第一章/壺
斎藤 真奈
主人公。大学院生・民俗学専攻。知識豊富で好奇心旺盛だが、恐怖に敏感。
高橋 直樹
大学の考古学研究者。発掘隊リーダー。理論的で冷静。
佐倉 美咲
大学の研究助手。情報管理・文献整理担当。冷静だが感情表現が乏しく、孤立しがち。
藤原 翼
大学生・アルバイト助手。好奇心旺盛で軽率。
山下 雄介
大学警備員・元自衛官。現場監視担当。逞しいが神経質。
千葉県市川市――八幡の藪知らず。
江戸時代からの禁足地として知られるこの藪は、昼なお薄暗く、迷路のように入り組んでいた。土と枯れ葉の匂いが鼻をつき、ところどころに倒木や根の張った急斜面が絡み合う。斎藤真奈は息を整えながら、湿った落ち葉を踏みしめた。靴底に泥が張り付き、歩くたびにかすかな音を立てる。
「気をつけろ。足元が滑りやすい」
前方の高橋直樹が竹竿で地面を突きながら警告する。直樹の声には理知的な落ち着きがあるが、木々の間から漏れる日差しのわずかな揺らぎが、彼の顔を時折陰影で歪ませる。
真奈はふと、藪の奥からかすかに聞こえる、乾いた羽音のような音に耳を澄ます。虫の羽音か――いや、何か別の、得体の知れない何かが藪の奥で息をしているような気配だ。風はほとんどなく、木々の葉も静止しているのに、音だけが遠くから近づいてくる。
佐倉美咲が落ち着いた足取りで直樹の横に並ぶ。手には厚手の手袋をつけ、古文書や土器の扱いを想定して用意した小道具を持っている。
「ここ、地面が柔らかいですね……古い土が層になっている」
美咲の声は平坦だが、眉の端にわずかな緊張が走っていた。彼女は土の匂いを嗅ぎ、湿り気の度合いを指先で確かめる。藪は単なる自然の場所ではなく、長年人が近づかなかったために何か“封じられた記憶”を抱えているように思えた。
藤原翼はその隣で、先に進みたがる気配を隠そうともしない。
「うわ……なんか、雰囲気やべえな」
彼の声は無邪気さを装っていたが、実際には背中がぞくぞくと寒気に包まれている。斎藤も同じ感覚を覚えていた。藤原は興味と恐怖が入り混じった表情で、藪の奥をじっと見つめる。
山下雄介は最後尾を固める形で歩いていた。元自衛官らしく逞しい体躯をしているが、細い指で持つ懐中電灯の光が、藪の闇に吸い込まれて頼りなげに揺れる。
「……何も起きないさ。大丈夫、ただの藪だ」
彼は自分自身に言い聞かせるように声を出す。しかし真奈は、その声にかすかな震えを感じた。理屈では説明できない、藪そのものが息をしているような気配があったからだ。
足元に突き出た根や倒木を避けながら、調査隊は進む。風に葉が触れる音、枝がこすれる音、遠くの鳥の鳴き声さえも、耳に刺さる異様さを帯びていた。藪の奥、日差しの届かない場所には、かすかに湿った土の中に何か固形物が混ざっているのが見えた。
直樹が竹竿で土を掘ると、微かに“カンッ”と金属に近い音が響く。
「……ここだ」
彼は声を潜め、慎重に土を掘り返す。真奈は息を呑む。周囲の空気が重く、まるで藪全体がこの発掘をじっと見守っているかのようだ。
ついに現れたのは、小さな青黒い壺。釉薬は土に埋もれていたにもかかわらず、無傷で封印されている。蓋はしっかりと閉じられ、触れても何の異変も起きない。だが、静寂は不気味に重く、微かに冷たい空気が壺の周囲を漂っている。
その脇には、複数の巻物や古文書が無造作に散らばっていた。美咲が手袋を滑らせ、古文書の表面に指先を這わせる。文字は虫食いに近いが、蠱毒の手順を示す記号のようなものも混じっている。
「……これは……儀式の手順?」
美咲の声に、一瞬5人の間に静寂が走る。
藤原が壺に手をかざす。指先が冷たい陶器に触れた瞬間、背中にぞくりとした感覚が走る。
「やっぱ……何かおかしい」
山下が後ろから声を掛けるが、真奈は耳の奥に微かに羽音のようなものを聞き取る。風はない。葉も揺れない。だが、藪の奥深くで何かが蠢いている……そんな錯覚に囚われる。
真奈は深呼吸をし、壺を見つめる。無傷で封印された壺は、ただ静かにそこにあるだけだ。しかし、胸の奥に重くのしかかる予感――この壺と文献が、これから都市全体に広がる呪いの連鎖の起点となるという嫌な予感――を、斎藤は否応なく感じていた。
藪の静寂は、今まさに開かれようとする扉を、じっと待っているかのようだった。
八幡の藪知らずでの発掘を終え、5人は収穫物を抱えて最寄りの駅へと歩いた。湿った落ち葉の匂いと、藪特有の重苦しい空気はようやく遠ざかり、街路の車の音や人の喧騒が戻ってくる。だが、真奈は胸の奥にまだ残る寒気を押さえきれなかった。
「いやあ、今日は大収穫だな」藤原翼が声を張る。小さな壺を手に、得意げに振り回しそうな勢いで笑う。
「この藪に何百年も埋まっていたんだぞ。まさか、俺たちが最初に手にするとは」
高橋直樹も笑みを浮かべ、竹竿や発掘用のスコップを持ちながら軽く頷く。
「壺の保存状態も極めて良い。文献も併せて、論文のネタには事欠かないな」
佐倉美咲は静かに巻物を抱え、座席に腰を下ろす。薄暗い車内の蛍光灯の光を受け、紙の表面に刻まれた文字が淡く浮かび上がる。彼女は言葉少なにページをめくる。
「……これ、かなり古い……。儀式の手順が細かく記されている……」
その声に、藤原はふざけ半分で覗き込む。
「へぇ、文字だけでも不気味だな。虫食いみたいな感じもしてるし」
美咲は眉をひそめ、ページを閉じる。
山下雄介は車内のドアに寄りかかり、周囲を警戒するように目を走らせた。普段は逞しい体躯で安心感を与える存在だが、心のどこかで八幡の藪知らずで感じた得体の知れない気配を思い出していた。
「……ま、ただの土器だ。大丈夫、危険なものじゃない」
自分に言い聞かせるように呟く。だが、真奈はその言葉にかえって不安を募らせた。
列車が走り出すと、窓外を都市の景色が流れていく。ビルの影が傾き、道路には人々が行き交う。都市の喧騒は、藪の中で感じた異様な静けさとは正反対の世界だ。だが、真奈にはまだ胸の奥で、何かが蠢いているような感覚が残っていた。
文献に目を落とす。細かく描かれた虫や小さな動物、呪術の手順……それを読むたび、発掘現場で感じた藪の空気の重さが蘇る。風の止まった木々のざわめき、羽音のような微かな囁き、壺の青黒い光沢……。
「なぜか、あの瞬間の空気が頭から離れない……」
真奈は小声でつぶやき、ページをめくる手を止める。誰も耳を傾けてはいなかった。藤原は文献の隣でふざけていたし、直樹は発掘の成功に浮かれている。美咲も紙の文字に集中し、山下は車内の安全確認に目を配っていた。
それでも、真奈の心に残る得体の知れない予感は消えなかった。壺が無傷で封印されたこと、藪の静寂の中で息をしていたような異様な気配……。
都市へと向かう列車の振動と金属音が、まるで壺の中の虫が這い回るかのように真奈の耳に響く。
「……これが、ただの土器だと……本当に思えるのか?」
そう自問した瞬間、真奈は小さな震えを覚えた。だが、周囲は普段通りの車内の雰囲気だ。まだ呪いは、静かに、しかし確実に息を潜めていた。
列車がトンネルを抜けると、窓の外には都市の光が一斉に広がる。灯りは眩しく、どこか温かくも見える。
しかし、真奈にはその光さえ、壺の中の闇が反響しているような感覚として映った。
この壺と文献が、都市全体に蠱毒の連鎖をもたらす前兆――それだけは、確かな気配として彼女の胸に刻まれていた。
大学に到着した時、夕暮れのキャンパスは柔らかいオレンジ色の光に包まれていた。発掘の成果を抱えた5人は、研究室に入るなり机の上に壺と文献を置き、思わず笑みを浮かべる。
「いやあ……これだけの発掘、久しぶりだな」
藤原翼が壺を軽く持ち上げ、机の上でくるくると回す。彼の目は好奇心で輝き、まるで宝物を手にした子供のようだ。
高橋直樹は周囲の資料を整理しながら、理路整然と計画を話す。
「まず文献の解読から始めよう。壺の封印は……まだ解かない。明日、最初の調査を始める予定だ」
その声には誇らしさが漂い、仲間たちは自然と期待に胸を膨らませる。
佐倉美咲は巻物を慎重に棚にしまい、淡々とした口調で一言。
「この文献、ただ読むだけでも時間がかかる。細かい手順や記号が多すぎる……でも、面白そう」
普段は感情を表に出さない美咲だが、目元にわずかに興奮の光が宿っている。
山下雄介は机に手を置き、にやりと笑う。
「さて、今日の仕事はこれで終わりか。せっかくだし、夜は軽く楽しむか」
頼もしげな言葉に、真奈もふっと肩の力を抜く。
その夜、近くの居酒屋で5人は飲み会を開いた。外は夜風が冷たく、窓の向こうに街の灯りが瞬く。酒の香りと賑やかな会話が室内を満たす。
藤原は声を張り上げて笑う。
「俺はさ、いつか自分の発掘で大発見をして、博物館に名前を残すんだ!」
高橋も微笑み、杯を掲げる。
「私たちの研究チームが手掛けた発掘が、歴史学界に新たな風を吹き込むかもしれない。夢は大きく持たないとな」
佐倉美咲は少し控えめに語る。
「私は文献解読が一番好きかな。過去の人々の思考や知恵を、この手で読み解くのは……ちょっとした冒険みたいで面白い」
山下雄介は笑いながら、未来を語る。
「俺はね、いつか大学の警備部門を卒業して、自分の経験を活かした防災や安全管理の仕事をしたい。危険な現場も、経験があるから怖くない」
斎藤真奈は少し照れくさそうに、しかし真剣に話す。
「私は、民俗学の知識を活かして、古い伝承や呪術の真実を解明したい。今回の発掘も、歴史の謎に少しでも近づけるかもしれない……」
その言葉に、皆が静かに頷く。
酒が進むにつれ、笑い声が室内を満たし、未来への希望と夢が語られる。しかし、真奈の胸には、列車の中で感じたあの得体の知れない気配が、かすかに残っていた。
壺は研究室の机の上に置かれ、青黒い光沢を夜の照明に反射させている。無傷の封印はまだ解かれていない――だが、静かな夜の喧騒の中で、何かが息を潜めてこちらを見ているような錯覚が、真奈の心にちらついていた。
その夜、希望に満ちた夢が語られる一方で、呪いの連鎖は静かに、しかし確実に始まろうとしていた。