第三話: 実務の崩壊
「何もしない」という猛毒が王宮を蝕み始めたのは、ジュリアンの甘い宣告からわずか数日後のことだった。
崩壊は、爆発音ではなく、ひたひたと忍び寄る「静寂」と「欠乏」として現れた。
その日の朝食。
ジュリアンは、いつものように最上級のダージリンと、隣国から取り寄せた焼きたての白パンを期待して食堂の席に着いた。だが、銀の盆を持って現れた侍従の顔は青ざめ、その手は微かに震えている。
テーブルに置かれたのは、香りの飛んだ安い茶葉で淹れられた濁った紅茶と、前日の残りと思われる硬い黒パンだった。
「……なんだ、これは。料理長はどうした?」
ジュリアンが眉をひそめると、侍従はすがるような目で、ジュリアンの隣で優雅に(そして完全に手ぶらで)座っているアリアドネを見遣った。
だが、アリアドネは完璧な微笑みを浮かべたまま、首を傾げるだけだ。
「どうなされたの、殿下? 私はただ殿下に愛されるだけの存在ですから、厨房の事情など、ちっとも存じ上げませんわ」
ジュリアンはまだ理解していない。
これまで彼の食卓に並んでいた「当たり前の贅沢」が、決して王家の権威によって自動的に供給されていたわけではないということを。
アリアドネが毎日、御用商人の帳簿に目を光らせ、王家の予算の横領を防ぎ、自らの筆跡で「特別手配」の認可状を書き続けていたからこそ、王宮の物流は滞りなく機能していたのだ。
彼女が筆を置いたその日から、商人たちはピタリと納品を止めた。「アリアドネ様の裏書がない王室のツケ」など、踏み倒されるのが目に見えている不良債権でしかないからだ。
「……すぐに代わりの品を用意させろ。アリアドネ、君もこんなものを食べる必要はない」
ジュリアンは鷹揚に命じたが、事態は彼が「命じる」だけで解決する段階をとうに過ぎていた。
午後になれば、執務室には各部署からの悲鳴のような陳情が殺到した。
「暖炉用の石炭の納入業者が門前払いしてきました」
「近衛兵の武具の修繕費が下りず、訓練ができません」
「南部の領主からの親書への返答期限が昨日まででしたが……!」
次々と持ち込まれる、ジュリアンがこれまで一度も見たことのない書類の山。
それらはすべて、彼が「私がやるから君は休んでいろ」と豪語した政務の、ほんの氷山の一角だった。これまではアリアドネが、彼が朝起きる前の薄暗い時間帯から一人で処理し、完璧に揉み消していた「泥臭い現実」だ。
ジュリアンは額に脂汗を浮かべ、書類を持つ手を震わせる。
「なぜ……こんな細々としたことまで、私が決済せねばならないのだ! 以前はもっと、こう、自然に回っていただろう!」
「ええ、本当に。誰がやってくださっていたのでしょうね」
特等席のソファで、アリアドネは美しい刺繍の施された扇で口元を隠し、くすりと笑った。
彼女の手にはペン一つ握られていない。ただ、ジュリアンから贈られたあの重苦しい指輪を弄りながら、夫となる男が自らの無知と無能の海で溺れていく様を、特等席で鑑賞している。
「殿下が『もう何もしなくていい』と、私の肩の荷を下ろしてくださったおかげですわ。私、今とても幸せですの」
その「幸せ」という言葉の裏で、彼女は冷徹に時計の針を進めている。
暖炉の火が消え、廊下から花の香りが消え、城門を警備する兵士たちの士気が底をついていく。
王宮が物理的に干上がり、紙細工のように脆くなっていくこの「空白の時間」。
それは、塔を抜け出したあの血塗れた征服者が、国境の穴を食い破ってこの玉座へと到達するための、完璧に舗装された「死への誘導路」であった。
ジュリアンは、ただ目の前の書類の山にパニックを起こし、彼女に助けを求めることすらできず(自分が『何もしなくていい』と言い放った手前、プライドがそれを許さないのだ)、ただ己の首を真綿で絞められ続けていることにすら、まだ気づいていなかった。




