第五話:侵攻
王都の巨大な正門は、防衛の要としての役目を完全に喪失し、ただの巨大な木と鉄の飾りとしてそこに開け放たれていた。
かつてアリアドネが、油を差し、修繕費を捻出し、交代要員のシフトまで管理して維持していた強固な防壁。彼女がその「見えない糸」から手を放した結果、見張り塔には弓兵の姿はなく、門前を固めるはずの槍兵たちは飢えと未払いの給金に耐えかね、武器を捨ててとうの昔に逃亡していた。
そこへ雪崩れ込んだのは、地鳴りとともに王都の石畳を震わせる隣国の精鋭部隊。
先頭を駆けるのは、漆黒の軍馬に跨り、深く静かな藍色の外套を翻すヴィンセント・オルディウスだった。
数週間前まで、カビ臭い塔の最上階で鉄の枷に繋がれていた「無力な人質」。
だが今の彼は、アリアドネが長年裏で流し続けた莫大な軍資金によって完璧に武装された、冷徹なる征服者そのものだった。
「……見事な手際だ、我が半身よ」
ヴィンセントは、抵抗一つ受けずに王都の大通りを闊歩しながら、空の哨戒塔を見上げて低く笑った。
魔法を使ったわけでも、奇跡が起きたわけでもない。
ただ、彼女が「何もしなかった」という物理的な結果が、この国の心臓までの道を完璧に舗装していた。彼を迎えるのは、熱狂でも悲鳴でもなく、国というシステムが内側から機能停止した「死の静寂」だけだ。
とはいえ、完全に無人というわけではない。
王宮の敷地へと踏み込んだヴィンセントの前に、状況を理解できない少数の近衛騎士――ジュリアンが語る「おとぎ話の王家の威光」をいまだに信奉し、現実の兵糧不足から目を背けていた狂信者たち――が、震える手で剣を抜いて立ちはだかった。
「そこまでだ、蛮族め! 王家の誇りにかけて、ここから先へは一歩も――」
男の言葉は、最後まで紡がれなかった。
ヴィンセントが馬を蹴り、すれ違いざまに無造作に剣を一閃させたからだ。
それは、戦争と呼ぶにはあまりに一方的で、決闘と呼ぶにはあまりに事務的な「清掃作業」だった。
ヴィンセントは馬上から表情一つ変えることなく、ジュリアンの盾となるはずだった者たちを、次々と物理的に排除していく。
彼の剣が血に濡れていくのは、決して苦戦を強いられているからではない。
アリアドネが意図的に残しておいた「少数の不純物」を、彼女の玉座の前に到達する前に、自らの手で刈り取っておくための必然的な対価だった。
「歩兵は王都の要所を制圧しろ。……ここから先は、俺一人で十分だ」
王宮の奥深く。ジュリアンとアリアドネがいるであろう内庭へと続く回廊の前で、ヴィンセントは馬を下りた。
装飾過多なステンドグラスが、彼の剣から滴る血を毒々しく照らし出す。
彼は血振るいすらしない。この血の匂いと硝煙こそが、自分がアリアドネの用意した「空白の道」を歩みきり、彼女の元へ辿り着いたという何よりの証明になるからだ。
ヴィンセントは、冷たい石の床に重い足音を響かせながら、ゆっくりと回廊の奥へと進んでいく。
その先にあるのは、崩壊の事実を突きつけられ、パニックに陥って逃げ惑う哀れな元婚約者と――その男の逃げ道を自らの体で塞ぎ、絶対零度の微笑みで自分を待ちわびている、最愛の共犯者の姿だ。




