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第十章/蠱の瘴気

 月は雲間に隠れ、夜道は底の見えぬ闇に沈んでいた。

 白行上人を先頭に、真奈と高橋は提灯の微かな光を頼りに山道を進んでいた。草いきれと湿気の重さが肌にまとわりつき、遠くからは梟の声が時折響く。


 藪知らず――その名を思い浮かべるだけで、真奈の足は鉛のように重かった。

 あの禁忌の森に足を踏み入れれば、もう後戻りはできない。

 そのことを理解しているからこそ、三人の間に流れる沈黙は長く、重い。


 やがて高橋が、堪えきれぬように口を開いた。

「……佐倉のことだが」


 真奈は息を呑んだ。その名を口にするだけで、あの光景が鮮烈に蘇る。

 ズタズタに食い荒らされた骸。

 肉を抉る音、蠢く群れ。

 そして、亡霊となって現れた彼女の呻き声。


「……あの顔、まだ瞼の裏から離れないんです」

 真奈の声は震えていた。

「助けてって……言ってました。あれはもう佐倉さんじゃないって、分かってるのに……でも、声は……声だけは、本当に彼女のものだった」


 高橋は深く俯き、眉間に皺を刻んだ。

「俺も……耳に残ってる。あれは呪いに操られた声だと頭では理解してる。それでも……あの呻きは、俺たちが彼女を救えなかった事実を突きつけているようで……」


 言葉は途中で途切れた。

 理性的な彼でさえ、罪悪感に蝕まれているのは明らかだった。


 白行上人が立ち止まり、振り返った。提灯の灯りが彼の顔を半分だけ照らし、深い皺がさらに濃く浮かび上がる。


「恐怖は当然のこと。無理に払うな。それは心が生きておる証でもある」


 静かにそう告げたが、その声の奥には哀しみがあった。

 まるで、弟子や仲間を幾度も失ってきた者だけが持つ響きのように。


 真奈は震える唇を噛んだ。

「……でも、怖いんです。もしまた佐倉さんの亡霊が現れたら……今度は、私、耐えられる自信がありません」


 高橋は彼女の言葉に応えるように、ぎゅっと拳を握った。

「俺たちの恐怖は、蠱に利用される。奴らは心の隙を喰らう。……だからこそ、恐怖を抱いたままでも進まなきゃならないんだ」


 言い終えた高橋の声には、揺らぎと決意が混在していた。

 それは理性の男が無理やり自らを奮い立たせようとする姿でもあった。


 白行上人は提灯を掲げ直し、前を向いた。

「佐倉殿の魂は退魔の火に焼かれ、縛りは解けた。だが彼女が本当に安らぎに至ったかどうか……それは分からぬ」

「……」

「お主らが恐怖と共に歩むことこそ、彼女への供養ともなるであろう」


 その言葉は、真奈と高橋の胸に重く沈んだ。


 山道の奥から、ざわりと風が吹いた。木々がざわめき、枝葉がぶつかり合い、まるで無数の羽音のように響いた。

 真奈は思わず耳を塞ぐ。

「……今の音……」

「気にするな、風だ」高橋はそう言ったが、声はかすかに震えていた。


 三人は再び歩き始めた。

 やがて視界の先、森の中にぽっかりと空いた暗がりが見えてくる。

 そこが――八幡の藪知らず。


 その名が示す通り、一度足を踏み入れた者は帰ることができないと伝えられる禁忌の地。

 ただの闇ではなく、底の見えない口のように、三人を迎えようと開いていた。

 三人は藪知らずの手前で立ち止まった。

 その場所だけ、時間が歪んだかのように静まり返っている。先ほどまで鳴いていた梟の声も途絶え、風すら止んだ。闇は淀み、森は沈黙して彼らを見つめ返しているようだった。


 真奈は息を詰め、提灯の光に照らされた高橋の横顔を見た。彼の頬には疲労の影が色濃く刻まれている。それでも瞳には、怯えと共に揺るぎない覚悟が宿っていた。

 白行上人は杖を地に突き、長い白眉を揺らしながら静かに森を見据えている。その背中には年老いた僧であるはずなのに、どこか巨大な影を背負ったような威圧感が漂っていた。


「ここから先が――」高橋が口を開き、言葉を区切った。

「本当の地獄ですね」


 真奈は小さく頷く。喉が渇き、声が出にくい。だがこの瞬間だけは、逃げ出したいという本能を押し殺してでも言葉にしなければならなかった。

「でも……もう後戻りはできません。佐倉さんのためにも。……それに、ここで立ち止まったら、きっと私、ずっと後悔して生きることになる」


 彼女の言葉に、高橋はわずかに目を伏せ、そして真っ直ぐに真奈を見返した。

「俺も同じです。……恐怖は消えない。でも、消す必要はないのかもしれない。怖さを抱えたまま、それでも進む。それが俺たちにできる唯一の答えだ」


 二人のやり取りを見ていた白行上人は、深く一度目を閉じ、静かな声で言った。

「良い覚悟だ。わしらは皆、恐怖を抱えた人間にすぎぬ。だが、それゆえにこそ祈りも、誓いも、届くのだ」


 そして、上人は二人を交互に見つめた。

「忘れるでない。藪知らずに踏み入るということは、己の命を差し出す覚悟を問われることと同じ。……最悪の場合、三人ともここで果てるやもしれぬ」


 真奈の胸がぎゅっと締め付けられる。だがその言葉は恐怖を煽るのではなく、むしろ彼女の心を研ぎ澄ませた。

 高橋もまた、力強く頷いた。


 次の瞬間、三人は自然と互いの顔を見合わせた。

 真奈の目には恐怖の影が、しかしその奥に消えぬ意志が燃えている。

 高橋の瞳は揺れながらも鋭く前を向き、白行上人はその二人を包み込むような静けさを湛えていた。


 短い沈黙。

 やがて三人は同時に、深く頷き合った。


 ――意は決した。


 藪知らずの闇は、まるでその決意を待ち構えていたかのようにざわりと震え、冷たい風が森の奥から吹き出した。

 それは招き入れる声なのか、それとも拒む呻きなのか。

 判別はできない。だが、三人は一歩を踏み出した。

 三人が互いに頷き合ったその瞬間、八幡の藪知らずの前に漂っていた闇は、まるで生き物のように蠢き始めた。低い唸り声のような風が吹き込み、提灯の炎がぐらりと揺れる。


「……行きましょう」

 真奈の声は震えていたが、その眼差しは逸らさなかった。


 白行上人が先頭に立ち、錫杖を軽く地面に打ち鳴らす。澄んだ金属音が夜気を切り裂き、まるで結界を叩き割る合図のように響いた。その後ろに真奈と高橋が続く。


 足を一歩踏み入れた瞬間、空気はがらりと変わった。背後の町から漂っていた生活の匂いは掻き消え、湿った土と苔の匂い、そして鉄錆にも似た重苦しい臭気が鼻腔を突いた。


「……ここ、本当に日本なのか……?」

 高橋が息を呑む。


 藪の中は、外から見ればただの林に過ぎなかったはずだ。しかし中は異様に広がり、ねじれた木々が壁のように絡み合い、足元は黒ずんだ泥に覆われていた。遠くから水滴の音がぽたり、ぽたりと響くが、どこから落ちているのか見えない。


 真奈は背筋を這う寒気に、思わず高橋の袖を掴んだ。

「ここ……何かが、待っている」


 白行上人は振り返らず、ただ前を見据えたまま低く言った。

「蠱毒の呪いは、この地に根を下ろしておる。すでに我らはその胎内に踏み込んだのだ」


 歩を進めるごとに、木々の間からかすかな囁き声が漏れる。男とも女ともつかぬ声で、意味のある言葉ではなく、ただ湿った空気を擦るような響き。

 真奈は心臓が早鐘を打つのを抑えきれず、息が浅くなる。


「聞こえますか……声……」

「幻聴だ」高橋が答える。「振り向くな」


 しかし次の瞬間、真奈の視界の端を、白いものが横切った。

 振り向きそうになるのを必死に堪える。だが、確かに見えた――破れた白衣、泥に塗れ、肉を喰われた佐倉の顔。


「っ……!」

 喉から声が漏れ、真奈は口を押さえた。


 白行上人が振り返り、二人を見据える。

「惑わされるな。これは蠱の影。だが……ここからが正念場だ」


 彼は懐から一枚の呪符を取り出し、泥の地面に押し付けるようにして梵字を描いた。次の瞬間、地表から淡い光が立ち上り、三人の足を守るように円を描いた。


「……進もう」


 三人は再び顔を見合わせた。恐怖は消えない。むしろ濃くなる一方だった。

 だが、それでも――彼らは踏み出した。


 八幡の藪知らずの闇は、なおも彼らを呑み込み続けていた。

 藪知らずの奥へと進むにつれ、三人の足取りは次第に重くなった。

 まるで地そのものが彼らの体力を吸い取るかのように、泥は粘りつき、木々は絡み合い、道という道を覆い隠していた。


「……外から見れば、あんなに狭い林だったのに」

 真奈は息を切らしながら呟いた。


 だが誰も否定できなかった。

 現に、歩いても歩いても同じ風景が続き、四方は鬱蒼とした樹々と黒い蔦に塞がれている。空は見えず、月光すら届かない。提灯の光だけが頼りだった。


 ふと、高橋が立ち止まった。

「……地面が、動いてないか?」


 真奈も目を凝らす。足元の泥が、かすかに蠢いていた。最初は水泡が弾けるのかと思った。だが次の瞬間、泥の中から細かな白い幼虫のようなものが這い出してきた。数は瞬く間に増え、蠢き合い、泥全体がざわめく。


「ひっ……!」

 思わず後退る真奈の腕を、高橋が掴んで引き寄せる。


 白行上人は冷静に錫杖を振り下ろした。鈍い音と共に金属音が鳴り響く。

 その響きに怯むように、幼虫たちは泥の中へと再び沈んでいった。


「……蠱毒の気配が強まっておる。ここはすでに、呪詛の胎内よ」

 白行上人の声は低く沈み、しかし微塵も揺るがなかった。


 三人は息を整えながらさらに進む。

 やがて木々が途切れ、ぽっかりとした広場に出た。

 そこは円形に開けた空間で、中央には巨石が鎮座していた。石の表面は苔むし、しかしところどころに古い刻印が残されている。


 真奈は目を凝らして読み取ろうとした。

「……これは……結界の……印?」


「古代の呪術師が、この地を封じようとした痕跡だろう」高橋が低く答えた。「だが、完全には封じられなかった」


 白行上人はその巨石の前に進み出ると、袈裟の袖から経巻を取り出した。

「ここがよい。ここで儀式を始める」


 三人は荷を下ろし、呪符や供物を並べ始めた。

 真奈は震える手で白布を広げ、供物の米と塩を置いていく。

 高橋は周囲に浄塩を撒きながら、視線を絶えず森の影へと走らせていた。

 白行上人は巨石の前に座し、墨を磨り始める。その動作は一切乱れがなく、まるで時間そのものを鎮めるような静けさを帯びていた。


 しかし、森は静まらなかった。

 闇の奥から、羽音が重なり合って近づいてくる。低い呻き声が風に乗り、女のすすり泣きのようにも聞こえた。


 真奈の心臓は喉元までせり上がり、吐息が震える。

(佐倉さん……?)


 次の瞬間、広場の奥の闇が裂け、そこに――ズタズタに喰われた佐倉の亡霊が立っていた。

 広場の闇に立つ佐倉の亡霊は、ズタズタの姿でなお生前の輪郭をかすかに留めていた。肉は蠱に喰われ、骨ばかりが浮かび上がったその身体が、淡い月光のような幽色で森を揺らす。


 白行上人は深く息を吸い、杖の先を地面に軽く突きながら低く呟いた。

「……これはひとつの壺だけの蠱では無いぞ……」


 その声には緊張と共に、深い警戒が滲んでいた。

 高橋と真奈も固唾を飲む。亡霊の瞳は、肉体の破損にも関わらず、かつての人間の光を帯びていた。


「佐倉という者……何をした?」

 白行上人の問いは、低く、しかし鋭く響く。


 亡霊はかすかに身体を揺らし、低い声で囁く。

「……死にたくないから……私は、そうした……」


 真奈の胸がざわつく。耳の奥で、かすかな羽音と蠱の気配が重なり、鳥肌を立たせる。

「……何をした?」

 再び白行上人が問いを重ねる。


 すると亡霊は、笑い声をあげ始めた。低く、歪んだ笑いが広場に反響する。

「ここ……コレ……コレ……コレよぉぉぉぉ……」


 その手に、小さな壺が握られていた。かつて佐倉が使い、蠱の媒介となった壺である。壺は汚れ、瘴気を帯びてかすかに蠢き、まるで生き物のように震えていた。


 白行上人は眉を寄せ、呪符を握り直す。

「……呪い返しを行ったのか?」


 亡霊は壺を揺らしながら、もはや人間の悲痛よりも蠱毒に支配された狂気を帯びて笑う。

「そうよ……私が……生き延びたくて……でも、もう……誰も止められない……」


 空気が凍りつくように、三人はその狂気の震えに押し潰されそうになる。

 真奈は震える手を握りしめ、呪符の準備を思い出す。高橋も鎧のように背を伸ばし、亡霊を視界から外さずに立つ。


 白行上人は深く息を吐き、地面に座し直すと、経を低く唱え始めた。声は風に溶け、蠱の瘴気を震わせる。

「佐倉殿よ……その執念も怨念も、ここで終わらせねばならぬ……」


 亡霊は壺を抱えたまま、狂ったように揺れる。

「終わらせ……ない……止められない……」


 白行上人の唱えはさらに強くなり、周囲の空気を揺らす。地面からは淡い光が立ち上り、呪符の力が結界を張るように広がっていく。


 三人は固唾を呑み、恐怖と戦いながら儀式の最初の段階を迎えた。

 佐倉の亡霊は、壺と共に蠱の瘴気を振りまき、まだこの夜の試練の序章にすぎないことを告げているかのようだった。


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