名もなき奇跡と綻びの予兆
北西の離宮の片隅、陽当たりの悪い温室のさらに奥。ルナリアは三日前に拾い上げた小さな命を、そっと掌に包んでいた。折れた翼を不自然に引きずり、冷たい土の上で息絶え絶えだったその小鳥は、ルナリアの看病によって驚くべき快復を見せていた。
(……どうか、あの子がもう一度、空へ帰れますように)
ルナリアはただ、一心にそれを願った。魔力を持たぬ彼女にできるのは、傷ついた箇所を清浄な水で拭い、温め、回復を祈ることだけだ。
この三日間、離宮の静寂の中でルナリアは何度もその祈りを繰り返した。魔術のような鮮やかな光も、詠唱も、魔力の波動もそこにはない。ただ彼女が深く祈るたびに、周囲の空気がわずかに澄み渡るような、そんな錯覚を覚えさせる静けさがあった。
そして四日目の朝。窓辺の鳥は、力強くその翼を広げた。
「……よかった」
ルナリアが指先でそっと背を撫でると、鳥は愛らしく鳴き声を上げ、春の青空へと勢いよく飛び去っていった。旋回し、自由を謳歌するように高く、高く昇っていくその影を見送る。
「あなたは……行きたいところへ、どこへでも行けるのね」
ルナリアの唇から、無意識に独り言が零れ落ちた。
それは、空を飛ぶ自由への純粋な羨望。そして、魔力がないという烙印を押され、自らこの離宮の影に閉じこもることを選んだ自分への静かな諦念だった。
傍らでその一部始終を見守っていたソフィアは、喉の奥に熱い塊が込み上げるのを感じていた。
ソフィアがこの離宮に仕えるようになってから、こうした「不思議なこと」は一度や二度ではない。本来なら数週間はかかるはずの傷が数日で癒え、枯れかけていた花々がルナリア様が傍にいるだけで鮮やかな色を取り戻す。
(偶然……。そう言うには、あまりに重なりすぎている。でも、ルナリア様には魔力の核なんてどこにもないはずなのに)
ルナリアがもたらすのはあまりにも静かで、あまりにも小さい。誰の耳にも届かない祈りが、誰の目にも留まらない命を救う。それはこの王宮で「太陽」と称えられるソレイアのような派手で輝かしい奇跡とは、根本から何かが違うものに思えた。
(きっと、あなた様に救われたものは他にもいるはずなのに……。眩しい太陽に隠れて、誰も気づかない。それがこんなにも悔しい)
ソフィアは空を見上げる主人の細い背中に、堪えきれず問いを投げた。
「ルナリア様は……どこか、行きたいところはないのですか?」
ルナリアは数回、不思議そうに瞬きをした。それから窓の外に広がる青空に視線を戻し、そっと言葉を紡ぎ出す。
「そうね……。魔法が存在しない、そんな世界に行ってみたいわ」
ソフィアは静かに息を呑んだ。魔力こそがすべてを左右するこの国で、それはあまりにも突拍子もない、けれど切実な望みだった。
「おはようって朝の挨拶をした後は、焼きたてのパンを買いに行くの。そのパンを持って、お日様の光をいっぱい浴びて、街の人たちの笑い声を聞きながら、ベンチでパンを食べるの。大きな木の下で読書をしながらお昼寝をして、猫ちゃんを追いかけて……。そんな当たり前で、普通のことがしたいの」
ルナリアは空に向けて、窓から手をめいっぱい伸ばした。細い指先が、春の光を掴もうとするように震える。魔力がないことで虐げられ存在を消されてきた彼女が、その「欠落」さえもが普通とされる世界を夢見るのは、どれほど孤独なことだろうか。
「……なんて、贅沢な世界でしょう」
ルナリアは困ったように微笑んだ。
その光景に、ソフィアは胸が締め付けられる。彼女の周りで起きている「奇跡」が、たとえ彼女自身の祈りによるものだとしても、彼女が望んでいるのはその力で世界を変えることではない。ただ、一羽の鳥のように「自由」であること。
誰も目に留めず、誰も気づかない──そんな小さな離宮の窓辺で、王国の運命を揺るがすかもしれない「名もなき力」は静かに、確実にその輪郭を研ぎ澄ませていた。
◆
講師室でのあの不穏な会話から十日が過ぎた。
学院での公務を終えたレグナードは、高く澄み渡った正午過ぎの青空を見上げ、吸い寄せられるように北西へと足を向けていた。
本来、彼が進むべきは王宮の中心へと続く大通りだ。そこには光り輝くソレイアが待っている。だが今のレグナードにとってその眩しさは、網膜を焼くほどに強く、自分自身の影をいっそう色濃く際立たせるだけのものになりつつあった。
(……僕は、何を確認しにここへ来ているんだろうな)
レグナードは自嘲気味に息を吐いた。
魔力を極めた結果、すべてが理詰めで見えるようになった世界において北西の離宮だけは唯一、予測のつかない「静寂」が満ちている。
離宮を囲む木立の影から、二階の窓辺が見えた。
不意に、一羽の小鳥が春の光の中へと力強く羽ばたいていくのが見えた。鳥は旋回し、自由を謳歌するように高く、高く昇っていく。それを見届けるかのように、ルナリアが窓から身を乗り出すようにして、空へと手を伸ばしていた。まるで、飛び去った鳥を追いかけるように。あるいは、二度と掴めない自由を、その細い指先で必死に求めているかのように。
レグナードの魔導師としての鋭敏な感覚が、周囲の空間を無意識に走査するが何も感じない。魔力の残滓も、術式の揺らぎもそこには一切存在しなかった。
この国の頂点に立つほどの魔力量を持つレグナードにとって魔力を持たぬ空間は、文字通り「空虚」でしかない。だが一人の男としての直感は、その空間が不自然なほどに澄み渡り、胸が痛くなるほどの清廉さに満ちていることを肌で感じていた。
開け放たれた窓から漏れ聞こえる声が、風に乗って届く。
「ルナリア様は……どこか、行きたいところはないのですか?」
侍女の問いかけだ。レグナードは木陰に身を潜めた。盗み聞きをするつもりなどなかったが、ルナリアの返答を待つ間、心臓が奇妙な鼓動を刻んでいた。
「そうね……。魔法が存在しない、そんな世界に行ってみたいわ」
ルナリアの透き通った声が、レグナードの胸を刺した。魔法こそが正義であり、すべてを左右するこの世界を、彼女は静かに明確に拒絶したのだ。
「おはよう、って朝の挨拶をした後は、焼きたてのパンを買いに行くの。そのパンを持って、お日様の光をいっぱい浴びて、街の人たちの笑い声を聞きながら、ベンチでパンを食べるの。大きな木の下で読書をしながらお昼寝をして、猫ちゃんを追いかけて……」
語られるのはあまりにもささやかで、あまりにも「普通」な日常。だがその一言一言が、レグナードの胸を強く締め付けた。ソレイアの語る「愛」や「希望」は常に魔法によって飾られ、万人に賞賛されるための華々しい輝きを纏っていた。だがルナリアが望むのは、魔法という奇跡すら存在しない名もなき幸福だった。
「そんな、当たり前で、普通のことがしたいの。なんて、贅沢な世界でしょう」
窓から手を伸ばしたまま、ルナリアは慈しむようにそう結んだ。
──贅沢。
誰にでも許されるはずの日常を、彼女は自分には手の届かない贅沢だと言った。
レグナードは拳を固く握りしめた。
彼は魔導師として魔法で世界を支配し、魔法で人を救うことで己の地位を確立してきた。けれど目の前の少女が心から求めているのは、自分の持てるすべての力──国を滅ぼし、山を削るほどの魔力をもってしても、この国では決して与えてやれないものだった。
「……君は、そんなことを考えていたんだね」
呟きは、誰にも届かずに空気に溶けた。
レグナードは気づいていた。自分もまた、そんな「普通」の欠片を彼女との会話の中に見出していたことに。魔法の理論に花を咲かせている間だけ、自分が「魔法侯爵の嫡男」でも「王婿候補」でもない、ただの一人の男になれていたことに。
(もし、魔法が存在しない世界があるのなら……)
そこではルナリアは「不備」などと呼ばれず、自分もまた「孤独」を背負わずに済んだのだろうか。二人でベンチに座りパンを分かち合うような、そんな未来があり得たのだろうか。
今、胸の奥で疼いているこの「痛み」は──。
レグナードは、自身の内側で何かが決定的に「綻び」たのを感じた。ソレイアに捧げるはずだった忠誠という名の誓いが、ルナリアという静かな月光に照らされ、別の色へと染まっていく。
彼は静かにその場を去った。
レグナードは、自分がもはや「昨日の自分」に戻れないことを自覚しながら、昏い決意とともに王宮へと足を進めた。




