和子さんの出会い
あの日、僕が目覚めたのは、見知らぬ部屋のベッドの上だった。白い壁と白い天井で、凡そ何処かの病院の一室だと考えた。
頭を巡らせ目を巡らせ、自分がベッドに寝かされて点滴を打たれていると知る。体を起こそうとして脳天を貫く痛みに悶え、頭を枕に預けて目を瞑った。
記憶を辿って、辿って辿っていっても、朧気な意識しか保てない。覚えてない。霞みがかっている記憶。
そんな事をして小一時間、扉を開けて看護師さんが入ってきた。目覚めた僕に驚き、駆け寄って安堵の笑みを認めた。
「ご自身のお名前、分かりますか?」
「はい、藤本です」
「藤本ぉ…?」
「あ、幸次郎です」
深い目尻の皺をより深くして、看護師さんはうんうんと頷いた。
「今、先生お呼びしますからね。安静にしていて下さいね」
ナースコールを押して、自分もパタパタと廊下を走っていく。僕は程なくしてナースコールのスピーカーからの呼び掛けに、自分で答える羽目になった。
「あ、あの、目が覚めました。あの、看護師さんが────」
「はい今行きます!」
更に数分後、最初の看護師さんが大勢引き連れて戻ってきた。その輪を掻き分けて、小柄の白衣姿が僕のベッドの脇にやってくる。無言で聴診器を当て、瞳孔を確認し、口を開けさせてくる。
その機械的な流れる動作に、少し冷たい印象を得た。美人だがその価値を下げてしまうほどの冷ややかな印象。狸顔なのにこんなに冷たい表情で淡々と物事を進める人は初めて見た。そういう顔立ちの人は、朗らかで明るい表情の人が主だと思っていたから。
「ここに来た経緯を覚えていますか?」
ハキハキと喋るその口調も気になった。もちろん、ここに至る経緯なんて覚えていない。その旨を伝えると、うんうんと自身で納得したように頷いて、テキパキと看護師さん達に指示した。
点滴の数が増え、注射も打たれ、足を動かさないように念を押され、何とも居心地の悪さに僕はげんなりした。
看護師さんの話では、僕は事故に遭い運び込まれたそうだ。両足骨折、頭も打っていて大きなたんこぶも出来ていた。記憶がないのは頭を打ったせいで、それも何れ徐々に思い出されるという。
2ヶ月は病院生活を強いられると知り、僕は不安と焦りとげんなりで居た堪れなかった。唯一の救いは、病院食が思ったより美味しかった事か。
「経過は良好ですね」
冷たい表情の女医さんが、僕を見下ろして淡々と話す。未だ慣れない。
「あ、あの」
「何でしょう」
「僕の足の手術は、あの、先生が?」
「はい、私が執刀しました」
「ありがとうございます」
「いえ」
ファイルに挟んだ用紙に何やら書き込みながら、冷たい白衣は僕の目を見ずに答えた。
「あの、治りますか?」
「剥離骨折の複合手術でした。完璧に終えたので安心して下さい」
「あ、あの、治りま───」
「安心して下さい」
この話は終わり、とでも言いたげな終了の楔が打ち込まれ、僕はベッドの中で萎縮する。その様子を流石に察したのか、ため息をついて女医さんは僕の顔を覗き込んだ。
「不安はあるでしょう。頭部を強く打って記憶も曖昧な中、不自由は大変だと思います。記憶は傷の治癒と共に徐々に戻ります。一時的なものですから。足の怪我も必ず完治します。だから安心して下さい」
「は、はぁ…」
断言するほどの自信があるのだろうが、僕にとってはその冷めた表情で言われても説得力がない。
女医さんはファイルをペラペラ捲り、淡々と話す。
「…あなたは交通事故に巻き込まれたようです。何をしていたのか思い出せましたか?」
「交通事故に巻き込まれた事から初耳です」
交通事故に巻き込まれるって、僕は何をしていたんだろう。事故を起こした車に突っ込まれたのだろうか。
「何をしていたのかは知りません。ですが、この怪我が完治するのだけは確かです。本来であるなら親御さんに連絡を取るところですが、あなたは───」
「はい、まぁ天涯孤独というやつで」
「治療費などもご自身で?」
「そうなると思います」
不安が伝染したのか、女医さんが不安気に僕を見る。
「あ、あの、ちゃんと払います」
「そうして下さい」
「大丈夫、です」
女医さんは僅かに眉を顰めて、病室を後にした。そんな顔をされるくらいなら、『あなた本当に支払えるの!?』と詰め寄られた方がよかった。
ため息が宙に飛び散る。
幸い、病院食の美味さに元気が出てきたが、しばらくしても相変わらず女医さんの回診には慣れない。
聴診器を当てたり、看護師さんに薬や注射の指示を的確にこなしていく姿は、人を寄せ付けない印象がどうしても拭えない。
「叶先生、カルテの目通しを」
初老の男性医師が通りすがりに女医さんを見つけ、ファイルを手渡す。僅か数秒で女医さんはそれを医師に突き返した。
「発熱は免疫機能が菌と戦っている証拠です。高熱が続くようならカロナールを処方して下さい」
「よく見たのか」
「はい、拝見済みです」
「熱が続くのは───」
「免疫機能が正常に働いている証拠です」
「点滴を増やすべきだと思うが?」
「いえ、カロナールで充分かと」
「何故そう言い切れる」
「点滴は気休めです。免疫機能が正常に働いている以上、それを邪魔するような処方は認められません」
「それでは完治が───」
「完治が遅れる事はありません。人間の体が正常化まで戻るには、自らの免疫機能が一番の治療です。それを高める処方ならまだしも、抗生物質で阻害するのは逆にその作用を邪魔しかねません」
「君は若いから───」
「年齢や性別で治療は出来ません。医師の的確な判断と経験と知識が、人を完治に導きます」
苦虫を噛み潰したよう、男性医師は口を歪める。
「……博士号も取得した事のない若───」
「5つあります」
「あ?」
「学士号と同時に5つ取得しました」
怒りなのか恥ずかしさなのか、真っ赤に染まった顔をやたらと撫でる男性医師。
「村節さん、赤間先生と一緒にカロナールの処方を」
話は終わりだとでも言う風に、近くの看護師さんにそう指示した女医さんは、僕の頭の傷の具合を確かめる。男性医師はわざと聞こえるように舌打ちをして、大股で去っていった。
「あ、あの……」
「気にしないで。慣れてます」
そうか。
僕はどうやら誤解していたみたいだ。
女医さんは、この人はきっと、こんな世界での生きる術でこの印象を獲得してきたんだ。
そこで初めてこの人のネームプレートを見た。
『叶』先生は、この人はもしかしたら、実は人間味がある人なのかも知れない。
僕の視線で、女医さんは僕に小さく呟いた。
「叶、和子です」
「藤本幸次郎、です」
叶先生は僕の名前を聞くと、僅かに口角を上げた。