八話 ハッピーエンド
外は雨が止み、夜の帳を下ろしていた。
雲がかかっているため星は眠っている。
だが雲間から月の光が顔を覗かせ、陰鬱な暗闇をわずかに照らしていた。
私は車の後部座席から夜を見上げている。
心地よく揺れる車内では、真由美さんと直樹くんが明日の朝食について話しており、ごはんかパンかで争っている。
BGM程度に二人のやりとりを聞きながら、首にかけた勾玉をTシャツの中から取り出す。
直樹くんが無くさないようにと紐を通してくた。
淡い紫は、ときおり差し込む月の明かりで美しく輝く。
魂と繋がっていると言われたが、特別何かを感じるわけではない。
でも不思議と引き寄せられる。
まるで自分の命を見ているようで。
「そこを右」
住宅街に入り、坂を下った突き当たりを右折すると、二階建ての白い家が見えた。
私の家。
いや、逃げる場所のない空気の薄い監獄。
心臓が悲鳴を上げるように鼓動が早くなる。
帰りたくはないが、ここ以外に私の戻れる場所はない。
雲が覆った灰色の世界では、死が希望となり、太陽の代わりに輝きを放つ。
その光のせいか、微睡んでいた希死念慮が再び起き上がり、恋人繋ぎで私の手を握ってきた。
家の前に着くと、二人の視線が私に向く。
「ごめんね、遅くまで」
真由美さんたちから説明を受けた後、私は眠ってしまった。
急に疲労感に襲われ、知らない間に目を閉じていた。
起きた時に聞いたのだが、黒の魂に憑かれると精気が吸い取られるらしい。
今もまだ倦怠感が残っている。
「ねえ、連絡先教えてよ」
真由美さんがスマホを掲げた。
「家にあるから、取ってくる」
車から降り、音を立てずに門扉を通る。
先ほどまで雨が降っていたため、玄関アプローチには少しばかり水が溜まっていた。
踵から下ろし、徐々に足裏の設置面を増やしていく。
静けさを壊さないようにしながら空気のように。
ポケットから鍵を取り出し後、ゆっくりと鍵穴に差し込み、慎重に回してドア開けた。
リビングの扉は閉まっているが、すりガラスから明かりが漏れているため、そこに人がいるのが分かる。
靴を脱ぎ、すり足で階段まで移動する。また出て行くので、鍵は開けたままにした。
「くしゅん」
階段を上がろうとした時、くしゃみが出た。
ビルの屋上で雨に晒されたからか、それとも死神のいたずらなのか、どっちか分からないがタイミングが悪すぎる。
咄嗟に口を押さえるが、もう遅かった。
「おい、つまみ買うのに何時間かかってるんだよ。本当に無能だな、お前は」
リビングから父が出てきて、“お帰り”の代わりに罵声を浴びせられた。
心が凍りつくような冷たい温度で。
「ごめん……」
父は私の手元を見た。
見下げた瞳が温度を灯し、沸騰していくのが分かる。
「買ってもねえのか?」
ポケットからシワだらけの千円札を取り出し、父に返す。
「色々あって、買えなかった。ごめ……」
言い切る前に、父が平手で頬を叩いてきた。
熱く痺れた感覚が、じわじわと肌の表面へと上がってくる。
言葉が出なかった。今まで罵倒されたことはたくさんあったが、手を出されたのは初めてだ。
体が硬直して動かない。
胸の辺りに、今までとは違う何かが蠢く。
「来い、クソ女」
父は私の髪の毛を掴み、そのままリビングへと向かっていく。
ーーやめて
そう言いたかったが、声がでない。
髪の毛が引きちぎられるような、強い力で引っ張られれている。
リビングに入ると母がダイニングでくつろいでいたが、この光景に目を丸くし、唖然としている。
「ちょっとあなた、何やってるの」
「馬鹿は力で躾けないと理解できないらしい」
そう言った後、父はダイニングテーブルに私の顔を押し付けた。
抵抗して顔を上げようとするが、びくともしない。
「てめえみたいな出来損ないは、早く死んじまえ」
怒声を上げながら、父はさらに力を強めてテーブルに押し付ける。
「あなた、近所に聞こえる」
「なんでお前みたいな奴が産まれてきたんだよ。なあ、早く死んでくれよ」
母の言葉を無視し、父は暴言を降らせる。
「餌だけ食って、何も生み出さない豚以下のクソが。こんな不良品を養ってるこっちの身になってみろ。何も考えずに生きてるから、毎日楽しいだろう? いいよな、育ててもらってるだけの家畜は。寝てるだけでいいもんな」
「あなた、声を小くして。聞こえちゃうから」
母は止めようとはしなかった。
娘よりも体裁の方が大事らしい。
「殺してよ……そうしてくれたら楽になれるから」
どんな道を進もうと、私が望むのは死だ。
それさえあれば、もう他になにもいらない。
「そうか、分かった」
父はそう言うと、私を壁際に投げ飛ばした。
サイドボードに腰を打ち付け、上に乗っていた犬の置き物が床に落ちる。
視線を父に向けると、テーブルに置いてあったマグカップを手に取っていた。
冷酷な目で私を見ており、殺気すら感じ取れる。
声も、心臓も、感情も支配されているようだった。
すべてが色を失ったように真っ白になる。
――殺される
そう思った時、父はマグカップを投げつけてきた。
頭を腕で覆い、咄嗟に体を竦める。
すると、パリーンという音が部屋に響いた。
後ろにある小窓が割れ、マグカップより一回り大きい穴を開けていた。
「もうやめて、近所の人が警察呼んじゃう」
母が必死に制止しているが、父の形相は変わらない。
殺気を込めながら、こちらへと歩いてくる。
体が動かなかった。
恐怖が鎖のように纏わりつき全身を拘束する。
足が痙攣するように震え、口元からは言葉を失った息だけが漏れていた。
父は私の前に来ると、襟を掴んで床へと押し倒した。
そして私の首を絞め、汚れた言葉で息を詰まらせる。
「お前みたいな人間は生きてる価値なんてねえんだよ」
意識が遠のいていく。
母が何か声を上げてるが、ぼやけて聞き取れない。
でもやっと死ねる。
こんな形ではあるが、この世界から存在を消せる。
現世という地獄から抜け出せるなら、私はゴミのような命を喜んで差し出す。
もう産まれたくない。
楽にさせてほしい。
生きていても、死んでるようなものだから……
霞んだ父の顔を瞳に映しながら、私の頭には死の二文字がよぎった。