和子さんの悲鳴
どうして苦手な物をわざわざ観るのだろうか。
そんな疑問符が浮かんでは消え、消えては浮かぶ中で、僕の腕にしがみつき悲鳴を上げる和子さんはそれでもテレビ画面に釘付けになっていた。
「明日は休みなの!」
高らかに宣言する和子さんはお風呂上がり。入浴中に何かを思いついたらしい。
「そうですね、そう言ってましたもんね」
「そうよ、お休みなの」
「…何かしたい事があるんですか?」
バスタオルを巻いた姿で、腰に手を当て水を飲むのが、和子さんのルーティンだ。
「まず何か着ましょうか」
「それどころじゃないのよ幸次郎くん」
「服を着るよりも重大な事なんですか」
エプロンを畳んでイスに座ると、向かいに和子さんも腰掛ける。
「休みといったら、まず、何?」
「まずは服を着る事ですよ」
「一日フリーって事よ」
「風邪引きますよ」
「一日! まったりと過ごす! そんな一日にしたいです!」
「宣誓ありがとうございます」
新しいバスタオルを持ってきて、和子さんの髪を拭く。
「じゃあまず、何をするんですか」
「ふふふ、幸次郎くん、よくぞ聞いてくれました」
和子さんは髪を拭く僕をすり抜け、リビングから何やら持ってくる。
「これ!」
何故か誇らしげに渡すそれを、僕は昼間宅配便業者から受け取っていた。小柄なダンボールが小さく鳴る。
「何買ったんですか?」
「開けてみて」
腰に手を当てふんぞり返る和子さんは、得意気にニヤリと頬を崩す。
僕はダンボールを開封すると、中身を取り出した。
「DVD、ですか」
「何だと思う?」
「映画でしょうね」
「何の映画だと思う?」
「ホラーでしょうね」
DVDを裏表見て、何も言わない和子さんに視線を送ると、不服そうに眉をひそめていた。
「どうして分かるの」
「ホラー映画のパッケージですよ」
「サスペンスかも知れないじゃない」
「スプラッターって書いてあります」
悔しそうにへの字口になる和子さん。
「和子さんがホラー好きなのは知ってますよ」
「どうしてバレるんだろう」
「お見通しですよ、ふふっ」
和子さんは僕からDVDを受け取ると、フィルムを剥いでパッケージを開けた。
「幸次郎くん、心してかかりなさい。これはPOVのスプラッター映画なの」
「風邪、引きますよ」
まだ説明したくて嫌がる和子さんの着替えを手伝い、髪を乾かしている最中、和子さんは何度もパッケージを僕に見せつけた。
「仮にも医師がスプラッター映画を欲するなんて」
「仕事とスプラッターは関係ないわ」
「血を見慣れてるから平気なんじゃないですか?」
「仕事は仕事。作り物じゃないもの。これは作り物。エンターテインメント」
「それ、今観るんですか?」
「明日はこれの感想会。今日は鑑賞会」
「まさかの2夜連続だった」
ドライヤーで天使の輪が出来た髪に軽くブラシを通し、柔らかく束ねて作った毛先を揺らしながら、和子さんはソファ前に着々と映画館を作っていく。
「幸次郎くん」
「はい」
「どうしてキャラメル味がないの」
「キャラメル味のポップコーンを常備してる方が珍しいと思いますよ」
「塩味はあるのに」
「それはたまたま安売りしてたのを買っただけです」
「仕方ないわ。甘んじてこの現実、受け入れる」
「受け入れて下さい」
コーラよーし、グミよーし、と点呼を続ける和子さんの為に、僕はとっておきの品を差し出した。
「ハッ!」
和子さんの目が輝く。
「ピノデワルゥブのラングドシャです」
「何で! 何であるのぉ!」
近所の洋菓子店のラングドシャ、和子さんが自分へのご褒美にたまに買っているのは、随分前からお見通し。買い置きをしていた。
予想通り、和子さんは見た目通り子供のように喜んだ。
「天才! プロ!」
「何のですか」
「ウヒョヒョヒョヒョ」
「不気味な笑い方はやめて下さい」
ラングドシャの缶を開けて、コーラやポップコーンと一緒にテーブルに並べ、ソファの隣の席を叩いて催促をかける和子さん。
「ほら! 早く! 観るの!」
「まずDVDをセットしましょうか」
逸る気持ちを抑えきれず、DVDを急いでセットして再びソファに体を投げ出すと、僕への催促を畳み掛ける。
「僕はホラー、得意じゃないんですよ」
「知ってる」
「おお、確信犯なんですね」
僕の腕を逃さないように掴み、腕を絡めて無理やりソファに沈めさせた。
コーラの炭酸が微かに歌って、それは静けさとは程遠い映画の声に掻き消され、腕には和子さんの小刻みな震えが鳴り響いて、僕は得意ではないが決して苦手でもないホラー映画を堪能する。
小さな小さな映画館は、居心地の悪さなんか皆無で、あたたかい鼓動と好きなお菓子に囲まれて、得意でもないものを受け入れる事も、何なら悪いものではないなと思い直している。
和子さんの喉から発せられる断続的な悲痛の叫びも、僕からすると心地よい。ほのかに口の中で笑ってしまう。
「笑わないでよ」
「怖がる和子さんも可愛いなと思って」
「可愛くない。趣味悪い」
「そうですか? ふふっ」
僕の腕に頬を押し付けて、それでも画面に目を向ける和子さんは、何とかクライマックスも経て、映画鑑賞を遂行できた。
「……全然大した事なかった」
「震えてた人からまさかの感想です」
「震えてない。ラングドシャの美味しさに感動してただけ」
「映画中、一口も食べてなかったですよ」
「ブブブブブー!」
「たらこ唇になりますよ」
ガバッと立ち上がり、僕の前に両手を広げて仁王立ちする和子さん。
「慰めて」
「もう、怖かったという自白じゃないですか」
「ギュッとして!」
「はいはい」
僕の膝を跨いで抱きつく和子さん。子供をあやすようだ。
「まーた子供だって思った」
「思ってないですよ」
「思った!」
「思ってないです」
ラングドシャを口に押し当てると、サクサクサクと食べ始めた。
「餌付けされる」
「好きな物を食べれば落ち着きますよ」
「怖くなかったもん」
「『僕は』怖くなかったですよ」
「私も!」
頬を膨らますその口にまたラングドシャを押し当てると、サクサクサクと食べた。
「ほんとはね」
僕の胸に顔を埋めてスンスンしていた和子さんは、まだ口の中にあるラングドシャをサクサクしながら唇を舐めた。
「ほんとは幸次郎くんに抱きつきたくて怖いの買った」
「じゃあ作戦成功じゃないですか」
「そう、だーいせーえこー」
「そうですね、ふふっ」
また僕の胸に顔を埋めて、和子さんはスンスン鼻を鳴らした。泣いているのかと思ったが、匂いを嗅いでいるだけだった。変なフェチでもあるのかな。
「ここからフェロモンが出てるの」
「人間は認識できないはずですが」
「私は分かるの」
「鼻が利くんですか?」
「ううん」
顔を上げた和子さんが嬉しそうに笑う。
「幸次郎くんのは分かる」
「ふふっ、そうですか」
和子さんの作戦が本当なのかどうかは分からないが、少なくとも僕はそれに見事に引っかかり、小さく唸る悲鳴にも何だか可愛さを感じ、そして───
「完敗です」
小さな体を抱き締める事で、それを示した。
和子さんの唇は、ラングドシャの優しい甘さが香った。
できればたらこ唇にはなって欲しくないなぁ。
それを想像して、喉が笑った。