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虹の残像

王宮の広場は、南方の救済へと旅立つ第一王女ソレイアを称える歓声に包まれていた。

ソレイアは白亜の馬車の上で大衆に手を振り、その隣には護衛のカイゼルとヴァルディス、そして冷徹に状況を見据えるシリウスが控えている。

その熱狂から遠く離れた回廊の影。ルナリアは薄いベールを被り、石造りの壁に溶け込むようにしてその出立式をひっそりと見守っていた。


(どうか、皆様の道中が健やかでありますように。誰一人欠けることなく、無事に帰ってこられますように……)


ルナリアは胸の前でそっと手を組み、目を閉じて祈りを捧げた。その瞬間だった。雲ひとつなかった青空に、突如として巨大な七色の虹が架かった。


「見て! ソレイア様を祝福する虹だわ!」


「なんと神々しい……! やはりあの方はこの国の希望だ!」


民衆の叫びは地響きのような歓声へと変わり、ソレイアは自身を天が祝福しているのだと確信して、いっそう眩い笑みを振りまいた。その光景を視界の端に収めながら、ルナリアは満足げに静かな笑みを浮かべ、誰に声をかけることもなく一人静かにその場を後にした。


ソレイアたちが去り監視の目が薄れた王宮で、ルナリアの日常には確かな変化が訪れていた。これまでは一言二言を交わすだけだったレグナードが、頻繁に彼女の前に姿を現すようになったのだ。

ある日の図書室。

ルナリアが高い棚にある古い魔導書に手を伸ばし、爪先立ちで苦戦していると、背後から音もなく伸びてきた長い腕が目的の本を軽々と抜き取った。


「……あ、ありがとうございます。レグナード様」


「これでしょ? 十七歳になったとはいえ、背の高さはあまり変わっていないようだね」


レグナードは手渡しながら、どこか楽しげに目を細めた。

それからの時間は、ルナリアにとって驚くほど充実したものだった。レグナードは彼女の知的好奇心を満たすように、高度な魔術理論や歴史を噛み砕いて講義してくれた。ルナリアはそれを真剣に聞き入り、熱心にメモを取る。


(レグナード様がこうして私に教えてくださるのも、きっと私が将来、ソレイアお姉様を陰ながら支えられるようになるためだわ……)


両親から言い聞かされてきた「生涯をかけて姉を支えなさい」という言葉。それを果たすための準備を、レグナードが手伝ってくれているのだと、彼女は一点の疑いもなく信じていた。


数日後。

レグナードは図書室の奥まった席で、ルナリアが山積みの専門書と格闘しているのを見つけた。けれどその背表紙はいつもの魔導書ではない。『天文、地学、気象災害記録』──魔術師が避けて通るような、泥臭い物理現象の学術書ばかりだった。


「また、珍しいものを読んでいるね。魔術論議には飽きた?」


レグナードの問いかけに、ルナリアは一瞬驚いたように肩を揺らしたが、すぐに背筋を伸ばして本を閉じた。


「……この度の災害は、きっとまたどこかで起きると思うんです」


彼女の瞳は、これまでにないほど真剣だった。


「この国の人たちは、全員が強力な魔術を使えるわけではありません。強い力を持たない人たちから、命は失われていく。そんな悲しい人たちを多く出さないためにも、少しでも防災のためにできることはないかと思って……」


レグナードは言葉を失った。

自分たち王侯貴族は膨大な魔力量という盾に守られ、いざ何かが起きても「魔術で解決すればいい」という傲慢な前提の上に立っていた。けれどルナリアが見ているのは、その盾を持たない民衆の地を這うような営みだった。

もし、魔法が通用しないほどの巨大な天災が起きたら。あるいは、魔法そのものが価値を失う日が来たら。その時、今の特権階級に何が残るだろうか。


「まあ……国民の皆さんは、魔術が使える方ばかりですものね。魔力量がゼロの私がこんなことを考えるのも、余計なお世話かもしれませんけれど」


ルナリアは自嘲気味に微笑んだ。その影には、自分の無力さを噛み締めるような深い悲しみが揺らめいている。


(……いや、君は何も分かっていない)


レグナードは、胸の奥で疼くような痛みを感じていた。

大きな力ほど、衰退する時は一瞬で脆い。

魔力という幻想に溺れる自分たちよりも、魔法のない世界を夢見ながら、名もなき民の「明日」を案じるこの少女の方がはるかに気高く、そして残酷なほどに尊い。レグナードは彼女が贅沢だと言った「普通の日常」が、実はこの国で最も守られるべき真実なのではないかと確信し始めていた。


「……いいや。君の考えていることは、いつかこの国を救う鍵になるかもしれない。もう少し、詳しく聞かせてくれない?」


レグナードは彼女の隣に腰を下ろした。

目の前で地図の一点を指差すルナリア。その指先が示しているのは、国家機密にも等しい「西の降雨固定領域」だった。


「……あの、お気を悪くしたらごめんなさい。それが今回の原因ではないかと……」


ルナリアはそう言うと、自信なさげに視線を伏せた。指先がわずかに震えている。レグナードは、彼女の内に渦巻く違和感を優しく掬い上げるように、穏やかに声をかけた。


「……ルナリア様」


ハッとしたように彼女が顔を上げる。その瞳には、自分が禁忌に触れてしまったのではないかという怯えと、それでも伝えたいという切実な光が混在していた。


「言ってごらん。感じたまま、思ったまま話してみればいい。それを論理的にまとめるのが、僕の仕事だよ。違っていてもいい。だから君の考えを聞かせて……」


促されたルナリアは、意を決したように再び地図を指した。


「……本来降るべき場所、降るべき時に、雨が違う場所にとられたことによって『理』が歪んでしまったんじゃないかって……」


ルナリアは自信なさげに視線を伏せたが、レグナードの脳内では彼女の言葉が冷徹な魔導数式へと変換され、最悪の解を導き出していた。


「……なるほど。気象操作魔術における『質量保存の法則』と『マナの偏在性』か」


レグナードは、あえて専門的な用語を口にした。

この国の魔導師たちは特定の領地に雨を降らせる際、それを「無から生成している」と錯覚している。だが実際には大気中のマナを触媒にして、他へ流れるはずの水蒸気を強引に引き留めているに過ぎない。


「西の森林にある『常雨の呪具』は、周囲数百キロのマナを強制吸着し続けている。ルナリア様、君の言いたいのは──本来なら南方のカルディア地方へ流れるはずだった湿った気流が西の魔術障壁に衝突し、そこで全て『略奪』されているということだね?」


「……はい。略奪、という言葉は恐ろしいですが、その通りだと思います。魔術という強引な力で天候を縛れば、その反作用は必ずどこか、力の弱い場所へ皺寄せとなって現れるはずですから」


レグナードは絶句した。

魔導学院の教授たちですら「魔力の供給さえ安定していれば、術式に綻びは生じない」と高を括っている。だが、魔力を持たないルナリアは魔力というバイアスを通さず、この世界の「循環」そのものを直感で捉えていたのだ。


「つまりこれが、魔術に対する自然界の『理』の崩壊の始まりだとしたら……。お姉様の『浄化』という名の魔力照射で……解決するのでしょうか? 空っぽになった『器』にさらに強い光を注げば、それは救いではなく『焼き尽くす炎』になりはしませんか?」


まっすぐな、あまりにも残酷な正解。

もし原因が「穢れ」ではなく「資源の枯渇」であるならば、ソレイアの浄化魔術は、干上がった大地に残された僅かな湿り気すらも蒸発させ、死の土地へと変えてしまうだろう。


「……参ったな。ルナリア様、君は本当に優秀だね。満点をあげるよ」


レグナードは薄く笑みを浮かべ、宙に指先を走らせた。彼が綴ったのは、黄金に輝く高密度の術式文字。それが複雑に組み合わさり、収束しつポンと一羽の光り輝く鳥へと姿を変えた。


「いっておいで」


レグナードが指先で鳥を撫でると、鳥は「ピー」と高くひと鳴きし、陽光の中に溶けるように姿を消した。それは南方にいるシリウスへ、王国の魔導体系そのものを否定しかねない「警告」を届けるための使い魔だった。


(……魔力のない君が、魔力を極めた僕たちを追い越していく)


レグナードは、横で少し恥ずかしそうに微笑むルナリアを見つめた。

彼女は、自分の言葉がどれほどの破壊力を持っているかを知らない。この少女が「不備」なのではない。彼女を理解できないこの国こそが、致命的な「欠陥」を抱えているのだ。


「さあ、もう少し研究を続けようか。僕にもっと、君の世界を教えてほしいんだ」


レグナードの瞳には、もはやソレイアを待つ王婿候補としての面影はなかった。彼はこの静かな天才を独占し、彼女と共に世界の作り替えを見届けたいという、昏く甘い執着に身を浸していた。

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