第十一章/蠱魂
白行上人の声が、藪知らずの闇に低く響いた。
「あの者、蠱毒を使い、足りぬ知識で呪い返しを行ったな!」
その言葉を聞いた瞬間、真奈と高橋は思わず息を飲んだ。血の気が引き、胸の奥に冷たい震えが走る。
「……な、何ですって……」
真奈は言葉を震わせながらも、亡霊となった佐倉の姿を見据える。
その手には、小さな壺が握られ、瘴気が蠢いていた。壺の中の蠱毒は生きているかのようにうねり、闇の中で光を帯びている。
高橋も黙って呆然とする。理知的な彼でさえ、これほど明白な危険と狂気を前にすれば、言葉が出なかった。
白行上人は杖を地面に突き、ゆっくりと経文を巻き上げる。
高橋は誰にともなく叫ぶーー
「佐倉は、研究室に残されていた壺と封印紙を用い、己を守ろうと蠱毒を操った。しかし……その結果、蠱は制御を離れ、呪いの連鎖を生んだ」
真奈の手が震える。
「……私たち、これで……どうなるんですか……?」
白行上人は彼女を見つめ、静かに、しかし容赦なく言葉を重ねる。
「呪い返しの意図は、己の死を恐れる心に根ざしておる。佐倉は生き延びるため、蠱毒に縋ったのだ。しかし、蠱は己を守るだけでなく、環を拡げる。怨念と呪いの網を広げ、より強大な瘴気を生み出した」
その場に漂う瘴気は、ただの湿った土や闇とは異なり、冷たく、ねっとりとした圧迫感を持って三人を取り巻いている。まるで藪そのものが、蠱の意志を帯びて蠢いているかのようだった。
「……つまり、佐倉さんは自分を守ろうとして、逆に蠱を強めてしまったってことですか……」
真奈の声には恐怖と絶望が混じる。
白行上人は深く息を吐き、杖の先で地面を軽く叩く。
「その通りだ。蠱毒は己を守る道具ではなく、常に代価と連鎖を伴う。彼女の無知と恐怖が、この地に新たな呪いの連鎖を刻んだのだ」
高橋は視線を壺と封印紙に向け、声を絞り出す。
「……これ、もう……制御できるんですか?」
白行上人の瞳が暗く沈む。
「制御は可能だ。しかし……容易ではない。封じるには、己の命と魂の覚悟が必要だ。恐怖と罪悪感を抱えたままでは、蠱毒は我らを呑み込む」
真奈はぎゅっと手を握りしめ、心の中で誓った。
(佐倉さんを……あのままにしてはいけない。呪いを断ち切らなければ……)
高橋も無言で頷く。
「覚悟を持って進むしかない。逃げ場はない」
白行上人は再び杖を握り直し、呪符を手に取った。
「ならば行くぞ……この呪いの連鎖を断つため、全てを懸けるのだ」
森の闇は深まり、藪知らずの空気はますます重く、三人を取り囲む。
佐倉の亡霊は壺を抱え、なおも笑い狂う。
その声は、蠱毒の胎動と共鳴し、次なる試練がいかに過酷であるかを告げていた。
三人は顔を見合わせ、互いの意志を確かめ合った。
恐怖を抱えながらも、進むべき道はただ一つ――呪いを断ち切る儀式へ、深き藪知らずの奥へと踏み込むことだった。
白行上人は杖を軽く地面に突き、呪符を手に取り、ゆっくりと周囲を清め始めた。
「この壺……佐倉が自身を守ろうとした蠱毒は、もう制御を超えておる。呪い返しの代償は我らの覚悟を試す」
その言葉に、真奈は背筋を震わせた。
「覚悟……私たちも……命を賭ける……?」
高橋は黙ったまま頷く。
視線は壺と、壺から蠢く瘴気の動きに釘付けだ。壺は微かに光を帯び、中で蠱が生き物のように蠢いている。手を伸ばしただけで瘴気が指先に絡みつく感覚があった。
白行上人は経巻を広げ、低く、ゆっくりと唱え始める。
その声は藪知らずの闇に吸い込まれるように消え、しかし確かに瘴気を押し返している。壺の中で蠱が狂ったように動き、光が渦を巻く。
「これが……蠱毒の真の力……」
真奈の声は震え、言葉にならなかった。恐怖と畏怖が心を支配する。
高橋もまた、立ちすくむしかない。
「……もし暴走したら、俺たち……」
言葉を飲み込み、覚悟を固める。命の危険が目前にあることを、理性だけでは押し止められなかった。
白行上人は杖を叩き、呪符を壺の周囲に置くと、さらに深く経を唱える。
「佐倉殿よ……お主の恐怖も、執着も、これで鎮める。蠱毒よ……その連鎖を止めよ……!」
壺の中の蠱が暴れ、幽かな叫び声が森全体に響く。瘴気は渦となり、三人の周囲を包み込む。真奈は手を握りしめ、意識を白行上人に集中させる。
高橋も同様に、呼吸を整え、決して視線を外さない。
数刻の沈黙。
そして、壺の蠢きが徐々に収まり、瘴気の渦が弱まっていく。
白行上人は杖を下ろし、静かに息を吐いた。
「……これで一段落。だが、完全に封じられたわけではない。蠱毒の力は、まだ地に潜み、我らの覚悟を試すであろう」
真奈は膝から力が抜け、地面に崩れ落ちそうになる。
「……でも……でも、少し……静かになった……」
高橋も安堵の息を吐く。
「壺の力……押さえ込めたんだな……」
白行上人は二人を見回し、淡々とした声で言った。
「これが呪い返しの代償である。佐倉は己を守ろうとした。しかし、蠱毒の連鎖はさらなる呪いを生む。恐怖、執着、無知……それら全てが蠱を増幅させたのだ」
藪知らずの闇は、なおも重く、静かに三人を取り囲んでいる。
だが今、確かに一歩前に進む道が開けた。恐怖は消えない。だが、それを抱えたままでも儀式は進められる――白行上人の指導のもと、真奈と高橋は覚悟を胸に固めた。
三人は顔を見合わせ、互いの目に宿る恐怖と決意を確認した。
この闇の中で、次に何が現れようとも、彼らは立ち向かう覚悟を持っている。
佐倉の亡霊も、壺も、蠱毒も――すべてを断ち切るために。
白行上人は立ち上がり、杖を握り直すと、深く息を吸った。
「よいか……蠱毒の連鎖を断つには、ただ力を加えるだけではいかん。心を鎮め、十羅刹女の誓願と共に己を清めるのだ」
真奈と高橋は息を呑む。耳に残るのは、佐倉の亡霊の囁きと、壺の中で蠢く瘴気の不気味な音。壺は微かに光を帯び、まるで生き物のように震えている。
白行上人は懐から経巻を取り出し、長く息を吐きながら巻物を広げた。墨の匂いと古い紙の手触りが、森の湿気と混ざって独特の空気を生む。
「まずは血をもって呪符を描く。己の命の印を以て、瘴気を封じるのだ」
真奈と高橋は顔を見合わせ、覚悟を固める。震える手を握りしめ、互いに小さく頷いた。
白行上人は自らの掌を切り、滴る血を墨に混ぜ、呪符を描き始める。墨は赤黒く染まり、紙の上で渦を巻く。
「これが……十羅刹女の誓願と合致すれば、瘴気は押さえ込まれる」
壺の中の蠱毒が暴れ、青白い光を散らす。亡霊の笑い声が、森の奥から渦を巻くように響く。
「……恐ろしい……」真奈は心臓が張り裂けるかと思う。
高橋も、額に冷や汗を滲ませながら、呪符の描かれる手元を凝視する。
白行上人の経が次第に高まり、声は森全体に反響した。紙の上で赤黒い墨が波打つように動き、まるで生きた文字が蠱毒に抵抗しているかのようだった。
壺の中の瘴気は、渦を巻きながら次第に光を弱め、亡霊の姿も僅かに揺らぐ。
「……効いている……」
高橋は小さく息をつき、真奈も同様に膝の力を入れ直した。恐怖は消えない。しかし、希望の光も確かに見える。
白行上人は額に汗を滲ませながらも、筆を走らせ続けた。
「……これで、呪い返しの壺と蠱毒の瘴気を封じる。だが油断するでない……蠱毒は己の意志ではない。連鎖の力はまだ残っておる」
亡霊は壺を抱え、なおも微かに笑いを漏らす。しかし、かつてのような狂気の蠢きは薄れ、僅かな影のように揺れるだけになった。
真奈と高橋は、恐怖の色を滲ませながらも、白行上人の儀式に寄り添い、心を研ぎ澄ます。
「……このまま封じれば、佐倉さんも、蠱毒も……少しは落ち着く……のか」
真奈の声は震えたが、そこには決意も混じっていた。
白行上人は最後の一筆を走らせ、墨が乾く間もなく経を唱え続ける。
その瞬間、壺の中の蠱毒がかすかに痙攣し、そして静かに沈黙した。亡霊の姿も、霧のように薄れ、やがて森の闇に溶けていく。
静寂が訪れた。藪知らずの闇は重いままだが、少なくとも呪い返しの暴走は一時的に封じられた。
三人は互いに目を合わせ、恐怖を抱えながらも、儀式が一段落したことを理解した。
「……終わった……のかな」真奈が小さく呟く。
「いや……まだ先は長い。だが、確実に前には進めた」白行上人の声には疲労が滲むが、揺らぎはなかった。
藪知らずの深い闇の中、三人は次の段階――蠱毒の根源を断つため、さらに奥へ進む覚悟を胸に固めた。
白行上人は呪符を握り直し、深く息を吐いた。
「……あれは、既に蠱の魂のような存在〈蠱魂〉となっておる。一筋縄には行かぬぞ」
真奈と高橋は息を呑んだ。先ほどの封印によって壺の暴走は抑えられたものの、白行上人の言葉はさらなる恐怖を呼び覚ます。
「蠱魂……?」真奈の声はかすかに震える。
「蠱毒の霊体化……生き延びた佐倉の意志と、蠱の瘴気が混ざり合い、独自の魂を得たものだ」
白行上人の言葉は重く、森の闇に溶けていく。
高橋は壺の残る場所を見つめながら、冷静に計算を巡らせる。
「……つまり、あの亡霊はもう人間ではなく、蠱そのものの意志を帯びている、と」
白行上人は頷き、杖を地に突きながら続けた。
「十羅刹女の力を持ってしても、この蠱魂を退けられるかどうかは分からぬ。力の及ばぬこともあるという覚悟を持たねばならぬ」
真奈の心はさらに重く沈む。先ほどまでの恐怖が、さらに奥深くに染み込んでいくようだった。
「……それでも……やらなければ……」
震える声で言う彼女の瞳には決意が宿る。
高橋も唇を引き結び、頷いた。
「覚悟はできている。だが……命を賭ける覚悟だけでは足りない。精神と魂を清め、十羅刹女の誓願と完全に同調する必要がある」
白行上人は杖を握り直し、経を低く唱えながら森の闇を見据えた。
「よいか……蠱魂は生半可な力では押さえ込めぬ。その意志は強く、怨念も濃い。だが、我らには覚悟と誓願がある。これをもって挑むのだ」
真奈と高橋は互いに顔を見合わせる。恐怖の色が濃く滲むが、それ以上に、己たちの覚悟が強く根を下ろすのを感じた。
森の奥、蠱魂の潜む闇は、まるで次なる試練の前触れのように、静かに揺れながら彼らを待ち構えていた。
白行上人の目は、闇に沈む蠱魂を見据えつつも、揺らぐことなく光を帯びていた。
「これより先は、己の命だけでなく、魂も懸ける儀式となる……覚悟はよいな?」
真奈と高橋は、恐怖を胸に抱えつつも、強く頷いた。
藪知らずの闇の奥で、蠱魂との決戦の幕が静かに開かれようとしていた。