七話 霊師
閑静な住宅街から少し離れた所に、年季の入った日本家屋があった。ここが彼女たちの家らしい。
一般的な建売住宅の二軒分くらいの大きさがあり、家の外周は私よりも背の高い板塀が取り囲んでいる。
周辺に家がぽつりぽつりと並んでいるが、ここだけ空気感が違うように思えた。まるで主のような存在感があり、どこか神聖さも感じる。
瓦屋根付きの大きな和風門の横には表札があり、神谷と彫られている。
二人のどちらかの苗字なのだろうか。
でも夫婦には見えない。男性は女性に対し敬語だ。
門をくぐり、玄関の中に案内されると男性がバスタオルを持ってきてくれた。
濡れた髪や衣服を拭き、靴下を脱いでから家に上がる。
「それ乾かしとくから貸して」
バスタオルの上に靴下を置き、男性に渡す。
「温かいお茶淹れるから、居間で待ってて」
「直樹、霊師の書物も持ってきて。この子に説明するから」
「分かりました」と言って男性は奥へと消えていく。
軋む廊下を真っ直ぐ進み、居間と思われる場所に案内された。
十二、三畳ほどの和室には、大きなちゃぶ台と格子がデザインされたローボード。その上にテレビが置かれていた。
女性は部屋に入るなり障子を開ける。
そこには縁側があり、木枠のガラス戸の先には庭が見えた。
「綺麗でしょ」
女性は振り返り、笑みを浮かべて言った。
広々とした庭に視線を向けると、淡いブルーが寄り添い合った、濡れた紫陽花がしっとりと咲いていた。
どこか切なさを纏う六月の花は板塀に沿って並んでおり、陰鬱な梅雨を灯している。
そこには悲しみさえも美しく思えるような、しおらしさがあった。
まるで雨の形容詞のようだ。
「紫陽花って土の酸度によって色が変わるの。まるで人間みたいじゃない? どこで生きるかでその人の色が決まる。花も人も一緒。咲いては枯れてを繰り返し、環境に染まりながら生きている」
紫陽花のような儚さが、彼女の表情に咲いていた。
色んな物語を見てきた人の顔。そう思った。
「とりあえず座って」
そう言われ、ちゃぶ台に着く。
彼女は私の前に座ると、澄んだ目でじっと見つめてきた。まつ毛が長い。
私は目のやりどころに困り、視線を部屋の中で泳がせる。
「そういえば名前言ってなかったよね?」
女性がそう聞いてきたので、小さく頷く。
「私は北川真由美。さっきの優男は遠藤直樹。呼ぶ時は真由美でいいよ。もう一人住んでるんだけど、そいつはほとんど家にはいないの。帰ってきた時に紹介する」
再度、小さく頷く。その人が神谷だろうか。
「えっと……あなたの名前は?」
「いず……」
名乗ろうとした時、男性が入ってきた。
湯呑みを乗せたお盆を持っており、脇に書物のようなものを挟んでいる。
「お待たせ」
湯気の立った湯呑みを、私と真由美さんの前に置いた。
「ありがとうございます……」
「そんな畏まらないで。それと敬語は使わなくていい」
真由美さんはフランクな口調で言ってきた。
今日が初対面だが、距離感を感じさせない。
姉がいたらこんな感じなのだろうか。
擬似家族のような場所で過ごしてきた私は、ふとそう思った。
男性が脇に挟んだ書物をちゃぶ台に置き、私に視線を合わせてくる。
「そう言えば名前言ってなかったよね? 僕は……」
「今、私が言った」
「じゃあ改めて。僕は遠藤直樹って言います」
「直樹くんでいいから。そっちの方が話しやすいでしょ?」
真由美さんが朗らかに言うと、直樹くんは優しく微笑んだ。
その暖かさに戸惑いが湧く。
「じゃあ説明しようか」
真由美さんは書物を捲り、私の前に差し出してきた。
【霊納師】 魂を納める者
【守霊師】 魂の守護者
【憑霊師】 魂を宿らせる者
【霊導師】 魂を導く者
【生梦葵】 生の道を作る者
と書かれている。
「私たちは霊師と言って、自死専門の霊能者なの。この霊納師って言うのが私ね。魂を回収するのが務め。さっき見たでしょ?」
さっきは突然すぎて状況が飲み込めなかったが、思い返すと視界に映ったすべてが信じられない光景だった。
あの黒い煙を覆った球体が人の魂……
「ちなみに僕は守霊師。魂を守るのが務め」
直樹くんは書物を指して言った。
「自殺した場所って陰の気が満ちるんだ。そこで命を絶つと、魂は黒になりやすい。回収できたとしても黒は怨念を残すから、後追いのように自死者が続く。だから護符を貼って気を浄化させるんだ」
「あのビルでは二人飛び降りてる。だとしたら魂は二つじゃないの?」
あの場には一つしかなかった。じゃあもう一人の魂はどこへいったのだろう。
「喰われたの」
真由美さんが言った。感情が剥落したような口調で。
「怨念の強い魂は別の魂を喰らい力を増す。さっきのは複合体。だから……もう一人の魂はもう帰ってこない」
死んだのなら帰ってくるはずがない。
なぜそんな言い方をしたのかが分からなかった。
「死者を増やそうとするのは力を蓄えるためなんだ。だから君は導かれた」
「その黒って言うのが、死にたいと思ってる人間を自殺させるんでしょ?」
直樹くんは頷く。
「なら死なせてあげればいい。それで解放されるんだから」
私の言葉が冷たい風のように部屋の空気を一変させた。
真由美さんも直樹くんも悲しそうに俯く。萎れた花のように。
「魂は霊界に行った後、次の体に宿り、来世を迎えるんだけど、自殺した魂は脆い心で生まれてくるの。だから救う。また同じ道を歩まないように」
もう帰ってこない。
その意味は魂が無くなり、来世に命を引き継げないということだった。
「こんな不条理な世界に生まれるくらいなら、あの場で死んで、魂を喰われた方がマシ。なんで……私のことを助けたの」
沈黙が降り、雨音が部屋を濡らす。
この人たちはきっと後悔しているだろう。
感謝すらしない人間を救ってしまったのだから。
あのまま死んでしまいたかった。
生きる気力もないし、永遠の中で眠っていたい。
もう誰も、私の命に触れないでほしい。
「でもね……」
真由美さんが沈黙を捲り、そっと口を開いた。
「魂は障害や困難を乗り越えると強度が増すの。ガラスのように繊細で割れやすかったとしても人は強くなれる。だから生きているうちに救わなければいけない。それをできるのが……」
真由美さんは私を指し、「君なの」と言った。
「名前は?」
「泉梨紗」
「梨紗はこれ」
真由美さんは書物に書いてある【生梦葵】を指した。
「結びの印が生梦葵の証」
左手の小指にある、糸で結ばれたような印。
知らない間に刻まれていたこれが、その証らしい。
「人が亡くなる夢を見るでしょ? あれは予知夢。今は力が不安定だから、どのタイミングで見るかは分からない」
「あっ」
「どうした?」
「さっきのビルで、女性が飛び降りた夢を見た」
前に夢で見た、ビルから飛び降りた女性。
白いワンピースを着て、遺書を残していた人。
さっきのビルは夢で見た場所だ。
遠くに見えた三棟のタワーマンション。確か三角形に配置されていた。高さ的にも同じくらいだったはず。
「自分の近くで亡くなる人を見るの。その人を救うために」
真由美さんはそう言った後、格子がデザインされたローボードを開けて、小さな木箱を取り出した。
「そこに仕舞ってたんですか?」
「文句ある?」
「もっと大切に保管してくださいよ」
「うるさいな」
真由美さんは口を尖らせながら蓋を開けると、中には綿に包まれた透明の勾玉が入っていた。
紐を通すのか、小さな穴が空いている。
「生梦葵だけが扱える勾玉。これを持ってると、夢で見る死を止めることができる」
「止める?」
真由美さんは勾玉を取り、私に差し出してきた。
「まずは握って」
そう言われ、勾玉を握る。
すると手の中で光が溢れた。指先から光線が漏れ、四方に散らばる。
握った勾玉に変化は感じられないが、胸が熱い。
心臓が先ほどよりも大きく胸を叩き、共鳴しているように感じる。
まるで命を握っているようだ。光が鼓動に合わせて明滅している。
数秒後、光は眩さを徐々にしぼませ、消失した。
「開けてみて」
真由美さんに言われ、ゆっくりと手を開く。
透明だった勾玉は薄い紫に変わっていた。
淡く優しい、柔らかな色。
「勾玉は梨紗ちゃんの魂と繋がっていて、力をもたらしてくれる。今までは夢で人の死を見ていたと思うけど、勾玉を通じて現実世界でも見られるようになる。しかも、僕たちも共有できるようになるんだ」
「もう一人で見なくていいし、抱えなくていい。私たちも一緒」
直樹くんが言った後、繋ぐように真由美さんが言葉を添えた。
枯れかけた命に寄り添うように。