五話 天国の入り口
小雨が降る土曜日。
部屋の中に差す灰色の光で目が覚めた後、窓を撫でるように落ちていく雫をベッドから眺めていた。
すりガラスから見る外の世界は、ぼやけてくすんでいる。
私の瞳と一緒。
生まれてから今日まで、晴れた景色を覚えていない。
青い空を最後に見たのはいつだったのだろう。
そもそも見たことがないのかもしれない。
もはや、それすらどうでもいい。
今日は学校が休みだ。
普段なら外に出るが、この季節はそれすら億劫になる。
今日は部屋で一日中過ごそう。
唯一といっていい居場所であり、外の世界を遮断する四畳半の天国。
誰にも邪魔されないし、誰にも会わなくて済む。
家族が旅行に行っている時は尚良い。
ベッドで横たわり、お気に入りのプレイリストを聴く。
死を分かち合えるような曲目を永遠にループさせ、一枚、一枚、花びらを落とす。
命という花の。
ドンッ
部屋の扉が急に開き、父が入ってきた。
ノックもせずに。
「おい」
私はイヤホンを外してベッドから体を起こした。
音色で覆われた秘密基地から足を踏み出し、心臓を晒す。
「学もない奴が、なんで寝てるんだよ。お前みたいな社会の底辺は、人の何倍も努力しないと生きてる価値なんてないぞ」
罵倒という雨が私の世界に降り注ぐ。そしてまた、心が色褪せ枯れていく。
「あんな学校で一番も取れない奴が、よくこの家に居れるな。親族の恥なんだよ、お前は」
唯一の居場所である自分の部屋ですら、平穏に過ごすことができない。
いっそのこと殺してほしい。
必要のない人間なら廃棄すればいい。
苦しんで生きるぐらいなら、雨が降り続くなら、こんな命など消えてしまえばいい。
「ちょっとあなた、そんな大声あげないでよ。可哀想じゃない」
母の言葉で雨が降り止んだ。
溜まった水が抜けると、私は自然と大きく息を吸った。
「こんな奴を庇うのか? 無能の役立たずを」
「違うわよ。駿が勉強してるから集中できないでしょ? それに近所の人に聞かれたら困るじゃない。学もない人間が、うちに居るなんて知られたら」
少しだけ期待したのが間違いだった。
母も父と一緒だ。
学歴がすべて。それ以外は空気と変わらない。
だから私はこの家では存在しない。不必要な人間だから。
「確かにそうだな」
父はポケットから千円札を取り出し、私の前に放り投げた。
「適当につまみ買ってこい。馬鹿でもそれくらいはできるだろう」
父と母は部屋から出て行った。
安寧の地に大雨を降らせ、荒廃という余韻を残して。
部屋着から着替えた後、コンビニに向かうため玄関に向かった。
靴を履き替えていると、弟が二階から降りてきて私を一瞥する。
「フンッ」
鼻で笑い、そのままリビングへと入っていく。
消えてしまいたい。泡のように弾けて、初めから何もなかったように。
*
涙のような雨が傘を叩く。憂いながら、ぽろぽろと泣くように。
灰色に覆われた住宅街は、異様な静けさだった。
人工的な音が一切感じられない独特な空気感。
啜り泣く雨のみが鼓膜に届く。
死ぬならこんな日がいい。
誰にも知られないまま、ただ静かに命を廃棄する。
生きていたことを周りに忘れ去られるような、そんな消え方をしたい。
ずっと勇気が欲しいと願っていたが、今日ならできるかもしれない。
稚拙な物語を破り捨て、醜い花を泡沫のように散らせる。
そんな勇気が持てそうだった。
マンションが並ぶ通りに来ると、古びた雑居ビルが目に入った。
壁は剥がれ、ところどころにヒビが入っている。
出入り口から少し離れたところに献花が供えられており、雨に打たれて萎れていた。
先日、女性が飛び降りて亡くなったらしい。
二十代の女性だと近所の人が話していた。
今年の頭にも男性が飛び降り、今では自殺の名所とも囁かれている。
献花の前に立ち、花を見下ろした。
白い百合が濡れながら俯いている。
まるで涙を流しているみたいだ。
これ以上雨に打たれないように、私は差していたビニール傘を地面に置いた。
死んだ後も雨に濡れたくない。
羨望を抱きながら立ち去ろうとした時、黒い煙のようなものが、目の前を通り過ぎていく。
視線で追うと、ビルを這うように屋上へと昇り、姿が見なくなった。
ーー私を呼んでいる
なぜだかそう感じた。
それに、望みを叶えてくれそうな気も。
何かに引き寄せられるように、私の足は自然とビルの中へと向かっていた。
五階まで上ると、両脇の手すりを結ぶように鎖が繋がれていた。
立ち入り禁止と書かれた看板が鎖にぶら下がっており、この先は侵入できないようになっている。
だが、お構いなしに私は進んだ。
その先に感じる希望を手にしたかったから。
階段を上がると、錆びついた白い扉が見えた。
握りを捻るが鍵がかかっている。
飛び降りた人間がいれば、閉まっているのは当然だった。
今日は死ねそうだと思っていた分、落胆に近い感情が芽生える。
希望を纏った想いが胸の中で彷徨い、また居場所を探す。
何度繰り返すのだろう。もう疲れた。
どんな方法でもいいから、早く命を摘み取って燃やしてほしい。
肺の底から息を吐き出し、踵を返す。
すると「ガチャ」という音が後ろから聞こえてきた。
鍵の開くような音。
振り返り扉を見るが、変化は感じられない。
ゆっくりと近づき再び握りを回すと、扉が開く。
隙間から吹いてくる湿った風は、異様なほど冷たかった。