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六月の紫陽花は雨に降られ美しく咲く  作者: 最下真人
【一章】 卯の花腐し
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六話 自死へと導く魂

 屋上に足を運ぶと、室外機のみが置かれた殺風景な景色だった。

 死ぬにはちょうどいい、そう思えるような場所だ。

 ビルの淵の前には黒い鉄製の柵。

 高さは腰ぐらいで簡単に登れそうだった。

 濡れる髪に重さを感じながら柵の前まで歩を進ませると、希望を掴むようにして錆びついた手すりに指をかけた。


 途端、恐怖心が湧き上がり、指先が震えて足先まで伝染する。

 私は咄嗟に手を離し、後退りした。

 情けない。

 死にたいと思っているのに、まるで生きたいと願うみたいだ。

 なぜ抵抗するのだろう。

 防衛本能でそうするのなら、余計なお世話だ。

 死なせてほしい。

 生きていても意味がない。

 どうか、勇気を授けて。

 一歩踏み出すだけの、小さなものでいいから。


 死を願うと、先ほど見た黒い煙が目の前を通った。

 旋回するように私の周りを飛んでいる。

 なぜだか嬉しそうに見えた。ここへ来たことを歓迎しているような。

 何周かした後、顔の前で止まった。

 よく見ると中央に球体があり、黒い煙状のものが覆っている形だ。

 正体不明のそれに、どこか安心感を覚える。

 導いてくれるような期待感、すべてを受け止めてくれるような肯定感。

 固く閉ざされていた死の門の鍵が、眼前に現れたように思えた。

 私は迷いなく右手を伸ばし、球体に触れる。


 すると、黒い煙状のものが指先を伝って全身を包んでいった。

 先ほどまでの恐怖が消え、死にたいという想いが湧き出るように溢れてくる。


――今ならできる


 いつのまにか球体は姿を消していた。

 でもそんなことはどうでもいい。

 やっとこの世界から消えることができる。

 ずっと思い続けていた死に指先がかかった。

 震えが止まった足が、一歩ずつ天国へと近づいていく。

 柵を乗り越え、ビルの淵に立つ。

 遠くには三角形に配置された三棟のタワーマンションが見える。

 灰色の空が纏う、くすんだ景色。

 もう見なくていい。

 もう傷を負わなくていい。


 これでやっと、雨が止む。


 目を瞑り、右足を踏み出そうとした時だった。

 体の中に衝撃が走り、何かが胸の辺りから出ていく感覚がした。


(けつ)


 後ろから男性の力強い声が聞こえ、足を戻す。

 目を開くと、透明な膜のようなものが私の周りに張られている。

 まるで結界みたいだ。

 半径三メートルほどの球体の中に私はおり、体を見ると纏っていた黒い煙が消えていた。


「ギリギリでしたね」


 振り返ると、二十代半ばくらいの男性が立っていた。

 隣には白い長羽織を羽織った女性がおり、手には水晶を持っている。


 男性は右手を体の前に出しており、人さし指と中指の間に、お札のようなものを挟んでいた。

 お札の上部には『結』という文字が書かれており、下部には梵字(ぼんじ)のようなものが見える。


「怨念が強いね、ちょっと手こずるかも」


 女性は私の上を見ていった。

 視線を辿ると、黒い煙を纏った球体が透明の膜に体当たりをしている。

 中に入ろうとしているようだ。


「待っててね、なるべく早く終わらせるから」


 女性は私に向けて言った後、一歩前へと出る。

 その瞬間、球体は体当たりを止め、纏っていた黒い煙を二回りほど大きくした。

 まるで女性を威嚇するように。


「魂と言えど、女には優しくするもんだよ」


 そう言った後、女性は手に持っていた水晶を体の前に突き出した。


厭悪(えんお)に繋がれし魂よ、黒納(こくのう)の式により、憎しみで染まる邪念を鎮めよう。導くは霊納(れいのう)の師。魂を納め霊界へと逓送(ていそう)する」


 女性が唱えると、水晶が光りだす。


「水晶よ、黒き魂を納めたまえ」


 言下、黒い煙を纏った球体が水晶の方へと吸い寄せられていく。

 だが球体は抵抗し、踏ん張りながら反対方向へと進もうとしている。


 何が起こっているか分からなかった。

 今が現実なのか夢なのかも定かではない。

 ただ目の前の出来事を傍観し、茫然と眺めていた。

 なんでここに来たのだろうか。

 なぜここに立っているのだろうか。

 それすらも、理解できなかった。

 だけど死にたいという気持ちだけは、はっきりと認識できた。


 初めは均衡していたが、徐々に形勢は女性の方に傾いていった。

 後ろ髪を引っ張られるように、球体を覆う黒い煙が少しづつ水晶へと引き寄せられていく。


「ギャァァァァァァァー」


 球体は耳を(つんざ)くような、けたたましい声を上げた。

 鼓膜を突き破られると思い、私は耳を塞ぐ。


「抗うな。お前の居場所はここじゃない」


 女性がそう言った後、水晶は一層強い光を放つ。

 球体はどんどん引き摺り込まれていくが、それでも抵抗をやめない。


「ここまでよくぞ耐え抜いた。その闇夜の鎖はここで断ち切る。だが、苦しみの果てに残した因果は我が心に刻もう」


 女性の言葉で観念したのか、球体の抵抗する力が弱まった。

 最後は唸り声を上げながら、悲しい余韻を残して水晶の中へと納められた。透明だった水晶が黒く濁る。


「よし、終わり。後宜しく」


「はい」


 男性は顔の前にお札を持ってくると、


「護符よ、漂う陰の気を祓い彷徨う魂を守りたまえーー(めい)


 お札の文字が『結』から『明』に変わると、男性は壁にお札を貼る。

 すると、私の周りに張っていた透明の膜が、泡が弾けるように消えていった。

 先程までは重く暗い雰囲気だったが、今は(もや)が晴れたような感覚がある。


「空気が変わったでしょ?」


 女性が私のそばまでくると、笑顔を向けてそう言ってきた。

 大人びた顔立ちの中に可愛さも居住する。

 年齢は三十代前半くらいだろうか。

 華やかさがあり、綺麗な人だった。


「今のは自殺した魂。あなたを死に導こうとしていた」


 さっきの黒い球体のことを言っているのだろうか。


「自殺した魂は現世に留まる。まあ、それだけだったらいいんだけど、怨念がこもっていたり、長い間彷徨っていたりすると、(こく)と言われる魂に変わるの。黒は死を考えてる人間を引き寄せて自死へと導く。さっきのがまさにそう」


 確かに死のうとした。

 今までできなかったのに、なぜか恐怖心が消えた。

 この人の言うことが本当なら、私は導びかれていたということだ。


「ちなみに、黒に変わる前の魂は(はく)って言うんだ」


 男性が来てそう言った。

 表情には優しさが滲み出ており、柔らかく安心させるような声だった。


「自殺の名所ってよく人が亡くなるでしょ? あそこまでいくと回収するのが難しいんだよね。強すぎてこっちが憑かれるから」


「真由美さん、まずは彼女をこっち側にこさせた方が……」


「ああ、そうだった。危ないからおいで」


 そう言われ、自分が淵に立っていることを思い出す。

 下を見ると、濡れたアスファルトが視界に映った。

 その瞬間、恐怖心が舞い戻ってきた。

 咄嗟に手すりに掴まり、力強く握り締める。


 まだ私は生きたいと思っているのだろうか。

 ずっと死にたいと願っているのに、無意識に拒否反応を起こす。

 こんな価値のない命なのに。


「あっ!」


 女性が急に大声を出した。それに驚き私の肩がビクッと動く。


「直樹、これ」


 彼女は私の左手の小指を差した。リボン結びのタトゥーのような印を。


「あっ!」


 男性も同じように声を上げる。

 二人は、口を半開きにしながら顔を見合わせていた。

 この印に何か意味があるのだろうか。

 そう思っていると、女性が私に視線を向けて優しく微笑む。


「やっと見つけた」

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