【夕立転生】夕立が異世界転移した結果 〜悪役令嬢の涙を隠しただけなのに、歴史書には『王国を滅ぼした雨』と書かれていました〜
――僕はただ、ひととき降りた雨粒にすぎない。
誰に称えられることもなく、誰に呪われることもなく、
気づけばひとつの王国が静かに消えていた。
立っているだけで命を削られるような暑さだった。
アスファルトの向こうが陽炎に揺れ、空気さえ熱に焼かれている。
汗は首筋を伝い、呼吸までもが重い。
「やばっ」
買い物袋を抱えた主婦が駆け出し、
自転車の女子高生は前かごのスマホを慌ててポケットにしまう。
最初の一滴が頬に触れたかと思えば、すぐに大粒の雨に変わった。
傘を持たない人々は軒先へ駆け込み、子どもたちは水たまりを蹴って歓声をあげる。
濡れた髪が頬に張りつき、世界の色が一気に灰色に塗り替えられた。
水たまりに太陽が映った。
水面がゆらりと震えた、瞬間
視界が白くほどける。
僕はただの夕立として、別の空へ降りていた――
◇
最初に見えたのは、二つの太陽だった。
白がひとつ、赤がひとつ。
その光の下へ、僕は生まれ落ちた――台風の弟分、ただの夕立として。
兄は台風。村を救い、貴族を吹き飛ばし、魔王軍すら霧に散らせた嵐だった。
僕は夕立。ひとときの影を落とし、路地を濡らし、すぐに忘れられる。
――それでいい。僕はただやさしく落ちて、ただやさしく濡らす。
小さな雨粒が触れた先に、どんな物語が芽吹くのか。
僕はただ、見届けるだけだ。
◇
王都の広場は、人の熱で揺れていた。
半月形の壇上。孔雀色のマントを翻した王子、その隣に雪のように白い聖衣の少女。
壇下には取り巻きの若い貴族と、噂好きの群衆。
その中央には、ひとりの少女――「悪役令嬢」と呼ばれる公爵家の娘が立たされていた。
銀に近い淡金色の長い髪は雨雲の下でくすみ、
薄い藤の瞳は疲れ切った星の色を宿す。
指は硬く握られ、爪が手袋の中で月の弧を描き、
真紅のドレスは、嘲笑の中でひどく儚げに見えた。
「――お前との婚約は破棄する!」
王子の声が広場に響く。
聖女は一歩進み出て、銀杖を掲げた。
「神は真実の愛にのみ祝福を与えます。偽りの心はここで裁かれるのです!」
群衆はざわめき、石を拾い上げる。
笑いと憎しみが入り混じり、誰もが「悪役令嬢」を罰する側に立った。
彼女は目を一度閉じ、乾いた唇を開く。
「……わたくしは、ただ、孤児や病に苦しむ者たちの施設へ――」
「ふん、言い訳は要らん!王家に不利益をもたらす者を、私は愛さぬ!」
「不利益……弱きものを多く救うためにも帳簿をと、聖女さまにも同じ証をと願っただけ――」
聖女の銀杖が床をコツンと鳴らす。
「帳簿など人の作るもの!神の御業は、そんな数字で測れはしません。
さあ、神に代わり、この娘を打ちなさい!!!」
石が飛んだ。
乾いた音とともに、彼女の額に当たる。
赤い筋が白い肌にひとすじ流れ落ちたが、彼女は顔を上げたまま微動だにしない。
「当たったぞ!」
「見たか、罰が下ったんだ!」
群衆は歓声をあげ、さらに石を拾う。
彼らの瞳は熱に曇り、罪を重ねていることにも気づかない。
彼女は目を閉じ、静かに息を吸った。
痛みを押し殺し、唇を固く結ぶ。
その姿は、嘲笑の中にあっても揺らぐことのない静謐さを湛えていた。
けれど、その胸の奥に、どうしようもないものが溢れ出した。
風もないのに彼女のまつ毛が震え、頬に一筋の光が走るのを、僕は見た。
だから、降り始めた。
――もういい。君の涙は、僕が隠そう。
◇
小さな雫も、時に大きな流れを変える。
けれど、それを偶然と呼ぶのなら――僕は否定しない。
雫が石を滑らせ、罵声を雨音に沈めていく。
群衆の石は、濡れた手からするりと落ち、彼女には届かない。
――その手を濡らせば、もう彼女を傷つけられまい。
嘲笑は次第にかき消され、彼女の周囲だけが静謐に包まれた。
彼女は背筋を伸ばし、壇上をゆっくりと降りる。
濡れた真紅の裾が石畳を引きずり、赤薔薇はなお気高く輝いていた。
人々が息を呑む中――
「冠も婚約も要らない。私には誇りだけが残ればいい」
――君だけの道だ、どうか胸を張って進め。
人々が息を呑む中、彼女はただ雨音に導かれるまま、静かな光の道を歩んでいった。
◇
雨はまだ降り続けていた。
最初に転んだのは、石を投げた若い取り巻きだった。
泥に足を取られ、派手に突っ込む。
「うわっ、服が……!」
隣が慌てて手を伸ばし、二人まとめて泥の中。
――威勢は派手でも、泥に沈めば同じこと。
もみ合ううちに剣が抜け、仲間の脚をざっくり裂いた。
「血が……!!」
――刃は主を選ばない。濡れればなおさら。
「なにやってんだよ、間抜けども!」
もうひとりの取り巻きが叫びながら駆け寄る。
さらに屋台が傾き、木箱が崩れて葡萄酒が弾け、帳簿が舞った。
「……な、なんでこんなところに……!」
濡れた紙には名家の印が浮かび上がっていた。
顔色が一瞬で蒼白になり、彼は帳簿を抱えたまま後ずさった。
――インクは正直者だ。
「見ろ、取り巻き様が泥んこだ!」
「ざまあみろ!」
「だっせぇなぁ、これがお貴族様かよ」
群衆の笑いが広がり、子どもまで指を差し、嘲笑は渦を巻いた。
――笑いは雨に溶け、やがて泥に沈むだけだ。
そのとき、王子が愛馬に跨り姿を現した。
「恐れるな! 我が導く!」
だが雨に濡れた石畳で蹄は滑り、馬は暴走、
轟音と共に馬車へ突っ込み、傍らにいた隣国の大使を轢き倒す。
血と悲鳴が広場を裂き、笑いは一瞬で凍りついた。
「わ、私は悪くない! 馬が勝手に――」
王子の声は震えたが、群衆はもう石を手放していた。
兵士たちが駆け寄り、王子はその場で捕えられた。
――馬も蹄も濡れる。知らぬふりこそ、君の罪。
雨は止まない。
石畳の上では、滑稽と罪と泥水が絡まりあい、
やがて大きな渦となって国全体を呑み込んでいった。
◇
屋敷に戻るまで、僕は傘のように彼女の肩を覆った。
扉を開けた父は、何もきかず、ただ頷いた。
母は使用人から外套を受け取り、静かに彼女の肩へ掛けた。
「――出ましょう」
「ええ。国境の橋はまだ乾いているうちに」
馬車の御者台に年老いた執事が乗り込み、扉が閉じられる。
僕は車輪の軸に少しだけまとわりつき、泥の抵抗をほどいてやった。
――君の未来を重くするものは、すべて僕が溶かそう。
彼女は一度も振り返らない。
窓の外では、雲間からこぼれた陽が石畳の水たまりに映り、
二つの太陽が、ゆらりと重なって揺れた。
「涙は一滴も置いていかない。未来はすべて、私が連れていく」
「……神さまは、雨にも目を向けてくださるかしら」
その声はかすかだったが、凛として澄んでいた。
誰にも届かぬようでいて、確かに空に届いた。
新しい国の空を、彼女はまだ知らない。
けれど、前へ進む馬車は、もう雨を欲していなかった。
◇
濡れた帳簿は街から街へと広がり、やがて王宮にまで届いた。
そこに記された名前のひとつ――宰相の印が、誰の目にも明らかに浮かび上がっていた。
「……!? いや、これは偽りだ、罠だ!」
老いた宰相は声を張り上げたが、誰も耳を貸さなかった。
彼は湿った地下牢に押し込まれ、冷たい藁に崩れ落ちた。
染み込んだ水は足元の泥と混ざり、腐った臭いを立ちのぼらせる。
――高い椅子ほど、濡れると滑る。
――けれど、僕は責めない。ただ降っただけだ。
やがて宰相の虚ろな目は誰にも閉じられぬまま濁り、冷たい石に吸い込まれるように沈黙した。
◇
王宮の回廊に雨が吹き込み、侍女の手から束ねられた文が滑り落ちた。
封蝋は二重押し――王妃の印に、別家の紋章。
「そ、そんな……これは違うのです!」
王妃は必死に叫んだが、群臣の前で冠を剥がされ、白い髪が床に散らばった。
赤い絨毯に転がった冠は、雨を吸って鈍く濁った光を放つ。
玉座の影に立つ王でさえ、視線を逸らし、何ひとつ言葉をかけなかった。
ざわめく視線が一斉に彼女を貫き、かつて愛を飾った微笑みは、ただ凍りついてゆく。
――金でも愛でも、濡れればすべて流れる。
――残るのは、君が選んだ裏切りの証だけ。
王妃はその場に座り込み、誰ひとり寄り添わぬ中で、声なき嘆きを抱えたまま凍りついた。
◇
王の蔵には、まだ民の糧が積まれているはずだった。
だが倉庫の木箱は湿気にやられ、穀物は白い黴に覆われ、指でつまめば崩れて粉になった。
飢えた民は麦粒を奪い合い、母は子に与えるために自らの腹を空にした。
疫病に侵された者は路地に横たわり、誰も近づかず、ただ雨に濡れて息を絶っていった。
やがて王宮の門前に群衆が集まり、槍も旗も持たず、骨ばった手で扉を叩いた。
その音は雷鳴よりも重く、城を震わせた。
「咳が止まらん……血が混じる……」
「妻は……もう動かない子を抱いてるんだ……」
「殺せ……生かすなら食わせろ……!」
だが日が経つにつれ、叩く音は少しずつ減っていった。
王都は疫病に倒れ、飢えに屈し、ひとり、またひとりと姿を消してゆく。
やがて群衆の数は確かにそこにあるのに、声はなく、沈黙だけが広場を覆った。
その静けさは、怒号よりも鋭く王の胸を貫いた。
「叫べ! 罵れ! なぜ黙るのだ……!」
王は震える声をあげたが、返事をする民はもういなかった。
ただ雨が玉座の赤絨毯を染め、彼の威光を洗い流した。
――冠は濡れれば、ただの錆びた輪。
――それでも、君の選んだ道なら、僕は止めない。
やがて王の名は歴史の頁から消え、墓石さえ残らなかった。
◇
大使轢殺の報せは瞬く間に広がり、同盟国の怒りを買った。
使節は次々と帰国し、友好の旗は引き裂かれ、同盟は連鎖的に崩れていく。
「未熟な王子」
――そう嘲られ、王国は孤立し、最後には王子の身柄が差し出された。
かつて宴を共にした貴族も、取引を重ねた商人も、誰ひとりとして味方しなかった。
鎖に繋がれ、遠国の石畳を引きずられる。
その先に待つのは民衆ではなく、異国の裁きだった。
「大使を殺したのは馬だ! 私は悪くない!」
必死の言葉は、誰の胸にも届かない。
――馬も蹄も濡れる。言い訳もまた濡れて、形を失う。
群衆の視線は冷たく、やがて異国の言葉が一斉に響いた。
「大使の血を返せ!」
「償いを示せ!」
その声は雨音と混ざり合い、抗う余地を奪った。
処刑台の上でも彼は叫んだ。
「すべては民のためだった!」
だがその声は雨にかき消され、群衆の瞳に映ったのは憐れみではなく憎悪だけだった。
黒衣をまとった大使の妻の、濡れた面紗の下で震える声が続いた。
「夫を奪ったその首を……ここで落とせ!」
首が落ちる鈍い音と共に、群衆は沈黙した。
――君は最後まで仮面を外さなかった。
――それもまた、ひとつの王子の姿だったのだろう。
切り落とされた王子の首は雨に濡れ、石畳に黒い筋を刻み、瞳に空を映したまま沈黙した。
◇
聖女の奇跡と称された術は、薬草の粉と金銭で成り立っていた。
だが雨は粉を溶かし、帳簿の裏金をにじませた。
「ちがう、これは神の御業、わたしは選ばれし者……!」
必死の叫びは群衆に届かない。
「なぜ王都を救わなかった!」
「我らの親を、子を、雨に晒して見殺しにした!」
「奇跡を謳いながら、一つも救えぬ偽り者!」
「偽聖女を討て!」
声が広場を覆い、石が雨のように降り注いだ。
額に鈍い衝撃、頬骨の砕ける音。
歯が散り、血が雨に混じって泥を赤く染める。
肩に石がめり込み、腕が折れてだらりと垂れた。
「神が……わたしを……!」
声は血に濡れ、泥に吸い込まれていく。
群衆は憎悪に駆られ、次々と石を投げ続けた。
彼らの顔は涙でも笑みでもなく、ただ空虚な狂気に支配されていた。
白衣は次第に赤黒い染みに覆われ、やがて地に沈んだ。
石畳を叩く雨と石の音が溶け合い、広場はひとつの巨大な鼓動のように震えていた。
叫びは潰えたはずなのに、なお「偽りを討て」という声が残響のように木霊した。
誰も止めようとはせず、石を投げる手だけが延々と動き続けていた。
その熱はもはや信仰ではなく、ただ破壊のための祈りに変わっていた。
――病は雨と同じく、ただ等しく降りかかる。
――けれど、人は名を与え、責を押しつけ、物語にしてしまう。
――けれど僕は咎めない。君が選んだのはその道だから。
切り刻まれた白布が石畳に貼り付き、最後に残ったのは「聖女」という名への呪詛だけだった。
◇
時を経ても、雨は石を削り続けた。
王国の象徴だった塔は、ついに崩れ落ち、轟音を残して瓦礫と化した。
神殿の石碑は割れ、残った文字は呪詛のように読まれた。
墓地は水に浸かり、屍臭が漂い、人々はそれを「夕立の呪い」と呼んだ。
――僕は呪いではない。ただ降っただけ。
――けれど人は名を与え、物語を紡ぐ。
◇
後の歴史書にはこう記される。
宰相は収賄の罪で幽閉され、孤独に死した。
王妃は密通の証を暴かれ、冠を剥奪された。
王は飢饉と疫病に抗えず、玉座を追われた。
王子は失策と外交の破綻により異国で処刑された。
聖女は奇跡の虚偽を暴かれ、石打ちにされた。
塔は折れ、石碑は呪詛を刻み、墓地は水に沈んだ。
――かくして、この国は一度の夕立により歴史から消えた。
◇
静かな雨の中で、僕は空へ還ろうとしていた。
――僕はただ、ひとりの涙を拭っただけだ。
雨粒はただ落ちる。けれど、落ちる先を選ぶこともある。
偶然と呼ばれるものの中に、どれほどの意図が隠れているのか――誰も問わない。
やがて空に溶け、僕の姿は消えた。
けれど人は語る。夕立が国を滅ぼした、と。
――僕はただの夕立。
――それでも、君の涙を隠せたのなら――それで十分だ。
――ざまぁは人間が勝手にやる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「悪役令嬢断罪」の場に降ったのは、ただの夕立。
けれど涙を隠すために降ったはずの雨は、
取り巻きも、王族も、聖女も、
すべてを洗い流し、国ごと歴史から消してしまいました。
夕立は何もしていません。
ただ降っただけ。
けれど人はそれを「呪い」と呼び、「神話」として残すのです。
本作は【台風転生】【万博転生】と同じ〈ソコニアルモノ転生神話シリーズ〉の一編です。
シリーズはまだ続きます。
次はどんな「在るもの」が異世界に降り立ち、
どんな神話に仕立て上げられるのか。
次はこれが転生する話を読んでみたい!というアイデアがあれば、気軽に感想に一言ください♪
嵐でも、建物でも、道具でも――
人ではない“在るもの”が異世界に落ちたら、どんな神話になるのか。
皆さんの想像力を、ぜひ少し分けてもらえたらと思います!
よかったらブックマークや「☆☆☆☆☆」で応援してもらえると嬉しいです!
星の数はお好みで。ひとつひとつが大きな力になります