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蠱魂(こだま)  作者: ふゆはる


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第五章/羽音

 夜の闇が静かに街を覆い、街灯の淡い光が窓のカーテン越しに揺れる。山下は自宅のリビングに座り、研究室で起きた出来事のことを反芻していた。藤原の死の話は頭の片隅で不気味に響き、冷たい汗が背中を伝う。


「まさか……本当に……」

 彼は声にならない呟きを漏らしながら、蛍光灯の明かりに目を凝らす。部屋は静かすぎるほど静かで、かすかに空気が粘る感覚があった。羽音――微細で無数の羽音が耳の奥で響き、最初は気のせいだと思おうとした。しかし、その音は徐々に明確になり、まるで部屋中を何かが飛び回っているかのように増幅していった。


 床の影、机の脚、家具の隅――視界の端で微細な動きが蠢く。山下は息を呑み、手で机を掴んで立ち上がろうとした。だが、微細な振動が全身に伝わり、思考は瞬時に霧の中に沈む。目に見えぬ何かが、確実に自分の周囲で蠢いている。


「……うそだ……そんな……」

 声は震え、唇からもごもごと漏れるだけだった。振り向いても、壁の影や家具は異常があるようには見えない。しかし、影の揺れは止まらず、微細な触覚のようなものが彼の足や腕に絡みつく。羽音は増幅し、耳の奥を刺すように響く。


 その瞬間、床の影が微かに動き、黒い蠢きが山下の足元に迫った。身体を引こうとするが、力が入らない。視覚が微妙に歪み、床や家具の輪郭が揺れ、現実と幻覚の境界が曖昧になる。影は瞬時に形を変え、まるで無数の触覚や脚が彼の身体を這い回るかのようだった。


「いや……やめ……!」

 悲鳴は喉に詰まり、声にならない。全身を覆う冷気、影の蠢き、羽音――すべてが絡み合い、恐怖は皮膚の隅々まで侵入する。微細な刺痛が全身に広がり、まるで数万匹の虫が同時に皮膚を這うような感覚が走った。


 山下は膝をつき、両手で顔を覆いながら呻く。羽音は増幅し、床や影の中から微細な振動が伝わる。家具や書類が微かに揺れ、影の動きと共鳴するように、部屋全体が生き物の意志を帯びたかのように変容していく。


 短時間のうちに、山下の身体は無惨に蝕まれていった。皮膚には無数の穴が開き、筋肉や内臓は部分的に破壊され、藤原の遺体と同様に、虫に食い荒らされたかのような凄絶な状態となる。微細な羽音は消えず、影は壁や床に蠢き続ける。


 山下の最後の瞬間、目には恐怖と絶望が宿り、口から漏れる呻きは空間に吸い込まれ、外界に届くことはなかった。部屋の中には、彼が感じた全ての恐怖と痛みが染みつき、蠱毒の力の痕跡となって空気を支配する。


 翌朝、遺体は発見され、研究室の面々に恐怖をもたらした。藤原の死と同様、全身が無惨に蝕まれ、現実の虫では到底説明できない状態であった。微細な羽音と影の蠢きは、まだ部屋に残り、蠱毒の連鎖が完全には止まらないことを示していた。


 真奈はその知らせを受け取り、深く息を吐く。研究室での封印解除から始まった蠱毒の連鎖は、もはや研究室の外にも広がり、人間の力では制御できない規模で活動を始めていた。恐怖は街の夜にも浸透し、犠牲者の姿と共に、目に見えぬ戦慄が蠱毒の意志として広がりつつあった。

 研究室に戻った真奈と直樹は、山下の惨状の知らせを受けて深い衝撃と恐怖に包まれていた。室内には、微細な羽音と影の揺らぎがまだ残り、五感をざわつかせる。誰も声を発することができず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。


「……これ、蠱毒……なのね……」

 真奈は震える声で呟き、手を机の縁に握りしめる。恐怖と動揺で心臓は早鐘のように打ち、しかし冷静に次の行動を考えなければと自分に言い聞かせる。


 直樹は壁際に立ち、額に手を当てながら荒い息をつく。「どうするんだ……これ、もう誰にも止められないんじゃ……」


 その時、美咲の様子がおかしいことに真奈は気づいた。彼女の目は虚ろで、瞳孔が異様に開き、息は荒く、唇がわずかに震えている。手には資料を握りしめ、無言で床を叩くように動かしている。


「美咲……落ち着いて!」

 真奈は声を張り、肩に手をかけようとする。しかし、美咲は振り返ることもなく、声に反応する気配もない。彼女の動きは、まるで蠱毒の意志に操られているかのようで、理性の痕跡は見当たらなかった。


「や、やめ……!」

 直樹の声も届かず、美咲は研究室の奥へと走り去る。廊下の影が微かに揺れ、羽音が一層増幅して耳を刺す。床の振動、影の蠢き、冷たい空気……すべてが美咲の逸脱を強調するかのように反応していた。


 真奈は必死に追おうとするが、美咲の足取りは不規則で速く、暗い廊下の奥に吸い込まれるように消えた。追いかけることはできず、研究室の出口に立ったまま、息を整えるしかなかった。


「……止められなかった……」

 真奈の声は震え、手は机にしがみついたまま動かない。恐怖、混乱、絶望が入り混じり、胸の奥に重くのしかかる。目に見えぬ蠱毒の力が、美咲の行動を増幅させ、連鎖の規模が一層広がったことを示していた。


 深く息を吸い込み、真奈は決意を固める。「……私たちで、連鎖を止めるしかないわ……翼も、美咲も……」

 机の上の資料に手を伸ばし、壺の封印や蠱毒の連鎖に関する文献を読み解こうとする。羽音や影に注意を払いながら、次の犠牲者を出さないための行動を模索するのだ。


 だが廊下の向こう、暗闇の中で微かに羽音が続く。美咲の存在か、それとも蠱毒そのものか――判断はつかない。影が揺れ、冷たい空気が研究室に流れ込む中、真奈と直樹は胸の奥でざわつく恐怖を感じながら、次の行動を慎重に準備するしかなかった。

 まるで蠱毒の意志がまだ室内に張り巡らされているかのようで、呼吸のたびに体が小刻みに震える。


「……どうしてこんなことに……」

 直樹は背中を丸め、机に手をついて額を押さえる。息は荒く、心臓の鼓動が耳の奥で高鳴る。恐怖と絶望が混ざり合い、頭の中の思考をかき乱す。


 真奈は机の前に立ち、資料の束を見下ろした。頁をめくる指先はわずかに震えている。だが、彼女の目は鋭く、決意に満ちていた。


「直樹……私たちで、止めるしかないのよ。連鎖を……」

 小さな声で言いながらも、その声には揺るぎない意志が含まれていた。周囲の影や羽音が彼女の集中を妨げようとするが、真奈は恐怖を押し込め、目の前の資料に全神経を注ぐ。


 机の上には、発掘時に持ち帰った壺の写真、封印に関する古文書、そして蠱毒に関する伝承や呪言のメモが散らばっている。ページを開くたびに、呪言や図形が視覚に刺さり、微細な振動が指先を伝う。まるで蠱毒の力が資料の中に宿っているかのようで、息を整えなければ指先が震えて読めないほどだった。


「……ここに書かれている封印手順……単純じゃない……」

 真奈は眉をひそめ、ページを指で押さえながら考える。封印には、蠱毒の波動を逆流させる手順と、対象となる壺の状態を正確に制御する必要がある。もし少しでも手順を誤れば、連鎖はさらに強化され、犠牲者が増えるのは確実だ。


「真奈……どうするんだ?」

 直樹の声は震え、恐怖がその言葉に滲む。真奈は一度深く息を吸い、手を握りしめた。


「まず、壺の状態を正確に把握する必要があるわ。それから、封印手順を選択して……」

 彼女の声には、恐怖と不安を押し込めた冷静さが混じっていた。心の奥底では、美咲の逸脱や山下の惨状が絶えず胸を締めつける。しかし、次の犠牲者を防ぐためには、恐怖を押し込むしかなかった。


 直樹は資料の束を整え、メモを取り始める。封印の条件、手順、蠱毒の力の特徴――ひとつひとつを整理し、失敗の可能性を最小限に抑えるための計画を練る。微細な羽音は耳の奥で刺さり続け、影は壁や床で揺れ、室内全体が異様な緊張感に包まれていた。


「壺を中心にして、周囲の物を整える……蠱毒の波動を抑えられるかもしれない……」

 真奈は小さく呟き、資料に視線を戻す。手順をひとつずつ確認し、失敗のリスクを計算する。影の揺れや微細な羽音に注意を払いながら、次の行動を慎重に思い描く。


 外の廊下から、微かに羽音が響く。美咲の存在か、それとも蠱毒そのものか――判断はつかない。真奈は息を整え、背筋を伸ばし、直樹に視線を向ける。


「直樹……覚悟して。次にやることは、私たちで連鎖を止める唯一の方法よ。美咲も……助けるの」

 真奈の声には恐怖だけでなく、確固たる決意と責任感が込められていた。


 直樹は小さく頷き、二人は互いに深呼吸をしながら行動の準備を整える。壺を中心に据え、蠱毒の封印手順を確認し、次の段階へと進む――その瞬間も、微細な羽音と影の揺らぎは室内に残り、二人の神経を張りつめさせたままだった。


 真奈は資料を閉じ、手順の全体像を頭に描く。次に何をすべきか、どの順番で封印を進めるか――そのすべてが、今後の人間の生死を左右する重要な作業だった。影と羽音に脅かされる恐怖を抱えながらも、二人は行動の優先順位を明確に定め、封印への第一歩を踏み出そうとしていた。


 真奈と直樹は、壺の封印手順を確認した後、深刻な問題に直面していた。封印には符を描く術師の存在が不可欠であることを、資料と伝承を読み込むうちに悟ったのだ。


「……符を描ける術師がいないと、この封印は実行できない……」

 真奈は机に額を押し付け、ため息をついた。目の前に広がる資料は、文字と呪言の羅列で埋め尽くされている。羽音は微かに耳に残り、影の揺らぎが体をぞくりと走らせる。


 直樹は壁際で資料を抱え、頭を抱え込む。

「でも、どうやって探すんだ……現代で符を描ける人間なんて、簡単には見つからないだろう」


 二人はまず、現代的な手段で術師を探すことを考えた。検索エンジンや学術論文、古文書のデータベースを使い、呪術や封印の研究者、古代の秘術に詳しい人物を探す。


「……うーん、ヒットするのはほとんど民間伝承や古文書だけ……現代で実際に術を行える人間は、ほぼいないみたい」

 真奈は検索結果を眺め、画面を指で押さえる。古文書の解説や伝承の断片はあるが、実践的に符を描ける人物情報はほとんどなく、手掛かりはほぼゼロだった。


 直樹も頭を抱え、資料をめくる。

「仮に現代に術師がいたとしても、どこにいるかなんて……分からない。連絡も取れるかどうか……」

 二人は、ネット上の情報だけでは、蠱毒封印に必要な人材を見つけることは極めて困難だと理解する。


 さらに、電話やメールで問い合わせをすることも考えたが、呪術や封印に詳しいとされる人物は存在を秘匿している場合が多く、接触の可能性は極めて低い。情報は断片的で、過去の事例や伝承に頼るしかない。


「……これは……想像以上に厳しいわね……」

 真奈は窓の外を見上げる。暗い空の色は、室内の不穏さと恐怖を映し出すように重く、胸を締め付ける。羽音はまだ微かに響き、影は机や壁にわずかに揺れている。


「でも……諦めるわけにはいかない。犠牲者はもう出ているし、美咲も……」

 声には震えが混じるが、決意は揺らがない。二人は資料とネットの情報を駆使し、可能な限りの手段で術師を探し続けることを誓う。


 時間は刻一刻と過ぎる。昼が夜に変わり、研究室には机の蛍光灯の光だけが頼りとなる。画面の光に照らされる真奈の顔は険しく、直樹の肩は張り詰めたまま。手掛かりのない探索は、恐怖と焦燥感をさらに増幅させ、蠱毒の圧迫感を肌で感じさせる。


「……でも、何か方法があるはず……」

 真奈は目を閉じ、思考を整理する。ネットや論文では限界があることはわかっている。封印を可能にする術師を探すには、古文書や伝承を辿り、地域の民間知識や秘術を守る者に接触する必要があると考えた。


 研究室の空気は依然として重い。微細な羽音、揺れる影、冷気――すべてが蠱毒の存在を絶えず示唆している。しかし、二人は恐怖に押し潰されることなく、次の行動、つまり術師を探すための現地調査を模索し始めるのだった。


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