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白銀の殉教

図書室の空気は古書特有の乾いた匂いと、逃げ場のない焦燥に満ちていた。窓外に広がる夜空には、不気味なほどに真円に近い満月が浮かんでいる。ソレイアの命の灯火が消えかかるタイムリミットまで、あと数時間。

シリウスは積まれた文献の山から顔を上げ、窓際で椅子の背もたれに深く身を預けている男を盗み見た。

レグナード・クローヴィス。

かつては、第一王女ソレイアという「太陽」を隣で支えることに一点の疑いも持たず、ある種の盲目的なフィルターを通して彼女を全肯定していた男だ。だが今の彼の瞳に宿っているのは、ソレイアへの執着ではない。


「……さすがの貴方でも、お手上げですか?」


シリウスが問いかけると、レグナードは天を仰いだまま、喉の奥で「んー……」と曖昧に応えた。その無防備な姿に、シリウスは疲れの色が隠せない自らの顔を歪める。


「レグナード」


「なに?」


「南方のカルディアで受け取った、あの使い魔の警告……。あれは、お前の理論ではないな?」


言い淀むシリウスに、レグナードはゆっくりと視線を合わせた。頬杖をつき、長い足を組み替えるその動作には、いつもの飄々とした余裕が漂っている。だが、口から出たのは毒を含んだ皮肉だった。


「いつも『不備』だとバカにしていた、魔力のないあの子に超えられた今、どんな気持ちだい? シリウス」


シリウスは言葉を詰まらせ、思わず彼を睨みつけた。

天才であるがゆえに孤独で、何事にも、そして誰に対しても素直に称賛を送ることなどなかった幼馴染。それが今、これほどまでに真っ直ぐ一人の少女を肯定している。


「優秀な子だよ、あの子は……」


レグナードのその言葉に、シリウスは内心の驚きを隠せなかった。あんなにもソレイアに心酔していた男が、今は別の「理」に魅せられている。


「だからこそ、守ってあげなきゃいけない。あの子はこの国に必要だ。失うことがあれば、この国は必ず崩壊に向かうだろう」


「……それは、公としての判断ですか? それとも、貴方自身の想い……どちらですか?」


シリウスの問いに、レグナードは窓の外の月を見つめたまま微かな、けれど確信に満ちた微笑を向けた。


「さあ? どっちでもいいよ。あの子が、僕の傍にいてくれるならね」


その独占欲にも似た執着に、シリウスは形容しがたい不安を覚えた。彼は震える手で、あらかじめ用意していた二冊の書籍を差し出した。一冊は、民の子供たちが読むような古びた『絵本』。もう一冊は、隣国の言葉で綴られた『神話』だ。


「これは?」


シリウスの言葉が濁る。

そしてこれが、後の悲劇への伏線になるとはこの時の彼はまだ認めたくなかった。



王宮の静寂は、今のルナリアにとって耐え難いものだった。

ソレイアが倒れてから彼女は部屋で、あるいは姉の寝所の前でひたすら祈り続けてきた。


(お姉様が死にませんように。お姉様が治りますように……)


憔悴しきった両親の姿。目に見えて衰弱していくレグナード。彼らが眉間を揉み、吐き出す溜め息の一つ一つがルナリアの胸を締め付けた。

さらに追い打ちをかけるのは、城内の影から聞こえてくる「悪意なき善意からの言葉」だった。


「なぜ、よりによってソレイア様が……」


「妹姫様と立場が反対であったなら、国はこれほど混乱しなかったものを」


彼らはルナリアを傷つけるつもりなどない。ただ、国の希望であるソレイアを惜しんでいるだけだ。けれどその純粋な言葉こそが、ルナリアの心を鋭く削り取っていく。

誰にも見つからないよう、夜の静寂を縫ってソレイアの寝室を訪れたルナリアは、冷たくなった姉の手を握りしめ言葉を零した。


「ごめんね。妹なのに……何もできなくて。お姉様には、幸せになってほしかったのに」


無力感に沈む日々。

ルナリアはふと、自室の隅で足を止めた。

部屋に飾られた花々が、何週間経っても一向に枯れる気配がない。水さえ替えていないのにそれらは枯れるどころか、まるで今朝摘んできたかのように瑞々しく咲き誇っている。


「これも……これも……全部……」


ルナリアが震える手で花に触れる。

怪我をした鳥が、青空へ飛び立って行ったあの日の記憶が蘇った。


「……すべて、ルナリア様のご慈悲のおかげですよ」


背後で控えていた侍女のソフィアが、静かに告げた。


「貴女様の『祈り』が、形となって満ちているのです。魔力とは違う、もっと根源的な……命そのものを繋ぎ止める力が」


ルナリアは大きく深呼吸をした。

魔力がないからと疎まれ、離宮に押し込められてきた十七年間。けれどその空白を埋めるように自分の中に満ちていたのは、名もなきものを慈しむ「祈り」だった。


(これはきっと、神様が与えてくれたギフト。これが、私の生まれた意味……)


タイムリミットが迫る満月の夜。

ルナリアは再びソレイアの元へ向かい、その手を強く握った。


「お姉様を目覚めさせる方法が、わかったの」


その表情は悲壮感ではなく、愛する人を救える歓喜に満ちていた。


「いつも優しくしてくれて、ありがとう。お姉様の妹にしてくれて、ありがとう……。そしてあの人に……レグナード様に出会わせてくれて、ありがとう」


最後の別れを告げるように、彼女は姉の額に口づけをした。


「また会おうね。大好きだよ……ソル」


自室へ戻る途中、ルナリアは図書室の扉が僅かに開いているのに気づいた。漏れ聞こえてきたのは、聞き間違えるはずのない彼の声だった。


『──優秀な子だよ、あの子は。……だからこそ守ってあげなきゃいけない。あの子はこの国に必要だ』


レグナードの、切なげでけれど熱を帯びた声。


『あの子が僕の傍にいてくれるなら、どちらでもいい』


それを聞いた瞬間、ルナリアの決意は鋼のように固まった。レグナードがこれほどまでに誰かを求めている。その対象は、当然光り輝く姉であるはずだと。


(レグナード様……。貴方の最愛の人を救い、貴方に笑顔が戻るなら……私の命は少しも惜しくありません)


部屋に戻ったルナリアは、バルコニーの両開きの扉を押し開けた。

吹き込んできた風が、彼女の長い髪を靡かせる。

夜空には、一点の欠けもない満月がぽっかりと浮かんでいた。

ルナリアは冷たい石の床に膝をつき、胸の前で強く手を合わせた。彼女は自分の力が何であるかを知らない。ただ、ソフィアの言った「祈り」だけを信じ、神へとすべてを捧げる。


「私の命をすべて差し上げます。ですから、どうかお姉様を……大好きなあの人の悲しみを取り除いてください……」


魂を削り、一滴残らず命を解き放つ祈り。

生きとし生けるものの幸福と、愛する者たちの笑顔。

そして、何よりもレグナードの幸せを願いながら。

その瞬間、天から真っ白な雪が舞い落ちた。初夏の入り口に降るはずのない、美しくも残酷な季節外れの雪。それはルナリアの無垢な祈りが、ついに神へと届いた証だった。


翌朝。

「奇跡だ!」という叫び声と共に、ソレイアはぱちりと目を覚ました。失われたはずの『核』は完璧に修復され、以前と変わらぬ魔力を宿して。

しかしその歓喜の裏側で、もう一人の姫はたった一人の侍女に見守られ、微笑みを湛えたまま二度と明けることのない深い眠りについていた。

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