059.世這 Necrofell Wyrm
『殄滅と破壊の混沌、戒めの鎖縛。三頭の狗、二頭の大蛇。終焉への漂着。己を封ぜし罪禍の門。我が名、我が命に応じ覚醒めよ——闢解』
昏き霧の森、その空に浮かぶ恒星は既に大きく傾き、暮合い。
背の高い針葉樹の樹々に覆われた森に、恒星の光は遮られ、一足早い夜を迎えようとしていた。
その森の中、樹々がほんの僅かに切り開かれた丘がある。なんの変哲もない、山に至らぬ小さな隆起。しかし、それでも森を裂くその丘の頂上に、人知れず罪禍の門は姿を現した。
丘の麓で争う者たちも、門を喚びし者共も知らぬ場所で、それは門から放たれた。
ずるりずるりと暮靄と混ざった黒い靄の中、巨大な罪禍の門でさえ窮屈だと言わんばかりに身を低く、大地に擦り痛みを堪えながら顕現するは——"世這竜"ネクロフェルワイアム。
混成獣のように歪に繋ぎ合わされた骸と骨。蜥蜴のような図体は蜥蜴とは比較にならぬ巨躯。人も人が生きる家もひと呑みにする程の顎。巨大な対の翼の皮膜は見るも無惨に、散々破れ骨が覗く。最も巨大な翼の片翼の骨は剥き出しに、黄ばんだ杭のよう。大地に突き刺し、身を引き摺り這い進む。その巨体に比較して小さ過ぎる翼腕の鉤爪は鶏を思わせる造形。襤褸の翼から落ちる羽根は梟か。華奢な翼腕に比べれば太く逞しい二つの脚を造る肉は猪のように力強く、尾には剥き出しの無数の骨にこびり付いた肉。
罪禍の門が閉じる。
その業の大きさから、母なる世界の外に生じた門。
己を生み出した父を知らぬ竜は静かに啜り泣く。
「ヴォォォォ————」
父は何処か。
母なる世界は何処か。
この醜悪な世は何故存在を赦されるのか。
戸惑い、怒り、孤独が竜を蝕む。
その大いなる存在、姿形故に、母の世界に収まり切らずに産み出されたとは知らず竜は征く。
その腐敗した肉体から濁った深緑色の毒の煙を"全周囲"に撒き散らしながら、ずるりずるりと父を探して丘の上を這う。
飛ぶことのできない体故に、進めば肉が削げ落ちる。それでも骨身で竜は歩みを止めない。
かろうじてその竜の肉体を保っているのはその身を覆う鱗代わりの霜。冷気によって辛うじて完全なる自壊からその身は守られる。
啜り泣く蜥蜴頭の口から覗く牙は大小様々に、歪に噛み合うことはない。兎、蛇、蜥蜴、豹、人間。無数の骨の寄せ集め。隙間だらけの口から漏れる悪臭もまた、森の草木だけではなく岩をも溶かして、竜は登る。
骨を刺し、腹を擦り、脚で蹴る。その勢いは段々と速度を上げていく。竜の歩みを止める物は存在しない。全て腐らせ、砕いてその身で踏みつけ擦り潰す。ただ、それだけで竜の進路は滅びを迎えるのだから。
故に、唯一その存在の出現を認識していた存在もまた動く。
星獣。
異世界の漂着物と侵略者。それが喚び出した異形が世界に滅亡を齎そうとしている。世界の破滅ならばどうとでもなれば良いが、この場所での横暴は赦さない。
この周囲一帯の山々も森も群の縄張りである。獣は縄張りを侵す者には容赦をしない。
それが喩え、自らの存在にとって最も相性の悪い混沌が相手だとしても。
幾度排除を試みても、生き汚く底意地悪く生き延びる運命への叛逆者。
混沌——生と死の正しき道を踏み外した者共。
『————————ィ』
まるで卵から孵ったばかりの雛鳥のように、唯一その存在を認知した星獣の群を目指して支配地である森を抜けて山を駆け上ってくる異形に正しき死を与えるために、最も長く時を生きた白い雄鹿が声を上げる。
その声、その言葉、群以外の存在には聞こえすらしない音を超えた意思が山間に響き渡れば、長らく眠りについていた群の個体たちも目を覚ます。
『————————』
白の雄鹿が呼んでいる。
群を率いる真の頂点のその呼び声に無数の声が木霊する。
山の頂から竜を見下ろす白の雄鹿によって集められた八千を超える瞳が、その異形の竜と、異形の後方……昏き霧の森の中で争う者共全ての命を奪うために山を駆け出した。
ネクロフェルワイアムは薄汚い瓶底のような世界の山を吐き気を催し……実際に腐った汚物を吐き出しながら山を駆け上がった。
ひとつの峰には至ったが、周辺には幾つもの山が連なり、目的の気配までは程遠い。
どうして父は側にいてくれないのだろう。今は何処で何をしているのだろう。ひとりぼっちの自分のことを心配してくれているのだろうか。
「ヴォェェェ……ヴォォォォェ」
悲しくて堪らない。早く迎えに来てほしい。父に会いたくて堪らない。父に会ってはやくこの体を抱きしめて貰いたい。そしてたくさん甘やかして貰うのだ。自分は父に愛されて抱き締められるために産まれたのだから。
それなのに——
「ヴォァァァ」
——気色の悪い無数の視線が気に入らない。
産まれてからずっと、孤独に生きているこの身を笑うかのような視線。自分を知らぬ何者かに見られているというのはそれだけで不愉快だ。一方的に向けられる視線は悪意だ。侮蔑し、差別し、非難する。悪意は心を歪めていずれは命さえも奪う。視られることで与えられる精神的苦痛、苦悩。そんなもので狂わされる生。
命とはそんな風に消されるために在るのではない。
愛されたくて、愛したくて、結ばれたから産まれてくるのだ。
それを否定する存在など、腐り散らして死ねばいい。
鋭い山の峰、岩を腐らせ這い上がった竜の二つの虚に、千を超える妖しい眼光が立ちはだかる。
『紛い物の竜か、穢らわしい』
四つ目の鹿が一体、ネクロフェルワイアムの前にその姿を晒してその醜悪な外見を嘲笑し、眼光を鋭く点滅させる。ネクロフェルワイアムの運命を視て辿るべき死を探り。
『……バカな』
たった一言を残し、ネクロフェルワイアムの翼の骨に貫かれ……加減を知らぬ幼竜の馬鹿力に叩き潰されてできた大穴の中で瓦礫の一部となった。
斯くして、魔王の願いによって産み出された竜と四つ目鹿の群の戦いは、魔王の意思とは無関係に始まった。




