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蠱魂(こだま)  作者: ふゆはる


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第九章/退魔の儀

 本堂に張り詰めた静寂は、外の風すら遠ざけるかのようだった。

 白行上人は深く息を吐き、正面に広げられた大きな和紙へと視線を落とす。その傍らには真奈と高橋が正座していた。二人の顔には恐怖と覚悟が入り混じり、互いに視線を交わすことはなかった。


「呪符は、ただの紙ではない。血と墨と誓願をもって、はじめて道を繋ぐ扉となる」


 白行上人は低く告げ、懐から小刀を取り出した。

 蝋燭の炎が刃先に反射し、冷たい光を放つ。


 真奈は喉を鳴らし、小さく息を呑む。

(……血……私の血を、ここに……)


 まず真奈が手のひらを差し出した。上人は迷いなくその皮膚を浅く切り、赤い珠が浮かぶと、白布で受け止めて墨に混ぜ込む。鉄と甘さが入り混じった生臭い匂いが、即座に本堂を満たした。


 続いて高橋も同じように血を落とす。

 彼は声を出さず、ただ静かに眉間を寄せる。

「……これが、仲間を救う唯一の道ならば」

 彼の言葉は、短くも鋼のように固かった。


 白行上人は二人の血を混ぜ込んだ墨を、静かに筆に含ませる。筆先からはわずかに蒸気が立ち、黒い液が重々しく滴った。


 そして経を唱え始める。


「南無仏頂尊……南無十羅刹女……」


 その声は本堂の梁を震わせ、薄闇の中に残響を広げる。

 筆は和紙の上をゆっくりと走り、力強い線を描いていく。最初は一見ただの梵字に見えるが、やがて螺旋を描く曲線と鋭い角が絡み合い、不気味な模様となった。


 真奈の視界には、その線がまるで蠱の群れのようにうごめき、紙の上で生きているかのように見えた。思わず手を引っ込めそうになるが、白行上人の声がその恐怖を押し留めた。


「これは呪いに抗う誓約。そなたらの血は、羅刹女の刃となる」


 経文は次第に高まり、声の調子は呪詛とも祈りともつかぬ響きへと変わっていった。筆が一画ごとに走るたび、空気が重く沈み、畳の上に薄い影が這う。

 炎は揺れ、壁に映る影は巨大な羅刹女の姿を思わせた。


 真奈は震える唇を噛み締める。

(……これが、本当に救いになるの……? でも……佐倉さんの魂を、このままにしておけない)


 高橋は冷たい汗を流しながらも、背筋を伸ばし続けた。

(俺は……生き残るためだけじゃない。この血で……蠱毒を絶つ)


 筆が最後の曲線を描き終えると、和紙全体が一瞬だけ淡い紅に染まった。まるで二人の血が紙に脈打ち、呪符自体が呼吸しているかのようだった。


 白行上人は筆を置き、深く合掌する。

「……完成した。だが、これは道を開くだけの鍵にすぎぬ。開かれた扉の先には、そなたら自身の心が待ち受けておる」


 真奈と高橋は黙って頷いた。

 蝋燭の炎に照らされた呪符は、まるで彼らの命を映す鏡のように静かに揺れていた。


 本堂には息を潜めたような静けさが満ちていた。

 外の闇は蝉の声さえ失い、ただ遠くで木々が軋む音だけが微かに響く。

 蝋燭の炎は幾度も揺れ、その度に壁に映る影が蠢き、まるで異形の群れが忍び寄るかのようであった。


 白行上人は畳の中央に低く座し、眼前に展げた白布の上へ筆を走らせていた。

 筆先には墨と二人の血が混じり、赤黒くねばつく線となって呪符に刻まれていく。


「血は誓いの印、墨は刃……この符をもって、蠱の呪縛を断たん」


 低く唱えられる声に合わせ、真奈は身を固くした。

 筆の擦れる音すら異様に大きく響き、耳の奥を震わせる。

 隣で膝を正す高橋もまた、掌に爪が食い込むほど拳を握りしめている。


 やがて呪符の一枚が仕上がると、白行上人は火舎香炉にかざした。

 焚かれた沈香の香りが漂い、むせるほど濃くなる。

 その煙に包まれるようにして、呪符はかすかに光を帯びた。


「――南無大悲観世音菩薩……南無十羅刹女……」


 経が響くたびに、蝋燭の炎が膨らみ、光が波のように押し寄せる。

 しかし同時に、畳の隙間や梁の陰から、黒い影がじわじわと滲み出てきた。

 羽音。

 それは一匹の虫のものではなく、数百数千の群れが一斉に羽を震わせる音だった。


 真奈の背筋に冷たいものが走る。

(来る……また、あの蠱が……!)


 白行上人は動じず、さらに声を張り上げた。

「退け、退け……ここは清浄なる法界なり。蠱の怨霊、影も形も留めるなかれ!」


 だがその言葉を嘲笑うかのように、白布の上で影が膨らんだ。

 まるで何かが這い出してくるように。

 次の瞬間、蝋燭の炎が一斉に低くなり、本堂の奥に「それ」が立ち現れた。


 ――佐倉。


 いや、かつて佐倉だったもの。

 髪は泥に濡れたように垂れ下がり、顔は無数の喰い痕に覆われ、肉はズタズタに裂けていた。

 眼窩は深い穴のまま虚ろにこちらを向き、唇は蠱に噛み砕かれたのか、形を保っていない。

 だが、その裂けた口からは確かに声が漏れた。


「……まな……たすけて……」


 真奈の心臓が止まりそうになる。

 思わず立ち上がりかけた彼女を、高橋が押さえた。

「見るな……! あれは佐倉さんじゃない!」


 だが声は止まない。

「……ひとりに……しないで……」

「……わたしも……いっしょに……」


 亡霊の足元では、蠱の群れが黒い波となって広がり、畳をずるずると食い荒らしていく。

 本堂の清浄な結界が、いまにも押し破られようとしていた。


 白行上人は立ち上がり、筆で描いた呪符を高々と掲げる。

 その声は怒号のごとく、本堂の梁を震わせた。


「――迷える魂よ、蠱の縛りを解かれよ! ここに留まることを許さず!」


 呪符が白く燃え上がる。

 光は稲妻のように走り、亡霊の影を貫いた。


 佐倉の亡霊は呻き声をあげ、焼けただれたように揺らめいた。

 しかし、それでも消えない。

 ズタズタに裂けた腕を伸ばし、真奈へと迫ってくる。


 真奈は叫び声を飲み込み、ただ必死に後ずさった。

 高橋は彼女を庇うように立ちはだかる。


 白行上人の額には汗が滴り落ち、声はさらに震えを帯びた。

「退け、退け、退け! 怨念は今ここで断ち切る……!」


 本堂に経文と羽音が交錯し、炎と影がせめぎ合う。

 やがて、亡霊と上人の力が正面からぶつかり合う、その瞬間が迫っていた。


 亡霊の呻きは次第に声を増し、耳を塞いでも届くほどに強くなっていた。

「……なぜ……なぜ助けてくれなかった……」

「……みんなで帰るはずだった……」

「……置いていかないで……」


 声は佐倉のものでもあり、同時に無数の女の声でもあった。

 真奈の心は鋭い刃で裂かれるように痛み、胸の奥で罪悪感が膨れ上がっていく。


(わたしのせい……わたしが彼女を置いてきた……)


 思考はたちまち泥のように濁り、足元が揺らぐ。

 真奈はふらりと前に出そうになった。

 だがその肩を、高橋が力強く掴んだ。


「真奈! 惑わされるな!」

「でも……佐倉さんが……苦しんでる……!」

「違う! それはもう佐倉さんじゃない! 呪いに喰われた怨念だ!」


 高橋の声は震えていた。だが彼は真奈を見据え、片時も手を離さなかった。

 それは彼自身もまた、後悔と恐怖に苛まれながら、必死に踏みとどまっている証だった。


 白行上人は二人の姿を背に、なおも呪符を掲げ続けていた。

 額から流れる汗は止まらず、声は経文を繰り返すたびにさらに大きくなる。


「……諸天善神、ここに臨み給え……蠱毒の縛りを断ち、迷える魂を解き放て……!」


 その瞬間、呪符から迸った光が本堂全体を覆った。

 畳も柱も天井も、すべてが白く燃えるように輝き、羽音が苦悶の叫びに変わった。


 亡霊は裂けた口を大きく開き、耳をつんざく絶叫を放つ。

 顔の皮膚はさらに剥がれ、血に染まった骨が覗き、黒い蠱がその隙間から溢れ出す。

「いやだ……まだ……わたしは……ここに……!」


 真奈は思わず涙をこぼした。

「……ごめんね、佐倉さん……でも、もう休んで……!」


 その声は経文と重なり、まるで真奈自身の祈りが呪符に力を与えたかのようだった。

 白行上人の手にある符は赤々と燃え上がり、次の瞬間、亡霊の胸を貫いた。


「ぎ……ぁぁああああああああ――!」


 裂けた影は激しく震え、崩れ落ちるようにして砕けた。

 蠱の群れは火に焼かれるかのように散り、壁や床の隙間に逃げ込み、やがて羽音は途絶えた。


 残されたのは、静寂と香の煙。

 そして、焼け焦げた呪符の灰だけだった。


 真奈はその場に崩れ落ち、震える手で顔を覆った。

 高橋はしばらく立ち尽くしていたが、やがて深く息を吐き、彼女の肩にそっと手を置いた。


 白行上人は灰を掌で包み込み、静かに目を閉じた。

「……佐倉殿の魂は、これで蠱の縛りから解かれた。だが、安らぎを得られたかは……まだ分からぬ」


 真奈は涙を拭いながら頷いた。

「せめて……これ以上、苦しまないでいてほしい……」


 高橋は唇を結び、低く言った。

「俺たちが……この呪いを断ち切らなきゃならないな。佐倉さんのためにも」


 白行上人は再び経文を巻き上げ、炎の揺らめきを見つめていた。

 その眼差しは厳しく、しかしどこか深い哀しみを湛えていた。


 ――退魔の儀はひとまず終わった。

 だがそれは、さらに苛烈な試練の始まりを告げる鐘でもあった。


 白行上人は灰を掌で撫で消すようにして、しばらく黙したまま座していた。経の余韻がまだ空気に残り、蝋燭の炎は小さく揺れている。本堂の床は冷え、彼の背中に寄せられた蒼白さが際立った。あの儀が終わった直後でも、彼の体からは容易に消えない疲労と引き換えのような重みが漂っていた。


 やがて、彼はゆっくりと口を開いた。声は先ほどの怒号から一転して、掠れた囁きのように優しく、しかし確固たる響きを帯びていた。


「我が能は尽きぬと思うなかれ。符は焼け、魂は一時の安寧を得たかもしれぬ。されど……の根は深く、我らが今切り払ったのは、ただ外面の瘴気の一塊に過ぎぬ」


 白行上人の掌は微かに震え、その掌に残る灰の粉が指の間に落ちた。真奈はその震えを見て、胸の奥がぎゅうと締めつけられるのを感じた。高橋はじっと彼の顔を見つめ、言葉を待った。


「退魔は祈りのみで果たせるものではない。祈りは刀の鞘。それを抜き放つには、血と肉と――時に命を以て代償を払わねばならぬ。」

 白行上人が眼を閉じ、過去の戦いの匂いを吐き出すように続ける。

「我らが蠱毒の核心へと迫れば、呪いはより深く、より卑劣に、犠牲を求めてくる。覚悟だけで押し切れるほど、これは易きものではないのだ」


 真奈の指先が、呪符で染まった掌の痕を無意識に辿る。血の重みが現実へと引き戻す。彼女の声は震えていたが、真剣そのものだった。


「その――具体的には、どういうことですか。何を失うんですか?」


 白行上人は一度長く息を吸い、外套の裾を整えるように指で引いた。


「最悪の事態を言えばよいのだな。――八幡の『藪知らず』で行う本式の断呪だんじゅは、封印に等しい行為だ。封印は相手の力を抑えると同時に、封印を施す側の『何か』を差し出さねば成立しない。差し出すものは、土地の気、命の鮮血、あるいは魂そのもの。成功すれば、呪いは断ち切られ、土地は清まる。しかし失敗すれば――」


 言葉がそこで途切れ、白行上人の眼が暗く沈んだ。高橋が僅かに息を詰める。


「――我らの三つの命が、呪いそのものの食糧となるかもしれぬ。私、斉藤真奈、お主の血で満ちた符、そして私の生身を以てしても、蠱が飢えを癒せば、我々はこの世に在らぬ者となるだろう。あるいは、一人だけが残るかもしれぬ。あるいは誰一人……」


 白行上人は視線を真奈と高橋に移し、言葉を添えた。


「私は齢長く、このような危険を厭わぬとは申すまい。しかし、今はお主ら若き者の血を用い、再び封を試みるつもりだ。八幡の藪知らず――あの場所は古より『静かに死を忘れる土地』と呼ばれておる。常ならば立ち入るべからずと伝えられてきた地だ。それに踏み入れ、そこで封印を施すならば、その土地自体が代償を要求する。土地は恐れるに値するほどに飢えている」


 高橋の顔が硬くなる。理知的な彼でも、今の説明は数字にも論理にも還元できない、圧倒的な危険の告知だった。


「八幡の藪知らず……あそこは、呪いの核が眠る場所なのか?」

 高橋の声は低く、しかし冷徹だ。彼は現実的な確率を計算するように問いかける。


「否。『核』という単純な言葉で言い表せぬ。古い血の念、何世代にも渡る怨念と、それらを媒介する土の瘴気が積層している。その上に蠱が脈打つのだ。封印は、その複合体の『目』を塞ぐようなもの。だが、目を塞ぐということは、代わりに『塞ぐ側』がその代価を払うという意味でもある」


 真奈は顔を上げた。震えた瞳には決意が浮かぶと同時に、恐怖の色も混じる。


「佐倉さんがああなったのは……その代価の断片、ですよね。あの蠱は、我々がもたらしたものではなく、あそこで長らく育まれてきたもの。彼女の死は、我々にそれを真に理解させた。だから……その場所で儀式をする。そうすれば、根本から断てる可能性がある。でもそのとき、私たちは――」


 言葉を切ると真奈は、呪符を抱きしめていた手をぎゅっと強く握る。血の匂いがふと鼻を刺す。高橋は彼女の肩に、無言の連帯を示すように軽く触れた。


 白行上人は続ける。彼の声には、静かな譲歩と厳しさが同居していた。


「我はお主らに強制は致さぬ。だが知られよ。覚悟とは美徳でも、盾でもない。覚悟とは、失う覚悟である。命、名誉、そして――場合によっては魂。これを以てして呪いに斬り込むなら、呪いもまた必死に抵抗するであろう。蠱は怨念を食らい、力を増す。故に――」


 言が切れて、白行上人は一度深く息を吐いた。部屋の中に、三人の呼吸だけが重く落ちる。


「八幡の藪知らずでの儀式は、最も危うき選択肢の一つだ。成功の暁には、蠱毒の瘴気を大きく削ぐことができる。だが失敗の暁には、我ら三人がその代償となって朽ち果てるだろう」


 沈黙の後、高橋がゆっくりと口を開いた。彼の声は低く、しかしこれまでにない確かさが宿っていた。


「理屈では計れぬ代償があることは分かった。だが、佐倉の死を受けて、放置する訳にはいかない。あのまま蠱が増殖すれば、次は我々を含む大学と周辺の人々が――被害は広がる一方だ。選択肢は二つ。安全に後退し、被害を局所化する方法を探るか、根絶を目指して賭けを打つか。私は賭けを打とう」


 真奈はそれを聞き、わずかに震える声で答えた。


「私も……賭ける。佐倉さんを、あのままにできない。これが……最善かどうかは分からない。でも、やるなら今しかない気がする」


 白行上人は二人の顔を交互に見て、静かにうなずいた。そして、重い口を開く。


「では準備を整えよ。八幡の『藪知らず』は森の奥、古い祠の裏手にある。夜の帳が下りる頃、我らは立ち入る。供物、結界、そしてもう一枚の呪符。これらはすべて、命を以て成就される可能性がある。覚悟を確かめよ」


 その言葉を受け、真奈と高橋は互いに短く頷いた。蝋燭の炎が静かに揺れる中、三人の影は長く伸びて床に落ちた。外では夜風が木々を揺らし、遠くでふと、羽音のようなものが聞こえた気がした――あれは確かに、風の音ではないのかもしれない。


 夜は深まっていった。だがその深さは、ただの暗さではなかった。差し迫る決断と、払われるべき代償が、その暗さを重層的にしていた。白行上人の疲弊は、彼が既に多くを差し出してきたことの証であり、八幡の藪知らずで待つものは、単なる恐怖ではなく、選択と喪失の試練そのものだった。

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