066.凄惨の獣
ダンジョンから南西に約二キロメートル離れた場所。そこは街道の手前に設営された騎士の野営地である。
この野営地が置かれてから実際に使われたのは短い間ではあったが、ロニエールトが慰安に出ている間、騎士団が逗留し街道の見回りをしていたこともあり、いつもより人通りが多かった。
領都から騎士団について来た商人たちの殆どはヒナトの街に残ったが、入れ替わりに騎士団をあてにしたヒナトの行商人たちは活発に活動していた。開拓村を回るついでに、騎士団の野営地に立ち寄り食事や酒を売って一儲けしようと企む商魂逞しい者は多かった。田舎で金を稼ごうとするものたちはこんな機会を逃しはしない。
だからこそ被害は大きくなった。
森から抜け出した数千のサリエルクの群は、森の不安定な足場を難なく乗り越え街道に飛び出した。
途中、何体かの仲間が人間に殺されたが問題はない。
サリエルクは個であって個ではない。群そのものがサリエルクという種族なのだ。
サリエルクはネクロフェルワイアムとの接触で未来を視た。そしてネクロフェルワイアムの未来を知ったことで、群の敗北を識ることになった。
人間がダンジョンと呼ぶ異物は、既にサリエルクの権能を超える巨大な力と群を手に入れてしまった。そしてそれは、本来であればサリエルクによって導かれた死の未来を捻じ曲げて紡がれた新たなる未知の世界。
運命さえも容易く塗り替える混沌……それは星獣であるサリエルクにとって最も相性の悪い存在だったと言えよう。
混沌にとって死とはあまりにも身近な娯楽である。命を奪うことに躊躇いがなく、時に自ら死地に飛び込み、他者の生を踏み躙り嘲笑う。
それでもサリエルクには混沌の死は見えていた。当たり前に殺せるはずであった。
その為に送り込んだ獣どもを全て飲み込み、命も自然の恵みも環境も腐らせ荒廃させるこの世の反逆者まで創り上げるとは……サリエルクにも見通せなかった。
己の欲望のためならば平気で己の暮らす縄張りさえも地獄に変える頭のいかれた狂人。
そも、あの漂着物からしておかしかったのだ。アレが何度も脅威となる侵略者を産み出そうとしていたことは理解していた。だからこそ入念にその全ての未来を断ち切った。
それだというのに現れたなんの脅威たりえないはずの異世界の人間——そも、あれは本当に人間なのだろうか。
漂着物でさえ狂わせた力を受けて、狂ったように見せたのは一度きり。その一度さえ、本当に狂っていたのか。それとも始めから……
いずれにせよ、今更あれらについて考えた所で仕方がない。
その為に"天視偽"を竜の生贄に捧げたのだから。
数千の群が地鳴りのような音を立てて走る後ろで、ぽくぽくと長閑に歩む首なしの子鹿は思考を切り替える。
長い時間をかけて創り出した偽りの王は死んだ。ならば新たな群を率いる王の選別が必要だ。
風の刃に断ち切られた首から溢れ出した漆黒の膿が大地を伝い群れを飲み込んでいく。
やがて数千の群全てを飲み込んだその膿はひとつ——その姿をひとつと呼ぶべきかは定かではないが——山と見違える程の大きさの黒い雄鹿となって進む。
進む先は遥か。
群を脅かす者の存在しない何処かの果てへ。
ありとあらゆる生命を下敷きに獣は進む。
その黒い体躯の至る所には飲み込まれた無数の同胞の首や肉体を剥き出しに、殺した冒険者を像のように取り込んで。
白の雄鹿は生を視て死を手繰る生白。
黒の雄鹿は死を集めて生を偽る黒死。
それは今も尚生きる伝承よりも古の伝説。
『北の山々には天から我ら人を見下ろす白の雄鹿が住んでいる。その雄鹿、四つ目の鹿を率いて人の行いを視る。天に住み運命を識るその白い雄鹿に近づくなかれ。四つ目の鹿に手を出すなかれ』
アルヴァリア王国北方に残る口伝のひとつ。
誰も近付かぬ森と山に棲まう雄鹿を人は何故知るのか。それを知る人間はこの世には存在しない。
それは現在もこの地に生きる北方民族よりも古い別の民族だけが知っていた。
遠く遠く遥か昔、何処からかやってきた山のように巨大な黒の雄鹿に滅ぼされた民だけが。
抗う術なくその獣によって絶滅させられた者たちは、その獣の名も知らずただ、"凄惨"と呼んだ。
"凄惨の膿"に呑まれるな、"凄惨の獣"から身を隠せ。
そして古の北方民族はその数万という命を僅か数日で散らし、世界から名を消した。
幾年月を経て、再びこの地に人が棲まう頃……新たなる住人たちは遠く山間から響く不思議な音に合わせて謡い出す。それが何者の意志かも知らず、皆が真似して流行り出す。
偽りの民謡は刻まれる。
バルザーク・ベルモンドはロニエールト、ルイス・エメル率いる騎士たちと分断された後、すぐに冒険者を率いてサリエルクの群を追って森を出た。
森に侵入する拠点として騎士団が用意していた野営地は酷い有様になっていた。
天幕はなぎ倒され、食糧や薬品を貯蔵した樽や木箱は無残に散乱し、周囲には血と汚れた衣服の切れ端が散乱していた。
恐らくは森の様子を知らぬ通りがかりの商隊でも居たか、数人とは思えぬ量の血が河のように広がっていた。
しかし、何故か血の割に死体がない。
まさか鹿が人の肉を喰らうとも思えない。そもそも喰らったような痕跡がない。肉や骨の一片もないのだから。
明らかな異常事態。
鹿のすぐ後を追って森から出たというのにどれだけの差を付けられたというのか。
「足跡はヒナトに向かってやがる……気は進まねぇが、怪我人と足の遅いやつは此処に置いていく。動けるやつは全員ついて来い。あの鹿共を街に近づけさせるな」
この野営地——もはや跡地と言った方が正しいようにも見えるこの場所——本来ならば何があったかギルドとしては調べるべきだが……森の獣を容易く蹂躙したあの鹿をこのまま街に向かわせる訳にはいかない。
追いつき、仕留める。仕留め切れずとも、時間を稼がなければヒナトは堕ちる。
あの鹿の権能に、只人は耐えられない。
選別された領都の冒険者でさえも、声を聞いただけで頭を狂わせ自死をさせる。そんな物に抗えるような者はヒナトには居ない。
否、幾らかは居た。
フィニャセラ……そしてラグネル。
だが、その二人はヒナトにはもう居ない。
ラグネルは戻らず、代わりにやってきたのが弟のロニエールトだ。そのロニエールトは、最後に見た時には竜に襲われダンジョンに逃げ込んだ。ルイス・エメルの命と引き換えに。
「あのガキ、これで死んでたら殺してやる」
吐き捨て、走る。
バルザークの後ろには既に半数以下まで数を減らした冒険者が続く。
森で生き残り、ヒナトまでを走り切れる冒険者のみ。怪我人や魔法使いは野営地に置いて来た。それでさえ苦渋の決断である。
それでも僅かな兵しか居らず、ダンジョンの情報も街に迫る危機も知らぬ民しか居ないヒナトを思えば足を止める訳にはいかない。
そうして……生き残った北方で有数の冒険者たちを率いたバルザークがそれに追い縋ったのは、まさにヒナトの街の門が巨大な黒い獣に打ち破られた頃だった。
北方辺境の街ヒナトの滅亡は、既に避けられぬ状況へと追い込まれていた。




