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欠けた月

離宮のバルコニーでルナリアが静かに膝をつき、神への祈りを捧げ始めていた、まさにその時刻。シリウスから差し出された2冊の本。


「……これは?」


「何の変哲もない、子供向けのお伽噺です」


レグナードの視線が、無言で続きを促す。


「ただ……、少しばかり気になる記述があって」


「ふぅん……」


吐き捨てるように応じると、レグナードは苛立ちを隠さぬ手つきでパラパラと絵本を捲った。内容は至って平易なものだ。病気がちの母親を持つ貧しい少女が、逆境にもめげずに善行を積む。その清廉さに神が感じ入り、少女の願いを聞き入れる。母親の病は完治し、二人は末永く幸せに暮らしました──。「善い子は神が見守ってくださる」という、手垢のついた教育的寓話。


「……レグナード、こちらの『神話』と照らし合わせてみてください」


シリウスが指差した箇所は、隣国の『神話』の一節だった。


「『──神は気まぐれな存在であり、好ましい魂の形を見出した折、稀に天からの恩寵(ギフト)を与えることがある……』──は?」


読み進める途中で、レグナードが呆然とした声を漏らした。


「あくまで神話……創作の類ですから……」


シリウスの困惑を無視し、レグナードは唐突に窓を開け放った。刹那、薄暗い夜空から真っ白な雪が舞い降りてきた。


「は……?」


その光景に、二人とも等しく硬直した。季節は初夏の入り口。あり得べからざる白銀の粒が、音もなく世界を塗り替えていく。


「……驚いたな。魔術の徴候が全く見当たらない」


「自然界の『理』による反動でしょうか」


レグナードは応えず、ただ目を閉じて思考の海に沈んだ。壁にかかった時計が刻む秒針の音だけが、不気味なほど鮮明に響く。やがて目を開けたレグナードは、おもむろに『神話』へと手を伸ばした。細く長い指で目次をなぞり、ある一頁を捲る。

そこを走っていた指先が、ぴたりと止まった。


「『──神々は、気に入った魂の祈りを気まぐれに叶えることがある。だがその等価交換は、祈りの強さによって決定される──』」


レグナードがその一節を低く読み上げた、その時だった。バタバタと騒がしい足音が静寂を切り裂き、図書室へと駆け込んできた。


「ソレイア様が! 至急お越しください!」


焦燥に駆られた伝令の声。レグナードとシリウスは顔を見合わせ、弾かれたようにソレイアの寝所へと向かった。

外は一面の雪。

朝日が昇る直前の白銀に凍てつく世界。

誰もが見守る中、ソレイアはぱちりと瞼を持ち上げた。窓から差し込む朝の光が、雪の照り返しを受けて部屋中を眩いほどに白く染め上げる。


「……おはよう、お父様、お母様」


医師の診断は、ただ『奇跡』の一言に尽きた。修復された魔力の核。彼女の魔力は以前と変わらぬ輝きを放っている。王と王妃の歓喜の声が部屋に満ち溢れる。

ソレイアの目覚めと呼応するように、窓外の雪はみるみると溶け、世界は元の色彩を取り戻していった。まるで最初から何もなかったかのように。だがその喧騒の只中で、レグナードだけは冷や水を浴びせられたような戦慄に囚われていた。


(……いない)


ルナリアの姿が、どこにも見当たらない。

この場にいる誰もがソレイアの生還に目を奪われ、もう一人が欠けていることに気づいていない。

どくん、と心臓がひどく不快な音を立てた。抑えきれぬ胸騒ぎに突き動かされ、レグナードは喧騒の輪を抜け出した。足は自然と離宮へ向き、歩速は次第に早まり、ルナリアの居室が見える頃にはなりふり構わぬ全力疾走に変わっていた。

僅かに開いた扉の隙間。

そこから滑り込んだレグナードの視界に入ったのは、ルナリアの侍女ソフィアの姿だった。彼女は激しく火をくべた暖炉の中に、今まさにある物を投げ入れたところだった。


「……やめろ!」


本能が叫んでいた。レグナードは燃え盛る火の中へと素手を突っ込み、それを強引に拾い上げた。熱が皮膚を焼き、焦げる匂いが鼻をつく。だが、痛みなど微塵も感じなかった。


「……これは?」


煤け、焼け焦げたそれは一冊の冊子だった。


「さあ……何だと思われますか?」


ソフィアとレグナードの間に、重苦しい沈黙が沈殿する。暖炉の火が爆ぜ、パチパチという無機質な音だけが響く。やがて、ソフィアが呻くように口を開いた。


「今さら……なんですよ。全て」


レグナードの眉が微かに、けれど鋭く動く。


「……は?」


「魔力量だとか、属性だとか……。そんな、下らないもののために……っ」


ソフィアの瞳から、耐えきれぬように大粒の涙が零れ落ちた。

レグナードは低く、地這うような声で畳みかける。


「もう一度聞く。これは、何だ」


射抜くような彼の視線。ソフィアは深く息を吐き出すと、一度だけ天を仰いだ。それから、逃げることなく真っ直ぐにレグナードを見据えて告げた。


「心です」


レグナードの瞳が、僅かに細まった。


「姫様の……、ルナリア様の心です」


暖炉の火が小さく揺れた。

レグナードの手の中に残されたその冊子には、彼が守りたかった唯一が無理解によって追い詰められ、捧げられた魂の形が……消えぬ想いと共に刻まれていた。

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