和子さんの雨
雨っ降り。
冷たい雨のせいで、ほんのりと肌寒い。和子さんを見ると、サメの顔の形のフードを被ったパーカーに包まれていた。フレンチトーストの湯気の向こうで、蜂蜜をスプーンで掬っている。
「こう雨が続くと頭痛が長引くのよね」
低血圧に悩まされたおでこには、冷却シートを貼っている。一昨日から降ったり止んだりを繰り返す雨の影響で、和子さんは本調子ではなかった。それでも仕事にはきちんと行っていて、そんな和子さんにご褒美フレンチトーストを差し出した。甘い物は正義を掲げる和子さんにはうってつけの品だ。
「今、私をクマだと思ったでしょ」
一切思ってないのだが。
「蜂蜜は栄養価が高くて、免疫力も上がるのよ」
「たくさんかけて下さい」
「ミルクティーにも入れたい」
絶対そう言うと思っていたので、言い終えると同時にカップを置いた。大きなカップになみなみと注がれたロイヤルミルクティーに目を輝かせ、僕を見上げる。
「幸次郎くんはさぁ、サイキックよね」
「違いますよ」
ロイヤルミルクティーのカップにほんの少しだけバターを溶かし、一口飲んだ。うん、コクが違うな。
「私がほしいと思った瞬間に用意してくれるじゃない」
「和子さんが分かりやすいだけです」
「そんな事ない、私はミステリアスな女よ」
フフンと胸を反らす和子さんの仕草が可愛らしくて、喉の奥で笑った。
「明日は遅番なんですよね」
「そう」
日勤が主な和子さんだが、たまに深夜の遅番が回ってくる。救急の部署の手伝いをやらされると、よく愚痴っている。
「最近はさ、酔っ払いが転んだぐらいの怪我とかしかないからいいんだけど、事故とかで緊急手術が必要な患者さんも運ばれてくる時があるからさ、なかなか大変なのよ」
「お疲れ様です」
新しく焼き上がったフレンチトーストをお皿に乗せた。
「でも幸次郎くんのフレンチトースト食べれるから頑張れる」
「よかったです」
大きく切ったフレンチトーストを頬張る和子さんの前に座ると、頬杖をついてミルクティーを啜った。
「美味しそうに食べますね」
「私は美味しいものしか食べないの」
「グルメですね」
「そう、グルメ」
「ふふっ、たくさん食べて下さい」
雨の降りが強くなり、ベランダに打ち付ける音が高くなる。雷が鳴らなきゃいいが。
「ねぇ、幸次郎くん」
「はい」
「幸次郎くんは雨男だと思うの」
「…まさかこの雨は僕のせいって言うんじゃないでしょうね」
「そう、幸次郎くんのせい」
「それで和子さんにフレンチトーストを食べる機会を与えて、じわじわと太らせようと企んでいると?」
和子さんはフォークを置くと、ゆっくり目を閉じた。
「まさにその通り。そして私が肥えた頃を見計らって、お腹のお肉をもふもふする魂胆よ」
「あれ、どうしてバレたんだろ」
「やっぱり!」
頬を膨らませる和子さんは、鼻も膨らませてフレンチトーストを口に詰め込んだ。笑いが込み上げる。
「笑い事じゃないの! 私が太って重くなったら幸次郎くん、幸次郎くんが苦労するのよ!」
「どうしてですか」
「おんぶが苦労するの」
「おんぶはしません」
「それは困る!」
フレンチトーストを飲み込んだ和子さんは、僕の方に回って後ろから抱きついてきた。
「おんぶはマスト! マストよ! 幸次郎くんにおぶされなくなるなんて考えられない」
「そんなんだからお婆さんの患者さんに飴を貰うんですよ」
「あのクリスタルみたいな形の飴は嬉しい」
「ほら、喜んでいるならいいじゃないですか」
「飴はいいの! でも幸次郎くんのおんぶは外せない」
「子供扱いはしばらく抜けられないようですね」
「若く見られる、と言って」
ふんっと鼻を鳴らし、和子さんは後ろから僕の分のフレンチトーストのお皿をかっさらった。自分の席につき、たっぷりと蜂蜜をかける。
「もう幸次郎くんは逃れられないのよ。こうやって自分の分のフレンチトーストも取られて、どんどん肥えていく私を見ながら、おんぶの為に足腰を鍛える事を余儀なくされるのよ」
「ハハハ、これから大変だ」
「そう、覚悟しなさい」
「そうですね、肝に銘じておきます」
すっかり頭痛は治まったようだ。良かった。
「僕は」
ロイヤルミルクティーを一口飲み、カップを置きながら和子さんの視線を受ける。もぐもぐ頬袋を動かしながら、和子さんは僕を見つめる。
「僕はそもそも和子さんとずっと一緒にいるもんだと思っていますよ」
頬が見る見るうちに赤くなる和子さんのお皿からフレンチトーストを切り分け、口に運んだ。和子さんがかけた蜂蜜の濃厚さがほわっと広がる。
「だから和子さんが肥えようが何だろうが、僕には何も問題ないんです」
甘く広がるそれは、蜂蜜だけじゃない気がする。そんな、そんな味だと、そんな気がする。
「幸次郎くんはたまに……ほんとのイジワルになる」
口を尖らせた和子さんは、そっぽを向いてミルクティーを飲んだ。赤ら顔が治らないらしい。
「そうですか?」
「そう、すっごい、イジワル」
そっぽを向きながら僕にカップを押し出す。
「ロイヤルミルクティー、もっと飲みたい」
「本当に太りますよ」
フレンチトーストの頬袋とは異なる膨らみを見せながら、和子さんは僕を睨む。
「いいの、ずっと一緒にいてくれる人はもういるから」
「ふふっ、そうですか」
和子さんのカップに注がれるのは、ロイヤルミルクティーだけじゃない。僕の思いも注がれる。
愛情は時に厳しく、時に打ち付ける雨のように冷たい時もあるが、でも、愛情はきっとずっと、甘く優しく、ほわっと心に広がる、そんなものであるはずだ。
嬉しそうにミルクティーを飲む和子さんからは、そしてそれを眺める僕からは、そんな愛情が溢れ出す。
雨も頭痛も、それを邪魔できないみたいだ。