のような王女。魔力を持たない彼女の姿を思い出すだけで、なぜかレグナードの魔導の理論は、根底から揺らぎそうになる。
(……僕は恩義を返さなければならない。この太陽を守り抜くことだけが、僕の生きる意味なんだから)
自分を縛るようにそう唱えても、レグナードの心には、消えることのない微かな「夜」が、引力のようにまとわりついて離れなかった。
◆
ソレイアたちが学院へ通い始めてから、数週間が経っていた。
広大な王宮は、かつてない静寂に包まれている。魔力を持たぬルナリアにとって、その静寂は皮肉にも一年で最も心が安らぐ時間となっていた。
「ルナリア様、こちらならどなたもいらっしゃいません。今日はゆっくり読書ができますね」
ソフィアが、慣れた手つきで図書室の重厚な扉を開ける。天井まで届く書架が迷宮のように並ぶこの場所は、魔導の研究者や一部の王族しか訪れない。魔力のないルナリアにとって、文字だけが詰まったこの静謐な空間は、唯一「欠陥品」であることを忘れさせてくれる避難所だった。
「ありがとう、ソフィア。少し、古い詩集でも探してみるわ」
ルナリアは、人の気配がない奥の書架へと足を進める。指先で背表紙をなぞりながら、彼女はあの日──ソレイアの祝宴の夜に日記へ綴った、レグナードの言葉を反芻していた。
『図書室の方がお似合いだ』
あの一言は、華やかな場所には来るなという拒絶だと分かっている。けれどこうして静寂の中に身を浸していると、その突き放すような声さえ、不思議と甘やかな痛みを伴って胸に響いた。
その時。
「……意外だね。本当に、僕の言った通りにしているなんて」
不意に頭上から降ってきた涼やかな声に、ルナリアの心臓が跳ねた。驚きのあまり手にしていた本を落としそうになり、慌てて振り返る。そこには、学院にいるはずのレグナードが書架に背を預けて立っていた。
「レ、レグナード様……っ。どうして、こちらに……」
「ちょっとした調べ物があってね。……でも、まさか本当にここで君に会うとは思わなかったよ」
レグナードは飄々とした足取りで歩み寄ってくると、ルナリアが手に取ろうとしていた古い革装本を、長い指で代わりに引き抜いた。
「図書室は君に似合うと言っただろう? あんな騒がしい場所に無理して馴染もうとするより、ずっと合理的だ。数週間経っても、律儀にその言葉を守っているのは君くらいだよ」
その言葉は冷たい宣告のようにも聞こえたが、今のルナリアにはなぜか、微かな熱を帯びているように感じられた。
レグナードの瞳が、至近距離で彼女を射抜く。
彼は、何かを確認しようとしているようだった。学院にいても拭えない、自分の魔力の奥底をざわつかせる「何か」の正体を。
「申し訳、ありません……。すぐに出て行きますわ。私のよう魔力のない者が、レグナード様の大切な研究の邪魔を……」
「邪魔だなんて、一言も言っていないよ」
レグナードは、ルナリアが避けるように逸らした視線を追うようにわずかに身を屈めた。彼の纏う魔力の香りが、ルナリアの鼻先をかすめる。それは清冽な氷のようでいて、どこかひどく懐かしい、深い静寂の匂いがした。
「君はいつもそうやって、自分を消そうとするんだね。不思議だよ。何もないはずなのに、どうして君の側にいるとこうも……ノイズが消えるんだろうね」
レグナードの手がふいにと伸び、ルナリアの頬にかかった一筋の髪に触れそうになった。
ルナリアは息を呑み、動けなくなる。
だがその指先が触れる直前で、レグナードはふっと我に返ったように手を引いた。
彼の瞳に、一瞬だけ剥き出しの困惑が混じる。
「……失礼。少し、疲れが溜まっているのかもしれないな。僕らしくない」
彼は再びいつものクールな笑みを浮かべ、手に持った本をルナリアに手渡した。
「それは良い詩集だ。君によく似合っているよ。ゆっくり読んでいくといい」
それだけ言い残すと、レグナードは一度も振り返ることなく、風のように図書室を去っていった。
残されたルナリアは、熱を持った頬を両手で押さえ、ただ立ち尽くしていた。背後で、ソフィアが心配そうに「ルナリア様……」と声をかけるが、ルナリアの耳には届かない。
(あんなに冷たい方なのに……どうして、あんなに切なそうな目をなさるの……?)
レグナードが去った後の静寂の中で、ルナリアは彼から手渡された詩集を、壊れ物を扱うようにぎゅっと胸に抱きしめた。




