終章/怨嗟
藪知らずの森を後にする道中、夜風は冷たく湿っており、三人の背筋に小さな震えを残した。落ち葉の間に残る湿った痕跡は、蠱毒の瘴気が完全には消えていないことを示している。森は静寂に包まれているが、その静寂は決して安心をもたらすものではなかった。むしろ、闇の中で何かが潜み、再び襲いかかろうと待ち構えているかのような気配を漂わせている。
真奈は膝をわずかに折り、呪符を握りしめながら歩く。胸の奥にはまだ佐倉の声が残響として響き、恐怖と悲しみが混ざり合った不安が絶えず心を締めつける。視線を前方に向けても、森の闇の奥にかつて蠱毒が蠢いた痕跡を認めてしまい、体の震えは止まらない。
「……高橋さん、私、まだ……怖い……」
小さな声で呟く。理性では森を抜けたことを理解しているが、体は過去の記憶と結界に触れた恐怖を忘れられず、心の奥で戦い続けている。
高橋は横に立ち、額の汗を拭いながら真奈に短く頷く。声を出すことはせず、理論的に森を歩くことに集中する。だが内心では、蠱魂が残した瘴気の影、亡霊の形、十羅刹女の顕現の畏怖が未だに脳裏に焼き付いて離れない。
(もし、あの力がなければ……)
理性の奥で、最悪の事態が頭をよぎる。三人とも、今日一日の戦いの重みを知らず知らずのうちに共有していた。
白行上人は杖を肩にかけ、後ろから森を見渡す。彼の視線は常に警戒に満ちており、森の暗がりの微細な変化にも注意を向ける。蠱毒の残滓は完全に消えてはいない。空気の重み、落ち葉の異常な動き、枝の微かな揺れがすべて、潜在的な危険を示している。
「油断するな……蠱毒は影のように潜む。森から抜けても、まだ完全ではないぞ」
低く響く声が、二人の背中に重く圧し掛かる。言葉は警告であると同時に、精神的な支柱としての役割を果たす。
三人は互いに距離を保ちつつも、目を合わせ、森を抜ける道を慎重に進む。足音は落ち葉を踏むたびにかすかに響き、夜の静寂に反射して恐怖を増幅させる。森の奥に潜む瘴気の名残が、まるで意識を持ったかのように彼らの存在を追うように感じられる。
真奈は手の震えを抑えながら、思考を整理する。今日の儀式で得た経験、十羅刹女の顕現、蠱魂との戦い――それらは自分の心に深い刻印を残した。恐怖だけではなく、覚悟と決意もまた生まれていることを感じる。
高橋も同様に、理性で冷静さを保ちながら心の奥で恐怖を噛み締める。森の闇、蠱毒の残滓、亡霊の歪んだ姿――すべてが彼らの中に深く刻まれ、次なる試練への警戒心を強めていた。
白行上人は杖を握り直し、歩みを止めて深呼吸する。疲労と緊張で肩の筋肉が重い。森の奥深くに潜む危険を完全に消すことはできない。今日の儀式は勝利ではなく、あくまで一時的な抑制であり、蠱毒は依然として影のように潜む。
「……帰路も油断するな。森を抜けるまで、そして森を抜けた後も、警戒を怠るな」
その言葉には重みと責任が込められ、二人は頷くしかなかった。
三人は藪知らずの森をゆっくりと抜け、夜の冷気に包まれながらも、確実に安全圏へと向かっていることを感じた。しかし心の奥には、今日の経験が深く刻まれ、蠱毒の余波と、次なる試練への覚悟が静かに芽生えていた。
森を抜けた瞬間、夜風が冷たく顔を撫でる。静寂の中に風の音だけが響き、森の闇の重さは次第に薄れる。三人は足取りを確かめながら、しかし警戒を解かず、次なる試練への心構えを胸に抱き、藪知らずを後にしたのだった。
白行上人に深く礼を尽くした翌日、真奈と高橋は大学の研究室に戻った。
扉を開けた瞬間、静まり返った室内には昨日までの慌ただしさの残滓すらなく、ただ埃と紙の匂いだけが漂っていた。
真奈はまず、儀式で使用した蠱毒の壺と封印紙の置かれていた場所に視線を走らせた。だが、そこにあったはずの壺も封印紙も、跡形もなく消えていた。
高橋も同様に棚や机を探すが、何一つとして残されてはいない。
「……無くなってる……」
真奈の声は小さく、震えを帯びていた。理性では理解しても、胸の奥にはじくじくとした暗い不安がじわりと広がる。
高橋は言葉を発せず、ただ静かに部屋を見回す。理論的に考えれば、封印は十分に行われ、蠱毒の力は一時的に封じられたはずである。しかし、現実に壺と封印紙が消えているという事実が、理性だけでは処理しきれない不安を呼び覚ます。
二人は佐倉の自宅にも足を運んだ。だがそこでも、壺や封印紙は一切発見されなかった。
そのとき、真奈は胸の奥に冷たい感触を覚えた。昨日の儀式の成功を思い出すと同時に、何かが潜んでいる――潜みながら時を待つ蠱毒の気配が、霧のように心を覆う。
「……今回はうまく退けられたけど……」
真奈は呟く。声に含まれるのは安堵だけではなく、深く沈んだ不安だった。壺は未だ、どこかで静かにその時を待っているに違いない。いずれまた、予期せぬ形で現れるのではないかという恐怖が胸を締め付ける。
テレビのニュースが部屋の片隅で静かに流れる。戦争の報道が画面を占め、破壊の映像が続く。燃え上がる街、避難する人々、叫び声が交錯する映像に、真奈はふと口を開いた。
「……まるで蠱毒みたい……」
その声は小さく、しかし意味深に、部屋の空気を震わせる。人間の争い、憎悪、悲しみ、それらがまるで蠱毒の瘴気のように広がり、世界そのものを蝕むかのようだという感覚。
高橋はそれを静かに聞いていた。声を出すことはなかったが、胸中は真奈と同じだった。テレビに映る戦争の影像は、まるでこの地球自体が蠱の争いを繰り広げているかのように見えた。
(この世界が、蠱毒のように……増幅する力を持つ存在だとしたら……)
高橋は心の奥で思う。人間の欲望、憎悪、争い、絶望――それらが集まり、増幅され、世界を覆う強大な蠱毒となるかもしれない。昨日の儀式で退けた小さな壺の蠱毒とは比較にならないほど強大な存在として、次なる災いをもたらすに違いない。
二人は画面を見つめながら、静かに息をつく。胸の奥には昨日の儀式の余韻と、蠱毒が未だ潜む不安が入り混じる。安堵と恐怖、祈りと覚悟、希望と絶望――それらが入り混じり、心の奥で複雑に渦巻いていた。
「……でも、私たちには、やるべきことがある……」
真奈は拳を握りしめ、わずかに頷く。高橋も視線を前方に向け、息を整える。世界の脅威はまだ遠く、しかし確実に存在する。昨日の藪知らずの森で得た経験は、三人の心に新たな覚悟を刻みつけていた。
暗い不安は胸に残る。しかし、蠱毒の危険を知り、世界の脅威を理解した今、二人は次の行動へと心を向けるしかなかった。
森の奥で眠る蠱毒の影は静かに息を潜め、時を待つ。その存在を想像しながら、二人は深く息をつき、研究室を後にした。
伝承シリーズ第三弾として執筆した蠱毒の話、いかがだったでしょうか?
ホラーマニアなら一度は聞いたことのある蠱毒の壺の話
私なりの解釈で書いてみました。
この伝承シリーズでは実際の地名を出す初めての試みとなりましたが、題材が題材なため苦情が来ないか?という変な心配をしておりますが、実際の八幡の藪知らずは現在立ち入り禁止なので発掘調査等を行うことは出来ません。
もし、読者様の中に興味本位で八幡の藪知らずに立ち入ったならば、蠱毒の壺を発見するやもしれませんが、決して開いてはいけません。
伝承には虚実が入り交じっているものです。
皆様ご注意下さい......