太陽の落日、月の残響
南方の要衝、カルディア地方。かつて緑豊かだった大地は、今や見る影もなく赤茶け、ひび割れた土からは陽炎が立ち上っていた。
シリウスは臨時の魔導陣を構築しながら、拭っても止まらぬ汗とともに、拭い去れない違和感を抱いていた。
(……おかしい。術式へのマナの流入が、極端に細い。まるで真空に指を伸ばしているようだ)
展開した魔導幾何学は完璧なはずだった。だがどれほど緻密な魔導回路を編み上げても、空間そのものに「応答」がない。
その傍らで、ソレイアは悲痛な面持ちで街の惨状を見つめていた。干上がった水路の脇で力なく座り込む子供たちや、枯れ果てた作物を前に立ち尽くす農民たち。
「一刻も早く『浄化』しなきゃ……! こんなに苦しんでいる人たちがいるのに!」
焦燥に駆られるソレイアに、護衛のカイゼルが優しく肩を叩いて声をかけた。
「ソレイア様。今、シリウスと魔導師たちが術式の最終調整をしています。まずはその尊い治癒の術で、傷ついた人々を勇気づけてあげてはどうでしょうか」
「そうね! 痛くて苦しいのは辛いもの。まずはそれを取り除いてあげるのが先よね!」
ソレイアはぱっと表情を明るくし、避難所となっている広場へと向かった。彼女が手をかざし、柔らかな光を放つたびに民衆の顔に生気が戻っていく。
「さすが王国の太陽だ!」
「太陽姫がいらっしゃれば、我々も救われる!」
地響きのような歓喜の声が上がる。ヴァルディスもその光景に誇らしげな笑みを浮かべていたが、シリウスだけは、観測器の針が「静止」したままであることに背筋の凍るような感覚を覚えていた。
やがて、大規模な浄化術式の準備が整った。
「皆様、もう大丈夫ですよ! この穢れを払い、豊かな大地を取り戻しましょう!」
ソレイアが凛とした声で宣言し、膨大な魔力を『浄化』へと変換した。眩い金色の光が、カルディアの空を埋め尽くす。すべてが救われる──誰もがそう確信した次の瞬間だった。
パリパリと、乾燥した何かが爆ぜる音が響いた。救いの光が触れたはずの枯れ草が、一瞬にして黒く焼け焦げ、そこから火の手が上がったのだ。
「……えっ?」
ソレイアの呆然とした声が漏れる。水属性の魔術師たちが消火に走るが、目の前に広がるのは乾ききり、炭と化した大地だった。民衆の歓喜は一瞬で静まり返り、カイゼルもヴァルディスも信じられないものを見る目で立ち尽くした。
(……なぜだ。なぜ浄化が物理的な熱量へ転じた?)
シリウスが思考を巡らせ、一度冷静に事象を解析しようとしたその時。視界の端を金色の光が掠めた。一羽の光の鳥が、迷いなくシリウスの指先へと舞い降りる。指先にとまった鳥がハラハラと崩れ、空中に金色の文字を綴っていく。それは王宮に残ったレグナードからの、緊急の警告だった。
『──理の崩壊。西の呪具によるマナの略奪を確認した。ここは既に真空地帯だ。浄化を止めろ、シリウス。触媒となる水蒸気のない空間に高密度の光を照射すれば、それは浄化ではなく「加熱」という物理干渉に変質する──』
シリウスの顔から、一気に血の気が引いた。
レグナードが提示した、既存の魔導理論の死角。原因は穢れなどではない。「マナという資源そのものの消失」なのだ。
「……ソレイア様、止めてください! 今すぐ術式を中止して──!」
叫んだが遅かった。
ソレイアは、異常な燃焼が起きたのは自分の魔力制御が未熟だったからだと結論づけていた。
「私は太陽姫……稀有な光属性を持つ、王国の王女なのよ。私がここで魔力を引いたら、みんなが苦しむだけ……。絶対にみんなを救ってみせる!」
彼女は瞳に強い光を宿し、ありったけの魔力を絞り出して、さらなる『浄化』を上書きしようとした。
「ダメだ、ソレイア様! 反動が来る!」
キーン――ッ!
鼓膜を劈くような高周波の音が響き渡り、空間そのものが悲鳴を上げた。パキッ、という硬質な音がソレイアの内側から聞こえたかと思うと、彼女の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「ソレイア様!」
ヴァルディスが間一髪で抱きとめるが、彼女の身体からは完全に力が抜け、意識は既に失われていた。膨大な魔力を強制的に引き出した反動か、あるいは「理」に拒絶されたショックか。
後に残されたのは以前と変わらず、それ以上に無残に乾ききった大地と、絶望に沈む沈黙だけだった。
ソレイアたちが来た時と、何一つ変わらない風景。
シリウスは、指先で消えゆく金色の文字を凝視しながら、王宮にいる彼がどれほど恐ろしい真実に到達していたのかを思い知り、戦慄した。
◆
王宮の廊下を、重く引きずるような足音が満たしていた。
南方の強い日差しに焼かれ、煤と泥に汚れたまま帰還したカイゼルとヴァルディスの表情には、かつての輝かしい騎士の面影はない。その中央、純白の天蓋付きベッドに横たわったソレイアは、吸い込まれるような静寂の中にいた。
宮廷医師による診断は、残酷なまでに簡潔だった。
「──意識の喪失は、極度の魔力枯渇。そして、致命的なのは『核』の損壊です」
医師の言葉に、謁見の間に集まった者たちが一斉に息を呑んだ。魔術師にとっての『核』とは、魂と肉体を繋ぎ止める楔だ。それが破壊されるということは、魔術師としての死だけでなく、数週間のうちに肉体そのものが崩壊することを意味している。
「そんな……核の破壊から生還した者など、この歴史上に一人もいないではないか!」
国王の悲痛な叫びが壁に反響する。
ルナリアは、広間の隅で小さく肩を震わせていた。ベールの下で指を組み、ただ姉の無事を祈ることしかできない自分。同じ血を分け合い同じ顔を持ちながら、片方は国の命運を背負って砕け、片方は離宮で無傷のまま生きている。その「不条理」が、広場の空気をじわじわと毒のように侵食していくのを感じていた。
王妃が、ふらつく足取りで歩き出した。
その視線が、隅に控えるルナリアを捉える。絶望で濁った瞳が、獲物を見つけたかのように鋭く吊り上がった。
「……ルナリア」
ツカツカと詰め寄る足音。逃げる間もなく、ルナリアの細い肩は、王妃の震える両手にガッシリと掴まれた。爪が食い込むほどの強い力に、ルナリアは小さく声を漏らす。
「お姉様を、ソレイアを助けて。貴女たちは双子だもの。何か方法があるはずよね!」
「お母様……私、は……」
「今こそ、貴女の役立つ時ではなくて? ソレイアはこの国に必要な子なの。あの子が死ぬなんて許されない。ああ……代われるものなら、貴女とあの子が反対であればよかったのに!」
心臓を素手で握りつぶされたような衝撃が、ルナリアを襲った。実の母から投げつけられた「死の代わり」の宣告。ルナリアの視界が涙で歪み、呼吸が浅くなる。
「妻よ……。お前もわかっているだろう。こうなってはどうにもできんのだ」
国王が咽び泣く王妃の肩を抱き、そっとルナリアから引き離した。けれどルナリアを救おうとしたその手もその眼差しも、娘に向けるものとは思えないほど冷たく、恨めしげな色が混じっていた。
自分はここにいてはいけない。
生きているだけで罪なのだ。
ルナリアが絶望の淵に突き落とされ、足元が崩れていく感覚に陥ったその時──。
「まずは、ソレイア様を救う方法がないか調べましょう。彼女はこの国の太陽です。沈ませるわけにはいきません」
氷のように冷徹で、けれど不思議と凛とした声が、殺伐とした空気を切り裂いた。
声の主はレグナードだった。
彼は跪くこともなくただ淡々と、事務的なほどに落ち着いた足取りで国王たちの前に進み出た。その瞳は泣き崩れる王妃にも、昏睡するソレイアにも惑わされることなくただ一点、真実だけを見据えているように見えた。
「レグナード……。お前なら、何か知っているのか? 禁忌の魔導にでも手を染めねば核の修復など……」
国王の問いにレグナードは薄く、誰にも悟らせないような笑みを浮かべた。
「方法があるかはこれから精査します。ですが、魔力に頼った解決策が尽きたのであれば、別の『理』を探すまでです」
レグナードはそう言うとわずかに視線を動かし、震えるルナリアをその背に隠すようにして立った。
(レグナード様……?)
ルナリアは、彼の背中越しに伝わってくる奇妙な熱に困惑した。彼はソレイアのために動こうとしている。それは婚約者として当然の務めだ。けれど、なぜだろうか。今の彼の言葉はソレイアを救うためというより、ルナリアに突き立てられた刃を、自分自身が盾となって弾き飛ばしたように感じられたのだ。
「……僕に、少し時間をください」
レグナードの言葉は、絶望に沈む王宮における唯一の「命令」のように響いた。
ルナリアは彼の背中の影で、自分の存在を許されたような、けれどさらに深い運命の渦に飲み込まれていくような、言いようのない予感に身を震わせた。




