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六月の紫陽花は雨に降られ美しく咲く  作者: 最下真人
【一章】 卯の花腐し
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五話 天国の入り口

 小雨が降る土曜日。

 部屋の中に差す灰色の光で目が覚めた後、窓を撫でるように落ちていく雫をベッドから眺めていた。

 すりガラスから見る外の世界は、ぼやけてくすんでいる。 

 私の瞳と一緒。

 生まれてから今日まで、晴れた景色を覚えていない。

 青い空を最後に見たのはいつだったのだろう。

 そもそも見たことがないのかもしれない。

 もはや、それすらどうでもいい。


 今日は学校が休みだ。

 普段なら外に出るが、この季節はそれすら億劫になる。

 今日は部屋で一日中過ごそう。

 唯一といっていい居場所であり、外の世界を遮断する四畳半の天国。

 誰にも邪魔されないし、誰にも会わなくて済む。

 家族が旅行に行っている時は尚良い。

 ベッドで横たわり、お気に入りのプレイリストを聴く。

 死を分かち合えるような曲目を永遠にループさせ、一枚、一枚、花びらを落とす。

 命という花の。


 ドンッ


 部屋の扉が急に開き、父が入ってきた。

 ノックもせずに。


「おい」 


 私はイヤホンを外してベッドから体を起こした。

 音色で覆われた秘密基地から足を踏み出し、心臓を晒す。


「学もない奴が、なんで寝てるんだよ。お前みたいな社会の底辺は、人の何倍も努力しないと生きてる価値なんてないぞ」


 罵倒という雨が私の世界に降り注ぐ。そしてまた、心が色褪せ枯れていく。


「あんな学校で一番も取れない奴が、よくこの家に居れるな。親族の恥なんだよ、お前は」


 唯一の居場所である自分の部屋ですら、平穏に過ごすことができない。

 いっそのこと殺してほしい。

 必要のない人間なら廃棄すればいい。

 苦しんで生きるぐらいなら、雨が降り続くなら、こんな命など消えてしまえばいい。


「ちょっとあなた、そんな大声あげないでよ。可哀想じゃない」


 母の言葉で雨が降り止んだ。

 溜まった水が抜けると、私は自然と大きく息を吸った。


「こんな奴を庇うのか? 無能の役立たずを」


「違うわよ。駿が勉強してるから集中できないでしょ? それに近所の人に聞かれたら困るじゃない。学もない人間が、うちに居るなんて知られたら」


 少しだけ期待したのが間違いだった。

 母も父と一緒だ。

 学歴がすべて。それ以外は空気と変わらない。

 だから私はこの家では存在しない。不必要な人間だから。


「確かにそうだな」


 父はポケットから千円札を取り出し、私の前に放り投げた。


「適当につまみ買ってこい。馬鹿でもそれくらいはできるだろう」


 父と母は部屋から出て行った。

 安寧の地に大雨を降らせ、荒廃という余韻を残して。


 部屋着から着替えた後、コンビニに向かうため玄関に向かった。

 靴を履き替えていると、弟が二階から降りてきて私を一瞥する。


「フンッ」


 鼻で笑い、そのままリビングへと入っていく。

 消えてしまいたい。泡のように弾けて、初めから何もなかったように。


 *


 涙のような雨が傘を叩く。憂いながら、ぽろぽろと泣くように。

 灰色に覆われた住宅街は、異様な静けさだった。

 人工的な音が一切感じられない独特な空気感。

 啜り泣く雨のみが鼓膜に届く。

 死ぬならこんな日がいい。

 誰にも知られないまま、ただ静かに命を廃棄する。

 生きていたことを周りに忘れ去られるような、そんな消え方をしたい。

 ずっと勇気が欲しいと願っていたが、今日ならできるかもしれない。

 稚拙な物語を破り捨て、醜い花を泡沫のように散らせる。

 そんな勇気が持てそうだった。


 マンションが並ぶ通りに来ると、古びた雑居ビルが目に入った。

 壁は剥がれ、ところどころにヒビが入っている。

 出入り口から少し離れたところに献花が供えられており、雨に打たれて萎れていた。

 先日、女性が飛び降りて亡くなったらしい。

 二十代の女性だと近所の人が話していた。 

 今年の頭にも男性が飛び降り、今では自殺の名所とも囁かれている。


 献花の前に立ち、花を見下ろした。

 白い百合が濡れながら俯いている。

 まるで涙を流しているみたいだ。

 これ以上雨に打たれないように、私は差していたビニール傘を地面に置いた。

 死んだ後も雨に濡れたくない。


 羨望を抱きながら立ち去ろうとした時、黒い煙のようなものが、目の前を通り過ぎていく。

 視線で追うと、ビルを這うように屋上へと昇り、姿が見なくなった。


ーー私を呼んでいる


 なぜだかそう感じた。

 それに、望みを叶えてくれそうな気も。

 何かに引き寄せられるように、私の足は自然とビルの中へと向かっていた。


 五階まで上ると、両脇の手すりを結ぶように鎖が繋がれていた。

 立ち入り禁止と書かれた看板が鎖にぶら下がっており、この先は侵入できないようになっている。

 だが、お構いなしに私は進んだ。

 その先に感じる希望を手にしたかったから。


 階段を上がると、錆びついた白い扉が見えた。

 握りを捻るが鍵がかかっている。

 飛び降りた人間がいれば、閉まっているのは当然だった。

 今日は死ねそうだと思っていた分、落胆に近い感情が芽生える。

 希望を纏った想いが胸の中で彷徨い、また居場所を探す。

 何度繰り返すのだろう。もう疲れた。

 どんな方法でもいいから、早く命を摘み取って燃やしてほしい。

 肺の底から息を吐き出し、踵を返す。

 すると「ガチャ」という音が後ろから聞こえてきた。

 鍵の開くような音。

 振り返り扉を見るが、変化は感じられない。

 ゆっくりと近づき再び握りを回すと、扉が開く。

 隙間から吹いてくる湿った風は、異様なほど冷たかった。

 

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